救いの始まり

 「さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、
 自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。
 しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
 『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」(マタイ3:5-11)

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 バステスマのヨハネがヨルダン川でバステスマを授けている。
 そこに、パリサイ人やサドカイ人がバステスマを受けにやってきた。

 彼らは律法を人々に強要するが、自分ではやろうとはしない(たとえばマタイ23:3)。
 恵みによる救いを知らないことがイエスがまだ来られていないからであるにしても、行いによってすら救われようとせず、専ら血筋に救いの根拠を求める。
 何が人を罪に定めるかというと神の律法なのであるが、このパリサイ人たちのスタンスだと自分の内側に潜む罪に気付きようがない。

 ここヨルダン川には、大勢の人がヨハネのもとにやってきては自身の罪を告白している。
 この罪に気付くことこそが、救いの始まりである。
 そしてこのアダムの肉の罪は、恵みによってイエスのバステスマによる赦しを受ける。
 パリサイ人達は、律法を人々に強要しながらそれを自分に当てはめないために自身の罪そのものに無自覚であり、スタートラインにすら立っていない。
 それでヨハネは、やってきた彼らにしのごの言うのである。

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新しいエルサレム

 「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示21:1-4)

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 上の聖書箇所は、筆者ヨハネが見たままをそのまま記したもの、言い換えると黙示形式ではない箇所だろうと確信している。

 私たちは新しいエルサレムで神の民とされる。
 すべては過ぎ去った。
 そのとき神は、今まで流し続けてきたぬぐいきれない程の涙を、すっかりぬぐい取ってくださる。
 悲しみも叫びも、苦しみも怒りも、そして死も、ここに至ってすべては過ぎ去った。

 では何故神は、あのアダムの違反をすぐにも快復なさらなかったのだろう。
 それはおそらく、悪が悪と明らかにされてさばきを受けるためなのではないだろうか。

 ここにあるのは、神と人との関係が完全に修復された形なのである。

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[付記]
 初版 2008年11月 5日。
 二版 2010年 3月21日。

 今回少々筆を加えました。

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和解

 「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示3:19-20)

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 キリストは、愛する者を格別にお取り扱いになり、そして、その人の戸を叩く。
 キリストが叩いたのだと分かる者、キリストの声をそうと聞き分ける者は、その戸を開けてキリストを迎える。
 そこでキリストと共に囲む食卓は、神との和解の場だ。
 なぜ神との和解に至るのかというと、その人がキリストをキリストと、救世主を救世主と分かったからである。
 そうと分かるのは、ただ神の御恵みによる。

 「わたしは、戸の外に立ってたたく」。
 こちらから出掛けていってキリストを見つけるのではない。
 キリストがやってきて戸を叩く、それを待ち続ける。
 このように、神のわざは、どこまでも人間の側が受け身になる。
 懲らしめも、神がお与えになる。
 その懲らしめのない人は神から見放されている、ということをヒルティが書いているが、そのことは私もそう思う。

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[付記]
 本日の記事は、2008年11月3日付記事に筆を入れたものです。

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『勝利』ということ

 「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。
 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」(黙示2:10-11)

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 苦しみというものは、避けて通ることができない。
 「好事魔多し」という言葉だってある。
 そういうものに対して、どこまでもキリストに忠実であることが求められている。
 キリストも、十字架の苦難を受け容れ忍耐された。
 私たちを牢に投げ入れようとする人々に対する忍耐が、そのキリストにより試されている。
 そのようにして忍耐し通すことが、「勝利」である。
 格闘技で相手を倒すこととか、勢力が拡大することというのは、「勝利」でもなんでもない。

 そして、「勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない」という確約がある。
 この肉の身は、必ず一度死ぬ。
 避けて通れないこの死も恐いものだが、はるかに恐ろしいのは、ここでいう第二の死である。
 「勝利」とは、この第二の死を免れて永遠のいのちに生きることを指す。
 それは、自分たちを牢に投げ入れようとする人々に対する、最終的な勝利であるかも知れない。

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[付記]
 本日の記事は、2008年11月2日付記事に筆を入れたものです。

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パトモス

 「私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。」(黙示1:9)

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 イエスにある者は、そうでないこの世の者とは何かが決定的に異なる。
 品行方正だ、とか、いい人だ、というのではない。
 イエスにある者には、御国の約束がはっきりと見えているのである。
 彼が選んだのではない。彼は選ばされたのだ。

 世では、この世の者との間での苦難が絶えない。
 だが、御国を目の前に見て、救い主イエスに思いを馳せつつ忍耐するのである。
 私たち兄弟は、パトモスにいる。

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[付記]
 本日の記事は、2008年11月1日付記事を修正したものです。
 なお、2007年11月11日に、「パトモス」という同一のタイトルで書いていますが、内容は異なっています。

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霊的な聖書

 「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」(ローマ13:14)

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 大意としてはキリストのようになりなさいというところか。

 私たちが神の律法を守りきることができないために義とされず、神に救いを求めざるを得ない、それと同様に、私たちはキリストと同じようになることからは遙かに遠い。
 ローマ書の12章以降は別人が書いたのではないかといぶかる程だ。

 だが、「告白」を著したアウグスティヌスは、上の引用聖句で救われて信じることができた。
 その壮絶な過程については、書物「告白」に当たって欲しい。
(というのは、その壮絶さは信じる者の誰もが通る道なので。)
 聖書の言葉はきわめて霊的なもので、言葉のうわっつらの意味とはまるで違ういのちの意味を持って救いを求める者に迫ってくる。
 みことばはどれでも、光なのである。
 聖書が霊的なものであるとすれば、もっぱらこのような意味においてではないかと思う。

 この聖書は理詰めで書かれているものでもないから、互いに相反する記述というのがところどころある。
 だが、その聖書には救われるための全てが備わっていて、読む者の時期が熟したときに、いのちのことばとしての光を彼に放つのである。

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信じさせられる

 「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:9-10)
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 救いというのは本人には明らかなことであり、神と和解できて根底の部分での平安があることとでも書けばよいのだろうか、ともかく、救われていることとそうでないこととは非常に明確な違いがある。
 ところが、上の聖書箇所を読んで、信じているし口でごにょごにょ言ったので要件が満たされて自分は救わるようになると、そう思いこみやすい。
(かつての自分もまた、そうだった。)

 そもそも「信じる」とは何か、ということがある。
 全ては神の側に主権があるのであり、それはこと信仰についてもそうである(参/ローマ9:15-16)。
 だから、信じるという自分の自主的な選択ではなく、信じさせられるという他動的な力による承服の類なのである。
 他動的なその力と戦って、血みどろになって死ぬのである。死んで復活して承服する、これが信じさせられることであり、信仰を賜るのことである。
 これはまさにイエスが最初に通った道であり、私たちもその道を通る。
 このイエスの道を通った後では、その道を切り開いたイエスが主なのは、当たり前のことに過ぎない。
 「もしあなたの口でイエスを主と告白し、」というのが、そう言えば救われるという呪文の類と変わらないのであれば、それは意味がないと思う。

 救われて信心に至ったとき、私たちはその過程や心境について、人に言わずにはおれなくなるだろう。それほどの喜びなのだから。
 たまにしか更新しないこのブログも、その目的の第一は、信じさせられた喜びについて口で告白せずにはおれないからである。

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あわれんでくださる神による

 「神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。
 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」(ローマ9:15-16)

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 ことわざに、「天は自ら助くる者を助く」というのがある。
 そのとおりだ。この世で生きるためにはそれ相応の努力が必要であり、その努力は必ずや実を結んで報いられる。

 しかし、今日の聖書箇所にある「事」というのは、上のことわざのようなことではない。
 すべてアダムの肉を持つ人間に必要な、魂の救いのことを指す。
 その救いは、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と仰る神に全ての決定権があるのであり、人間の側の何らかの努力やわざの結果ではない。
 これが神の恵みである。「あわれんでくださる神による」のである。
 人間としては、恵みを求め祈ること以外に何ができるだろうか。

 この世のことはもっぱら自力で行う必要があっても、救われることについては全てを神の御手に委ねるしかない。

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