紙と墨でしたくはありません

 「 長老から、選ばれた夫人とその子どもたちへ。私はあなたがたをほんとうに愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々がみな、そうです。
 ……
  あなたがたに書くべきことがたくさんありますが、紙と墨でしたくはありません。あなたがたのところに行って、顔を合わせて語りたいと思います。私たちの喜びが全きものとなるためにです。」(2ヨハネ1:1-12)

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 電子メールは事務連絡には便利だが、それ以上のことを書こうとすると相手の感情を互いに読み間違えてしまう。だいぶ前に互いが気付いた。
 それどころか、ウソの文面を書くことがたやすい。知人に会った妻は「また会いたいねー♡♡♡」とガラケーに書いていたときに、苦虫を嚙み潰したような表情で「♡」を押し続けていた。こういうことは多いと思う。
 「紙と墨でしたくはありません」というのはもっともなことで、顔と顔とを合わせた時の相手の表情はとても分かりやすい。それで「顔を合わせて語りたい」のである。
 SNS全盛のこの時代、私たちは、感情のやり取りをしたいのか情報のやりとりをしたいのかをはっきりさせる必要があると思う。この感情のやり取りがない状態を孤立というのかもしれない。

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偶像

 「私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。
 しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。
 子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」(1ヨハネ5:19-21)

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 この手紙の最後の箇所。
 唐突に「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」と記されて、この書物は終わる。
 このことに、長い間大きな違和感があった。

 イエス・神の御子がこの世に来られて、何が一番変わったのだろうか。
 「真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったこと」である。
 ただ、誰かれにも、この理解力を与えられたわけではない。
 長血の女の箇所(マルコ5:25-34)でも、イエスに押し寄せる群衆達には何もなく、ただ長血の女だけが癒される。
 両者ともイエスに押し寄せた点では変わるところはない。
 ただ、イエスを御子と信じる信仰があったかどうかが、決定的に異なっていた。
 この長血の女には「真実な方を知る理解力」があったのである。

 この長血の女のような人々は、キリストにある( in Crist )。
 今は見えないこの方だけを信仰し礼拝する。
 そうであればこそ、なおさら「偶像を警戒」する必要がある。
 この偶像はその人をキリストからたやすく引き離してしまうのだ。

 この偶像というのは「像」に限ったものではない。
 私は仏像を見ても何とも思わない。鳥居も寺もそうだ。
 仏壇も神棚もなんとも思わないし、お焼香もする。
 そういうもの自体よりも、そういうものを偶像として警戒せよと指導する人に影響を受けてしまうと、指導を受けた人は「指導する人」という偶像に脆くも屈してしまう。

 大切なことはただひとつ、御子が来られて「理解力」を与えてくださったということである。
 雛人形を偶像礼拝だからというので片付けさせた人間の記事を読んだことがあるが、その人にキリストを理解する力が備わっていないことは明らかである。
 実は私も以前、その手の指導によって仏壇や神棚その他を異様に恐れていた。
 しかし、恵みによって「理解力」を与えられ、それで今は何とも思わないのである。

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[第一版]2007年10月27日
[第二版]2008年 3月 9日
[第三版]2011年 7月17日
[第四版]2020年 2月11日(本日)

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愛のない者に神はわかりません

 「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」(1ヨハネ4:7-11)

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 「愛のない者に、神はわかりません」とは、対偶を取ると、神を知る者には愛があるという意になる。
 では、神を知る者とはどういう人たちであろうか。
 「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました」、このような過去がある人たちである。
 そして、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し」たとあるのと同じで、『いのち』は自ら獲得するものではない。御父から一方的に与えられるものである。

 愛という言葉を、実は私は厭っている。
 あいまいで、ごまかされている感覚すらある。
 だが思うに、自分が自分のことについてどうこうすることは、愛という言葉には含まれないだろう。少なくとも、自分が他人にどうこうする何かのはずだ。それなら自分も多少はできる。
 それは多くの人がそうだと思うが、それにしてはあの歩きスマホはどうしたことだろう。

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コミュ力

 「 世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。
 子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」(1ヨハネ3:17-18)

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 ことば、口先、打算の行い、こういったものは、現在大流行のコミュ力のことだ。
 だが、大切なことは思いや気持ちが伝わるかどうかであって、美辞麗句は実体がなく臭みしかない。
 純粋な「行ないと真実」は、十字架と復活のイエスに出会ってはじめて出てくる。
 助けられたのだから助けるというのは自然に湧き出る。
 こうして自分の内面を大切にするようになれば、コミュ力の実体のなさに気付くような気がする。

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