義は目的なのか手段に過ぎないのか

 「では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。
 しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。
 なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。
 それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」(ローマ9:30-33)

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 律法の遵守を他人に押しつけたパリサイ人について福音書を読んでゆくと、自分たちが律法の遵守に励んだという形跡がまるで見られない。
 それどころか、マルコ福音書には「 モーセは、『あなたの父と母を敬え。』……と言っています。それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。 こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」(7:10-13)と記されており、ここでイエスは、義の律法が彼らの都合のいいように勝手に解釈されていることを言っている。
 彼らパリサイ人にとって、律法とは追い求める対象ではなく、手段にすぎなかった。手段であるから、都合が悪いとねじ曲げてしまう。もしかすると、信心すら手段に過ぎなかったかもしれない。彼らはまさに「つまずきの石につまずいた」のである。
 しかしこの時代にイエスが現れ、たとえば安息日に人を癒やして彼らを挑発したのは、この目的と手段の転倒を明らかにしたかったからかもしれない。そうだとすれば、イエスは正に救世主なのだ。
 このイエスは、今も救世主であり続けている。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない」ということばは、何が「つまずきの石」なのかは変われどその通りだと実感する。目的と手段とをはき違えなければ、失望することはない。

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『神に不正があるのですか』

 「このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。
 その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、
 「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。
 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。
 それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。
 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。
 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」(ローマ9:10-16)

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 「神に不正があるのですか」、理不尽な目に遭うとき、また、復讐したくてたまらないようなときなど、私たちはしばしば神の不正を疑う。あるいは神が裏切ったとすら感じる。
 しかし、それはそうではない。
 なぜなら、神は常に正しいからである。より正確に言うなら、正しさの基準は神なのである。
 復讐などしたくなる卑小な自分は正しさの基準など持ち合わせていないし、もし、それでも自分が正しいとするのなら、それはむしろ不信仰なのだろう。
 理不尽な出来事をお許しになった神が、どんな場合でも常に正しい。

 その、正しさの基準であるところの神は、「自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」。
 長子であるエサウではなく、ヤコブ、あの卑劣なヤコブが愛されるのである。
 人間の頭で考えると、なぜそうなるのか理解がいかない。長子に相続の権利があるのは当然のことではないか。
 しかし人間がどう頭をこねくり回そうと、これこそ神の正しさ、また、あわれみなのである。
 そうであるから、私たちはこの神にこうべを下げて祈りを捧げる。

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[一版]2017年12月30日
[四版]2024年 4月21日

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キリストに愛されているという実感

 「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35-39)

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 数々の困難、患難に遭うとき。
 自暴自棄になりそうなとき。
 そういうときにふっと思い出すことがある。
 それは「私はイエスから『いのち』を与えられたほどに特別に愛されているのだ」ということである。
 そしてそのことに思い至ると、こんなことでくじけるなんて『いのち』に照らして何と勿体ないことか、そういう思いに駆られてそして忍耐できるようになる。
 「キリストの愛から引き離す」というよりも、困難の時にこそキリストの愛を改めて確認できるというのが自分の実感だ。
 キリストの愛というのは信じる者には自身と一体化しており、キリストの愛から引き離すと言われてもやりようがない。
 金メッキははげてしまうと地が出てくるが、地金はどこまで削れても金なのである。

 イエスは私たちを根底のところで支えてくださっている。
 日頃はほとんど忘れていても、いざというときに思い出される。
 表向きイエスを棄てることが、もしかするとあるかもしれない。
 だがそうであっても、イエスはなおも私たちを愛し続けてくださっているのである。

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[一版]2011年10月30日
[五版]2024年 4月14日

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神が義と認めてくださるということ

 「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。
 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。」(ローマ8:30-33)

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 神が私たちの味方であるなら、神が味方をしない連中は私たちに敵対するかもしれない。
 救われた私たちは神が義と認めてくださるが、彼らは何をもって自分を義とするのだろう。
 カネだろうか、才覚だろうか。自分の魅力だろうか。
 そのような自分を頼りにする人は、私たちに限らず敵対してくる。彼らにとって、それは悪いことではないのである。
 しかしイエスとの出会いによって御父と和解することができた私たちには、御父が味方してくださっている。
 それは、海が割れるとかということよりも、私たちの内面を大きな力で支え続けてくださる。
 自分を義とする無頼の連中には、これがない。
 だから、神が義と認めてくださるということは、ものすごく大きなことなのである。

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『益』とはなにか

 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」(ローマ8:28-29)

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 「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」とあるところの「益」とは、誰にとっての益だろうか。
 専ら自分にとってのものではない。神および神の秩序にとっての益である。
 私たちがもしも「神のご計画に従って召された人々」なのであれば、神および神の秩序にとって益なことは、当然に、自分自身にとっても益である。
 私たちはイエスを長子とする家族だからである。

 このことについては、モーセの一生を思い出すとよく分かる。モーセは順風満帆にリーダーになったであろうか。そうではなく、彼には不遇な時期が長く続いたのである。しかし、その時期を抜けたとき、すべてのことが神とモーセの双方にとって益として働いた。

 益となるということを専ら自分についての益と考えると、聖書は単なるご利益宗教に堕してしまう。
 そのような読み方というのは、自分に都合の良い言葉をあちこちから拾い集めては我田引水をするばかりで、単に聖書を利用しているにすぎず、聖書に接するというのとはまるで違ってくる。
 この聖書に対するスタンスの違いは「神のご計画に従って召された人々」にかかわっている。
 そして、このスタンスは御子が示した十字架と復活によってがらりと変わるのである。

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[一版]2015年 7月12日
[四版]2024年 4月 6日

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