罪について、義について、さばきについて

 「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
 また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」(ヨハネ16:7-11)

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 イエスが去ることによってはじめて、「助け主」が使わされる。

 その「助け主」は、それを遣わされた人に世の誤りを気付かさせる。
 それによってその人は、その世から救い出される。
 世の誤り、それは「罪について、義について、さばきについて」である。

 まず、イエスを見、イエスから聞いたにもかかわらず、イエスを信じなかったという罪。
 罪とは律法を守れないことだが、預言者達によって預言されたキリスト・イエスをキリストと信じることができなかったことの罪深さをいう。
 次に、そのイエスが「父のもとに行」く、つまり神の元に戻る存在なのであるから、神が義であればイエスは当然に義なる存在であるが、そのイエスを信じることができないのである。
 最後に、イエスが十字架に架かることで「この世を支配する者がさばかれ」るのである。
 「この世を支配する者」とは、人間の肉( human nature )のことである。
 人間の肉というのは平たく言うと人間の汚点のようなものであろうか。
 人間がどろどろと形成する世は、この肉にまみれている。
 人間の肉と同じ肉を持ったイエスが十字架でさばかれるというのは、痛みを伴わずに人間の肉をさばくということだ。
 イエスはこのさばきのわざののちに復活して、そして父の元に戻る。
 そしてイエスは、「助け主」を恵みによってお送り下さる。

 「助け主」が遣わされると、「罪について、義について、さばきについて」の世の誤りを思い知らされる。
 イエスこそが義なのであり、私達のうちには義はない。あるとすれば、義と認められることだけである。
 また、自分の肉はこっぱみじんにさばかれて、神の律法から自由だ。
 そういうことは今まで全く分からなかったが、イエスが恵みによって遣わした「助け主」が、これらイエスとイエスについてのことを信じさせてくださるのである。

 それで、イエスが去ってゆくことは「あなたがたにとって益」なのである。

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つまずくことのないために

 「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。
 人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。
 彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです。
 しかし、わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。わたしが初めからこれらのことをあなたがたに話さなかったのは、わたしがあなたがたといっしょにいたからです。」(ヨハネ16:1-4)

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 さくじつの記事の続き。

 会堂というのはシナゴーグ、すなわち、コミュニティーのほぼ全てという位のもの。
 そこから追放されるであろう、イエスはそう話す。
 なぜなら、神も神の子も分からない闇は、そうではない光を放逐することこそ正しいと思っているからである。

 コミュニティーからの追放というのは、大きな逆境だ。
 だがそれでも、光がつまずくことはない。
 何故なら、イエスからあらかじめ聴かされていたことが起こったというだけのことだからである。
 だから光は、ますます光としての確信を強める。
 このように、イエスと出会って「いのち」をいただいた人が、「いのち」からつまずくことはない。
 闇と比べて、「いのち」があまりにも素晴らしいものだからである。

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救いに伴うことがら

 「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。
 もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。」(ヨハネ15:18-19)

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 これから罵声を浴び、むち打たれ、そして十字架に架かるイエス。
 それ以前からも、イエスは幾度石を投げられて殺されそうになったことか。
 人としてのイエスの人生は、多くの人から憎まれ続けた人生だったといえる。
 それは「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。」(ヨハネ3:19)とあるように、光と世との対立構造に由来する。
 光は世に、救いの手を差し伸べた。
 イエスが人間の肉をまとって来られたというのが、その救いの手である。
 しかし、世は「光よりもやみを愛」する、もっと言えば、闇を愛し光を憎む性質を持っている。

 もしも、その世に属するのであれば、その人は世からは愛されるだろう。
 だが、イエスの選びによって、その世から選び出されて光の側に連れてこられる人がいる。
 すなわち、恩人イエスによって闇から救われた人のことだ。
(なお、「救い」は死後のことではない。そうだとしたら、イエスは自らの朽ちた死体を十字架につけたことだろう。)
 闇を愛し光を憎む特性は、当然にその人を憎む。
 だが、「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。」とイエスは仰るのである。

 神の子イエスがとうに体験していることと同じ道を歩む、救い出された人はこのことを覚悟する必要がある。
 そしてそのこともまた、救われた喜びを大きくするのである。

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イエスの選び

 「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。
 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:15-16)

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 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命した」のである。
 つまり、恵みによる選びというのは、ある。
 その選びはただ恵みによるのであって、わざによるのではない。
 言い換えると、「……したから救われる」という因果なのではなく、選びはほぼランダムなのだ。
 イエスが何を思ってか、その人を選ぶ。これが恵みである。

 そしてその人は、イエスの狭き道を通って救いという「実」にあずかる。
 そのことが、聖書の無謬性を確かなものにする。
 つまり、その人がいのちという「実」を結実することが、互いに同じことを知っている御父、また友イエスを喜ばせるのである。

 イエスとの関係は、最初は師弟関係であっても、そのようにして互いに友と呼び合う深き関係に入る。
 それは、イエスが御父から聞いたことを共有できるからだ。
 御父から聞いたことというのは、いうまでもなく、御父が人間を救うことについて、すなわち、イエスの十字架と復活についてである。
 「実」を結んで、この十字架と復活とを共有するので、イエスと私たちは友になることができる。

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イエスの愛

 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

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 イエスは父の戒めを守り、そして守り通そうとしている。
 それは肉に処罰を与える十字架への道であり、その道を歩むことでイエスは父の愛の中にとどまっているのだという。
 つまり、父からの使命を守り通そうとするイエスを、父は愛し続けている。

 では、イエスが私たちに与えている戒めとは何であろうか。
 たとえば「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)の箇所に取れば、言葉尻が合う。
 だが、そう取ると、全体の意味はぼやける。
 今ここで言っているのは、父と子の間の愛そして子と人との間の愛についてのことだからである。

 さてイエスは今まさに、十字架に架かろうとしている。
 父の愛の中にあって、十字架を完徹しようとするイエス。
 そのイエスの愛とは、人を救うために自らを捨てる愛のことである。
 そうであれば、そのイエスの捨て身の愛の中でイエスの十字架(と復活)を信じるわざにあずかろうとすることが、私たちに課されていることではないだろうか。
 まさに、「信じるわざ」なのであり、それを通して、私たちはこのイエスの愛の中にとどまることができる。
 そのとき聖書は、ご利益宗教などとは全く異なる輝きを放つようになる。

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ヨハネ15:8

 「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(ヨハネ15:8)

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 ギリシャ語は全く分からないので、正確を期したいときには英語の聖書を付き合わせてみる。
 そうするとこのヨハネ15:8は、

" By this My Father is glorified, that you bear much fruit; so you will be My disciples. " (NKJ)

"My Father's glory is shown by your bearing much fruit; and in this way you become my disciples " (TEV)

となっていて、大意としては「あなたがたの多くの実を(御父に?イエスに?)持ってゆくことで御父は栄光を受ける;そしてあなたがたは私の弟子になる」くらいだろうか(英語も苦手だ)。
 上の新改訳とは、ニュアンスがかなり異なってくる。
 特にイエスとの師弟関係に入るための要件が異なる。
 新改訳は、新共同訳や口語訳とは大差はないので、そうするとこれは日本語訳と英語訳とのニュアンスが異なるという形になる。
 想像でしかないのだが、原典の訳出自体が難しい箇所なのだろう。

 このヨハネ15:8は、多分とても大切な箇所なのだと思うのだが、そういうわけでよくわからないのが残念だ。
 ただ、聖書のことばは、日本語だとか英語だとか原典という文字の上っ面、そういうものをはるか越えて、あるときその人に入ってくる。
 そのようにして聖書のことばが入ってくると、イエスについての全てのことが分かるようになる(参/ヨハネ14:26)
 文字面では分かりづらいこのヨハネ15:8で救われる人も、もちろんたくさんいるはずだ。

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イエスにつながって結ぶ実

 「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
 ……
 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:1,4-5)

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 ヨハネ14:20に「その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」と、イエスと私たちとの相互性を悟ることについて記されているが、上の聖書箇所も、その相互性に基づいたものである。
 その相互性とは「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝」という師弟関係の上での相互承認関係であるが、いずれにせよ、「その日に」わかったことが前提になっている。

 さて先日、「実=いのち」仮説をやってみたのだが、15章を読み進めるほどに、この仮説は無理が広がってゆく。
(「多くの実」について、複数の英語辞書では "much fluit " とある。「いのち」はたくさんあるものではない。)
 ともかく、イエスという木につながった私たちが結んだ「実」は、農夫である御父が収穫なさるものである。
 イエスを離れてしまっては、私たちは御父が収穫なさるような何かを、全く結ぶことができない。
 このように私たちは、イエスを仲介して御父と密接に関係しているのである。
(このことが、「いのち」の回復である。)

 御父が喜んで収穫なさる「実」とは、何だろう。
 イエスにとどまって初めて結ぶ「実」。
 その「実」は、イエスとの相互関係にあることによる副産物に違いない。
 「実」とは、律法の行いではない。そんなことは肉にはできない。
 善行かも知れないが、では何を基準に善を善とするのであろうか。
 人格的成熟というのは、イエスのメッセージとは関係がない。
 個人的にはいまのところ、イエスと共にいること自体が「多くの実」なのではないかという気がしている。

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刈り込みという恵み

 「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」(ヨハネ15:1-2)

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 あくまで仮説として。

 まことのぶどうの木はイエス、農夫は父、そして一人一人は枝に例えられている。
 その枝は、イエスという木から伸びている。
 あるいは、他の木から伸びた枝もあるだろう。
 ともかく、イエスという木から伸びる一本一本の枝が私たちである。

 ところでこの聖書箇所について、私は「実」を「いのち」と解したいのだが、そうすると5節の「多くの実」の解釈に難がある。
 そのことを承知の上で記すならば、御父は、いわば見込みのない枝は容赦なく取り除いてしまい、「いのち」という実をつけるような枝には更に刈り込みをなさる。
 その「見込み」というのは、あくまで御父の見立てなのであって、隣人、同僚、牧師・神父その他の見込みとは全く異なるところが恐ろしいのである。
 この恐ろしさこそ御神の恵みなのであって、わざによる救いとは根本的に異なる点である。

 刈り込まれた枝は、「永遠のいのち」が与えられてイエスとの相互関係にある。
 そしてその刈り込みが大きな痛みを伴うものであっても、そのことによってイエスと共にある「永遠のいのち」を更に実感することができよう。

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父の命じられたとおりに

 「わたしは、もう、あなたがたに多くは話すまい。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることはできません。
 しかしそのことは、わたしが父を愛しており、父の命じられたとおりに行なっていることを世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」(ヨハネ14:30-31)

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 イエスは、ご自身に対してこの世の支配者は何もできないと言っている。
 その後イエスは捕らえられ、拷問を受け、極刑の十字架に処せられる。
 だがこれは、この世の支配者によってなされたことではない。
 イエスはただ、「父の命じられたとおりに行なっている」のである。
 十字架につけられたのではない。
 十字架にかかったのだ。

 イエスは、極刑の十字架にかかるためにこの世に来られた、肉をまとった神の子である。
 その肉は、ただ一点を除いて、人間のそれと変わらない。
 神の子イエスの肉は人間の肉とは違って、罪なき肉、律法を完全に遵守できる義なるものなのである。
 その肉が、極刑として処せられる。
 それは、罪を宿す「肉」というものへの処罰である。
 いいかえると、律法を到底守ることのできない人間への神からの罰、その代替が十字架なのだ。
 それでこそ、イエスの十字架を信じる者は救われるのである。
 その人は罪赦され、義と認められる。

 もしもこの世の支配者がイエスを十字架につけたのだとしたら、イエスはただの極悪人にすぎない。
 そして、世の多くの人々にとってはそうなのだ。
 しかしそうではなく、イエスが「父の命じられたとおりに行なっている」と分かるならば、イエスの十字架の意味はおのずと異なってくる。

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「助け主」を送って下さる際のことについて

 「このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。
 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。
  『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る。』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。」(ヨハネ14:25-28)

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  『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る』。
 この「去って行き」の文中には、十字架と復活とが含まれている。
 イエスが去って御父のもとに行くことを私たちが喜ぶのは、イエスの御名によって(すなわちイエスのおかげで)御父が私たちに「助け主」とも「聖霊」ともいうべき何かを送って下さる、その条件が整うからだ。
 その条件が既に整った今、恵みによってその「何か」が送られると、今まで全く分からなかったイエスのお言葉、すなわち、「いのち」にまつわるすべてのことが一瞬にして分かるようになる。
 それが分かると、この世でいうところの「平安」とは異なる類の平安が付随して得られる。「いのち」が分かったからだ。
 それで、イエスが御父のもとに行くことは、とても喜ばしいのである。

 さてイエスは、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」と仰っている。
 何を恐れるのだろうか。
 イエスが与える平安を恐れるとか、「助け主」を恐れるわけではない。
 そうではなく、「助け主」を送って下さる際のことについて、「心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」とアドバイスしてくださっているのである。
 そのときには、かつてなかったほどの、ひとりぼっちの苦しみが続くからだ。
 それはイエスの十字架での苦しみのようであり、そして聖霊が与えられることはイエスのよみがえりのようである。
 この十字架の道は狭いのである。しかも、狭い道を歩もうとして歩んでいるわけではない。
 このことが恵みなのだ。

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