招待される者、選ばれる者

 「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。
 王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。
……
 王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。
 そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。
 だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』
 それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。
 ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。
 そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。
 そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。
 招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」(マタイ22:2-3,7-14)

---

 王子結婚の披露宴のたとえ。

 招待していた人々、すなわちモーセの座を占めていた人々は、ふさわしい人々ではなかった。
 そこで王様は、通りに出て誰彼構わず招き、宴会場はいっぱいになった。
 このように、非常に多くの者が招待される。
 誰でも招かれ、宴会場に入ることが出来る。
 モーセの座の人々にしても、もとから招待はされていた。

 ところがその宴会場の中に、礼服を着ていない者がいた。
 王子結婚の披露宴なのであるから、彼の非礼は明らかである。王様の怒りは当然だ。
 礼服を着ていなかった彼は、招待されはしてもそこにふさわしい者ではなかったので、放り出されてしまった。

 このたとえ話の中で、礼服非着用の彼が選びから真っ先に除外された理由は、比較的理解しやすい。
 では、「招待される者は多いが、選ばれる者は少ない」とあるのは、何によって選ばれるのであろうか。
 それは、ただ恵みによってである。
 そしてもう一つ、その恵みを祈り待ち続けることが必要だろうと思う。
 礼服非着用というようなぞんざいな姿勢では、やはり恵まれないのだろう。

---

[一版]2010年 7月30日
[二版]2013年12月22日
[三版]2016年 8月28日(本日)

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

イエスの人間くささ

 「翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。
 道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。」(マタイ21:18-19)

---

 何度でも書くが、イエスは人間の肉をまとった神である。
 だからこそ、そのイエスが十字架に架かったことに大きな意味がある。神が肉を自ら処分したのだ。
 それはさておき、肉をまとうイエスは腹が減った。

 いちじくの木が見えたので実を食べようと近づくと、そこには葉っぱしかなかった。
 実は落ちてしまったのか、それとも、先客が食べてしまったのか。
 イエスはむっときて、そのいちじくの木をたちまち枯らしてしまう。

 この、いかにも人間くさいところが、イエスが肉をまとっている所以である。
 イエスがいっときの感情に身を委ねていちじくの木を枯らしたというのは、正に私たちと同じではないか。
 公生涯を送っておられるイエスは、肉を有するという点で私たちと変わることがない。
 それゆえに、その肉を自ら処分して復活したイエスは私たちの弱さを分かってくださるのである。

---

[一版]2010年 7月28日
[二版]2013年12月20日
[三版]2016年 8月27日(本日)

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

神の国と世知

 「ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』と言った。
 兄は答えて『行きます。おとうさん。』と言ったが、行かなかった。
 それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません。』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。
 ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは言った。「あとの者です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。
 というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」(マタイ21:28-32)

---

 イエスと祭司長たちとの論争より。

 イエスは彼らに告げる。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。」
 大ベテランの祭司長よりも、聖書にはしろうとの取税人の方が先に神の国に入っているというのだろうか。

 取税人や遊女達は、自分の行ないの悪さ、つまり律法を守れてなどいないことに胸を痛めていたであろうし、また、日頃周り中からも責められ続けられていただろう。
 その彼らが、真っ先にバステスマのヨハネに救いを求めたのである。
 一方で、祭司長たちはヨハネを信じなかった。
 というより、主に政治的理由からヨハネを無視しただろう。自分の地位や立場が脅かされかねないのだ。
 彼らの政治的言動は、上の聖書箇所の少し前にも見られる。

 「ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。」すると、彼らはこう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。しかし、もし、人から、と言えば、群衆がこわい。彼らはみな、ヨハネを預言者と認めているのだから。」そこで、彼らはイエスに答えて、「わかりません。」と言った。」(マタイ21:25-27)

 この祭司長は、神や神への信仰のことなど、頭の片隅にもない。
 さらに言えば、彼にとって神と神への信仰とは、出世栄達の手段でしかないのかもしれない。
 自分が律法に到底かなわない存在であるとは、想像すらできない。ここが、取税人達との最も大きな違いである。

 救われるためには、自分が神の律法を何一つ守れていないということに気付く必要があり、それが救いの第一歩である。
 なぜなら、この気づきなしには、救いの必要そのものがわからないからである。
 「私は罪人です」と言う人は数多いが、頭だけの理解など何の役にも立たない。
 神の律法に照らして自分が罪人であることがすとんと胸に落ちたときに、その罪による苦しみが芽生えてくる。取税人や遊女達はそうだった。ここが第一歩なのである。

 大ベテランの祭司長は、今もってして罪が分からず、それどころかよけいな世知ばかり身に付いてしまった。「わかりません」という満点の回答を言ってのける信心というのは、実は気の毒な人なのかもしれない。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

怒るイエス

 「それから、イエスは宮にはいって、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」(マタイ21:12-13)

---

 宮清め。

 イエスは、怒っている。
 祈りの家であるべき宮が、強盗の巣に成り果ててしまっているからだ。
 イエスは時々怒る。例えば、マルコ10:14「イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。」。また、マタイ23章は丸ごと「怒りの章」と言ってもいいだろう。
 公生涯において、イエスは我々人間と同じように、きわめて人間的に怒っている。
 それはイエスが、人間の肉をまとっているからに他ならない。
 イエスは、時に憤り怒る人間の私たち肉の弱さを、身をもってわかっている神なのである。
 だからこそ、復活のイエスは私たちに同情できる大祭司(ヘブル4:15)として、神と私との間のとりなしができるのである。

---

[一版]2010年 7月27日
[二版]2013年12月18日
[三版]2016年 8月13日(本日)

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

なにゆえにイエスを喜ぶのだろう

 「そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」
 こうして、イエスがエルサレムにはいられると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか。」と言った。
 群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ。」と言った。」(マタイ21:9-11)

---

 イエスのイスラエル入城。

 イエスは群集から、あらんばかりの祝福を受けている。
 ただ、その祝福は、イエスこそローマの支配から解放してくれるだろう、というものであり、それでイエスに「ホサナ」と叫んでいる。

 一方イエスは大分前から、「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」(マタイ16:21)。
 イエスは、多くの苦しみを受けて十字架に架かるために、エルサレムに入る。
 それは、人間の肉の罪を処罰するため、そして復活を通して、そのことを信じる人間が罪赦されるためである。

 群集とイエスとの間の、このあまりのギャップ。
 群衆達の、徹底した無理解。
 だから気付くと、この群集はのちに「十字架につけろ」(マタイ27:22)などと、真逆のことをイエスに向かって叫びだす。

 そうすると、なにゆえにイエスを喜ぶのだろうか。
 一体どのような期待を、イエスに持つのだろう。
 ローマ支配からの解放のような全くの筋違いを、私たちは求めてはいないだろうか。

 しかし、たとえそうであっても、恵みによって復活のイエスに出会うと、なにゆえにイエスを喜ぶのか、イエスに真に期待するものが何なのかが、瞬時にしてはっきりわかるようになる。
 だから最初はみな、上の群集と同じなのだ。

---

[一版]2010年 7月26日
[二版]2013年12月17日
[三版]2016年 8月 7日(本日)

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

救いは果たして、能力主義だろうか

 「すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」
 そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」と叫び立てた。
 すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」
 彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」
 イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。」(マタイ20:30-34)

---

 エリコの盲人たち。

 群集の制止にもめげず、エリコの盲人たちはその盲目の癒しをイエスに求め続け、イエスは彼らの願いをかなえる。

 なぜイエスは、エリコの盲人たちにあわれみを示したのだろう。
 口がうまかったからか。
 声が大きかったからか。
 そうではなくて、あきらめなかったからではないだろうか。
 異邦人の女の願いを聞き届けたときも、そうだった(マタイ15:22-28)。
 彼女にしても、会話にペーソスが効いていたからイエスがあわれんで下さったのだろうか。

 もし、口がうまいとか、声が大きいとか、あるいは頭の回転が速いとか、そういうことで救われるのだとしたら、人間の救いはその人の能力に応じてなされるということになってしまう。
 救いは果たして、能力主義だろうか。
 そうではなく、エリコの盲人たちも異邦人の女も、冷遇や制止にめげずに救いを求めたから、イエスが彼らをあわれんだのではないか。
 それと同じで、私たちはあきらめずに願えば、十字架のイエスに救いを得ることができるのである。
 人間的な能力は、そのとき全く問われない。

---

[一版]2010年 7月25日
[二版]2016年 8月 2日(本日)

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )