苦難に寄り添う主

 「私は、私の骨を、みな数えることができます。
 彼らは私をながめ、私を見ています。
 彼らは私の着物を互いに分け合い、
 私の一つの着物を、くじ引きにします。

 主よ。あなたは、遠く離れないでください。
 私の力よ、急いで私を助けてください。
 私のたましいを、剣から救い出してください。
 私のいのちを、犬の手から。
 私を救ってください。獅子の口から、野牛の角から。

 あなたは私に答えてくださいます。
 私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、
 会衆の中で、あなたを賛美しましょう。

 主を恐れる人々よ。主を賛美せよ。
 ヤコブのすべてのすえよ。主をあがめよ。
 イスラエルのすべてのすえよ。主の前におののけ。
 まことに、主は悩む者の悩みを
 さげすむことなく、いとうことなく、
 御顔を隠されもしなかった。
 むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。」(詩22:17-24)

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 ダビデの賛歌。

 18節「彼らは私の着物を……」は、マタイ27:35で十字架のキリストに成就する。
 このキリストは、主に助けを呼び求める。
 「私の力よ、急いで私を助けてください。」

 だが、この詩は突然、主への讃美に切り替わる。
 キリストは十字架に死に、しかしこの主によってよみがえった。
 「御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。」

 有史以来の人間で、すべての人の罪を背負う十字架に死んで三日目によみがえるという程の苦難の道を歩んだ者は、いない。
 その苦難の道の歩みを、神は常にご覧になって下さっていた。
 それどころか、助けを呼び求めたとき、神は聞いて下さった。

 人類を救うために歩んだキリストの苦難の道のりを、神は寄り添って下さっていた。
 そうであれば、私たちが苦難に遭うときも、その苦難を体験なされたキリストは、その道のりを共に寄り添って下さる。
 今までもそうであったし、これからもそうであろう。
 それゆえ、「主を恐れる人々よ。主を賛美せよ。」と、はばからずに叫ぶのである。

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罪への悟り

 「だれが自分の数々のあやまちを
 悟ることができましょう。
 どうか、隠れている私の罪をお赦しください。」(詩19:12)

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 ダビデの賛歌。

 アダムの違反以来、人間の肉に罪が入ってしまった。
 この罪の厄介なところは、なかなか悟ることができないところにある。

 この罪は、自分自身の価値判断とは全く異なる基準による。
 ではどのような基準に依るのかというと、神が与えられた律法である。
 律法は、人に罪を悟らせるためにもっぱら存在するといってもいい。
 だからといって、律法に精通すればそれで罪を悟ることができる、ということもない。
 まさに「だれが自分の数々のあやまちを 悟ることができましょう。」ということになる。

 しかし、律法に無知でも精通していても、ただ神の御恵みによって自身の罪を悟ってもんどり打つということがある。
 その人は、細き救いの道、その入り口に立ったのである。
 罪を悟った苦しみの果てに、復活のキリストが彼に現れ、「隠れている私の罪をお赦し」くださるのである。
 このキリストの赦しが、救いのすべてであり、「いのち」の回復なのである。

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罪の性質

 「不法を行なう者らはだれも知らないのか。
 彼らはパンを食らうように、わたしの民を食らい、
 主を呼び求めようとはしない。」(詩14:4)

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 ダビデの詩。

 強者と呼ばれる者は、あたかもパンを食らうがごとく、神の民に不法を行う。
 だが、そのように詠った当のダビデも、神の民ウリヤに不法を働いてしまうのだ。
 罪のこの性質から、誰が逃れることができよう。

 罪から逃れることは、どうやってもできない。
 その罪を忘れることもまた、できない。
 ただ十字架のキリストが、この肉ゆえの罪を赦して下さるのである。

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求める救い

 「彼らはこう言うのです。
 「われらはこの舌で勝つことができる。
 われらのくちびるはわれらのものだ。
 だれが、われらの支配者なのか。」

 主は仰せられる。
 「悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、
 今、わたしは立ち上がる。
 わたしは彼を、その求める救いに入れよう。」(詩12:4-5)

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 主は、悩む人や貧しい人を救いに入れよう、そう仰る。
 救い、とは何だろうか。
 悩みの解決であろうか。
 豊かになることだろうか。
 しいたげからの解放だろうか。
 そういった事々の一番根っこの部分である「いのち」の回復、それが救いである。

 悩む人も貧しい人も、またしいたげる人も、神の御前に罪深い存在であることに変わりはない。
 だがその罪深い肉は、キリストの十字架と復活によって赦される。

 「だれが、われらの支配者なのか。」と偉ぶる人々さえ、罪に気付いて赦しを欲する時はある。
 そのときには、ただ神の御恵みによってキリストと出会うこともある。

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悪者

 「悪者はおのれの心の欲望を誇り、 
 貪欲な者は、主をのろい、また、侮る。
 悪者は高慢を顔に表わして、神を尋ね求めない。
 その思いは「神はいない。」の一言に尽きる。
 彼の道はいつも栄え、
 あなたのさばきは高くて、彼の目に、はいらない。
 敵という敵を、彼は吹き飛ばす。
……
 彼は心の中で言う。
 「神は忘れている。顔を隠している。
 彼は決して見はしないのだ。」(詩10:3ー5,11)

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 「悪者」というのは、ここでは、神とその秩序を無視する者、位の意味合いであろうか。
 そのような者ほど、表面上栄える。
 表面上、とは、物質的な栄え(マモニズム)のことで、神の栄光とは全く異なるし、神の秩序とは寧ろ逆の方向にあるものだ。
 このような者は神を無視しているが故に、「敵という敵を、彼は吹き飛ば」して
、何とも思わない。
 自分のためならば、何をやっても平気、そういう人種である。
 神とその秩序を無視し、挑発さえしているからだ。

 しかしこの者にとって救いは、「神は忘れている。顔を隠している。彼は決して見はしないのだ。」と、神の存在そのものは認めているところにある。
 彼は実は、神を見出せないでいる、あわれな人なのだ。
 物質的な栄えが、なんの慰めになるだろう。
 この人は、知っている神を認めれば、ほんとうは一番欲しかったものをつかむことができるはずだ。

 救いようがないのは、本当に神を知らず全否定し、真顔で「神はいない。」と言う輩である。
 マモニズムにまみれ、自分の利益のためなら他人を平気で押しのける。
 この輩には、真の意味での希望も救いもない。
 神を全否定し自分が一番というこういう輩こそ、真の「悪者」である。

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シオンへの大路

 「万軍の主。あなたのお住まいは
 なんと、慕わしいことでしょう。
 私のたましいは、主の大庭を恋い慕って
 絶え入るばかりです。
 私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。
 雀さえも、住みかを見つけました。
 つばめも、ひなを入れる巣、
 あなたの祭壇を見つけました。
 万軍の主。私の王、私の神よ。
 なんと幸いなことでしょう。
 あなたの家に住む人たちは。
 彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。セラ

 なんと幸いなことでしょう。
 その力が、あなたにあり、
 その心の中にシオンへの大路のある人は。
 彼らは涙の谷を過ぎるときも、
 そこを泉のわく所とします。
 初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。」(詩84:1-6)

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 「シオンへの大路」という道路は、ない。
 しかし、「シオンへの大路」は心の中に、ある。
 詩人は詠う。「なんと幸いなことでしょう。 あなたの家に住む人たちは」。
 そこへの道のり。

 この道のりのさなか、涙の谷は避けられない。
 到達点まで、いくつもの涙の谷を下り、そして上ってゆく。
 かつてのそこは、泉となった。

 さあ、この道のりを歩んでゆこう。

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[付記]
 本日の記事は、2007年4月26日の記事に筆を入れたものです。

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公正

 「主は義によって世界をさばき、
 公正をもって国民にさばきを行なわれる。
 主はしいたげられた者のとりで、
 苦しみのときのとりで。
 御名を知る者はあなたに拠り頼みます。
 主よ。あなたはあなたを尋ね求める者を
 お見捨てになりませんでした。」(詩9:8-10)

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 世界は公正になど、できてはいない。
 しいたげる者と、しいたげられる者とがいる。

 だが、主は義によってさばきをなさる。
 そのさばきは公正だ。
 しいたげる者はさばかれ、しいたげられる者をお救いになる。

 だから、神を知るものは主により頼む。
 苦しみの時、主こそがとりでである。
 こうして尋ね求めてきた者を、主は決してお見捨てにならない。

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主を畏れる

 「主は御自分の民に贖いを送り
 契約をとこしえのものと定められた。
 御名は畏れ敬うべき聖なる御名。
 主を畏れることは知恵の初め。
 これを行う人はすぐれた思慮を得る。
 主の賛美は永遠に続く。

 ハレルヤ。いかに幸いなことか
 主を畏れる人
 主の戒めを深く愛する人は。」(詩111:9-112:1新共同訳)

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 上の聖書箇所は、ぱらっとめくれた箇所。
(違う詩をまたがって引用するのも、どうかと思うが。)
 どちらの詩にも「主を畏れる」とある。

 「主を畏れる人」、それは行いの人ではない。
 行わないことを恐れるのは、「主を畏れる」とは似て非なるものだ。
 似て非なるどころか、両者は全く異なる。
 行いの人が恐れるのは、単に人の目にすぎない。

 ではなぜゆえに主を畏れるのか。
 それは、主は私に「お前は罪人だ。罪を犯し続けている」と告げ知らせ、それどころか、いやが上にもそのことを自覚せざるをえない立場に追い込むからだ。
 そのことのために主がお使いになる道具が「戒め」、即ち律法だ。
 律法群に追い込まれてここに至ると、もう逃げ場はない。主は恐ろしい。自分の義など、どこにもない。

 ところが、この境遇に追い込むことで、神の恵みが働くのである。「行い」へと走らせるのではない。
 「主は御自分の民に贖いを送り
 契約をとこしえのものと定められた。」
 すなわち、イエスの十字架というあがないだ。
 このあがないによって、罪赦される。

 「ハレルヤ。いかに幸いなことか
  主を畏れる人」
 このように、罪を赦してくださった方が、このお方を畏れる。
 十字架の御業によって、心底助かったから。
 その恵みがあまりに大きかったから。

 その人は、なおも「主の戒めを深く愛」し続ける。
 戒めを守ることなど、到底無理だ。そのことに心底気付かされて、そうしてあがなわれた。
 だからその人にとっての「戒め」というのは、記念写真のようなものだ。
 なくてはならない大切なものなのだけれども、決して手の届かないもの。

 「主の賛美」は、いのちある限り「永遠に続く」。

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[付記]
 本日の記事は、初出2007年6月10日、二版2007年7月7日の記事に、更に筆を入れたものです。

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栄華

 「恐れるな。人が富を得ても、
 その人の家の栄誉が増し加わっても。
 人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、
 その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。
 彼が生きている間、自分を祝福できても、
 また、あなたが幸いな暮らしをしているために、
 人々があなたをほめたたえても。
 あなたは、自分の先祖の世代に行き、
 彼らは決して光を見ないであろう。
 人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、
 滅びうせる獣に等しい。」(詩49:16-20)

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 「栄華」というのは、マテリアルな世界、マモニズムの世界。
(「富」をアラム語で「マモン」という。)

 今まで「栄華」だと思っていたものが、「悟り」によって、実はちりあくたにすぎないなかったのだと実感できるはずだ。
 最晩年のパウロは、次のように言っている。
 「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」(ピリピ3:8)

 人の富や栄誉、さらにもっと広げて自分自身の「幸いな暮らし」も、「悟り」がないならば意味も味わいもない。
 「悟り」、それは「気付き」だ。
 もちろん、罪(sin)への気付きである。
 そして、その罪からの解放こそ、本質的にはたったひとつの大切なことだ。
 その解放をもたらすために、イエス・キリストはこの世に来られた。
 罪から解放されて、富や栄誉にはとらわれなくなり、自分の暮らしぶりすら副次的なものとなってゆく - そういうところに「いのち」はないから。
 「いのち」とは、キリストにより罪から解放されていただいた、新しい歩みの原理のことである。

 「また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」(マタイ13:45-46)

 この聖句のとおり、「持ち物(マモン)を全部売り払って」しまうほどのものなのである。

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[付記]
 本日の記事は、2007年7月20日の記事に、大幅に筆を入れたものです。

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穀物とぶどう酒

 「多くの者は言っています。
 「だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか。」
 主よ。どうか、あなたの御顔の光を、
 私たちの上に照らしてください。
 あなたは私の心に喜びを下さいました。
 それは穀物と新しいぶどう酒が
 豊かにあるときにもまさっています。
 平安のうちに私は身を横たえ、
 すぐ、眠りにつきます。
 主よ。あなただけが、
 私を安らかに住まわせてくださいます。」(詩4:6-8)

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 「だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか」とつぶやく人々が、大勢いる。
 彼らにとって、人(「だれか」)とは自分の幸福や富のために利用する存在でしかない。
 穀物とぶどう酒が欲しいから、見知らぬ「だれか」に望みをつなぐ。
 だが、富(マモン)は、消え去ってしまう。
 その消えゆく物を追い求めるのは、実に空しい。

 それとは違い、主の御顔の光には、ほんとうに求めていたものの全てがある。 この光を慕い求める人の心には喜びがある。
 不安は消え去り、横になればすぐ眠りに就いてしまう。

 イエスは仰った。「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)と仰っている。
 多くの者が積極的に、または気付くと富に仕える中、恵みによって神に仕えることのかなった人には幸いがある。

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