からし種ほどの信仰

 「そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」
 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」(マタイ17:19-20)

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 イエスは言う。「からし種ほどの信仰」。
 つまりそれは、信仰があるのである。
 信仰とは、あるかないかのどちらかしかない。
 たとえば、「信仰が30%ある」とかということはない。

 違う言い方をすると、信仰とは獲得するものではなく与えられるものである。
 罪を自覚し、背負わされた十字架を背負って死に、よみがえって与えられる。
 私たちの内で、何かがごろっと大きく動く。山が動いたのである。
 もし実際の山を動かすほどの力が欲しいと思うとすれば、それは、自分は神になりたいというのと同義になってしまう。
 そうではなく、信仰とは罪赦されて神と和解した結果、神と共にあるということなのである。

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[一版]2013年11月30日
[二版]2016年 5月22日(本日)

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いのちを救う/いのちを損なう

 「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:24-26)

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 いのちとは。
 また、いのちを見いだすとは。いのちを失うとは。

 ソロモンは賢王で、イスラエル王国に繁栄をもたらした。
 いわゆる「ソロモンの栄華」というやつだが、一方で彼は、伝道者の書(コヘレトの言葉)で「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空」(1:2)と虚しさをむき出しにする。
 ソロモンは全世界を手に入れたかも知れないが、まことのいのちを損なってしまったのである。
 もっとも、このいのちはアダムの違反この方、人間から失われ続けており、そのいのちを人間が回復できるように、キリスト・イエスが十字架に死に復活した。

 「自分の十字架を負い、」とは、文字通り、極刑の十字架を自分が背負うことを指す。
 つまり、人間は律法に照らして極刑相当の存在なのであり、それゆえに御父は私たちを、この極刑の十字架に架ける。
 これが、赦され救われるための、イエスが切り開いた唯一の道なのである。
 すなわち、自分の十字架に架けられてその十字架に死に、御父によってよみがえっていのちを得る(参/ローマ6:5)。
 罪は赦され、神との和解が回復する。心の根っこのところに大きな安心感がある。
 一方、上に挙げたソロモンは、こう叫んでいる。

 「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。」(伝12:1)

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[一版]2010年 7月18日
[二版]2013年11月27日
[三版]2016年 5月 8日(本日)

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しるし

 「パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ。
 しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる。』と言うし、
 朝には、『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ。』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。
 悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」そう言って、イエスは彼らを残して去って行かれた。」(マタイ16:1-4)

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 しるしを求めるパリサイ人。

 なぜしるしを求めるのだろう。
 しるしを見ることができたなら、イエスを信じよう、信じてやろう、ということだろう。
 それでイエスは「悪い、姦淫の時代」と言っている。
 私もかつて教会に行き聖書を買い求めて、よし自分も信じた、そう思ったことがあった。しかし、それは信仰とは到底呼べない内面のちょっとした動きでしかなかった。

 信仰は、信じるのではないし、ましてや、しるしの類によって納得ずくで信じるものではない。
 私たちが主体的にどうこうできるものではない。なぜなら、主権はもっぱら神にあるからである。
 では信仰とはなにかといえば、イエスによって信じさせられるものである。
 唯一与えられたしるし、イエスの十字架と復活が私たちの内面に入れられて初めて、そのイエスに信じさせられる。
 そうなるために私たちにできることは、準備を整えてその恵みの時を待つことだけなのである。

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[一版]2013年11月25日
[二版]2016年 5月 5日(本日)

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信仰の型

 「すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。
 しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。
 しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。
 すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。
 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。」(マタイ15:22-28)

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 救いの型について。

 カナン人の女はイエスに食らい続け、ついにイエスに「あなたの信仰はりっぱです」と言わしめる。
 では、カナン人の女の信仰は、どういうところがりっぱなのだろう。
 「小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」という、機知、頓知の類に、イエスが感じるところがあったのだろうか。そうではない。
 どこまでもイエスを信じ求め続けたこと、これが信仰の型なのである。
 「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタイ7:7)とあるとおりであり、しかも彼女は異邦人であるから無視されるのだが、なりふり構わず求め続けた。
 このようにどこまでも求め続ければ、救いの方からやってくる。十字架が私たちをはりつけにするのである。

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偽善者たち

 「偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。
 『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」(マタイ15:7-9))

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 律法をひとりよがりに変形させたものをイエスに押しつけたパリサイ人に対する、イエスのこたえ。

 ところで、イエスは結構口が悪い。上の「偽善者たち」にせよ、「あなたがたは、悪い者ではあっても」(マタイ7:11)など。
 なぜイエスは、私たちをそのように呼ぶのだろうか。
 それは端的に、私たちが偽善者であり悪い者だからだ。
 偽善者を偽善者と呼び、悪い者を悪い者と呼んでいる。
 そうしないと、私たちが神の律法に反した存在であることを気付くことができないのだ。
 「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている」からこそ、救いが必要なのだ。
 だから、イエスが口が悪いというよりは、むしろ親心に近い。

 もう一度書くと、私たちの心は、御父からあまりに遠く離れている。
 偽善者とは、善を偽る者のことであり、自分では善を行っているつもりだが、そんなことは善でもなんでもない、そういう人々のことだ。上のパリサイ人のように、自分は義だと信じて疑いもしない。
 しかし、善悪の基準もまた御父にあるのであり、私たちがひとりよがりに決めることではない。
 大切なことは、神の国とその救いなのであり、これだけが善である。

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