イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
村八分
「彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。
そのために彼の両親は、「あれはもうおとなです。あれに聞いてください。」と言ったのである。」(ヨハネ9:22-23)
---
「その者を会堂から追放すると決めていた」。
「会堂」とはシナゴーグのことなのだが、ここではコミュニティー位の広い意味。
そうすると、「会堂から追放する」ということはコミュニティーからの追放、つまり村八分にするということ。
では、誰を村八分にするのかというと、「イエスをキリストであると告白する者」である。
キリスト・イエスが自分を救ってくださったということで村八分に遭う。
キリストによって救われた人は原理や法則が違ってしまうので、おのずと排斥されて村八分にならざるを得ない。
「彼の両親」は、この村八分を恐れている。イエスを知らないのだから、当然だろう。
だが、「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。」(マタイ5:11-12)
この世では狭き道を歩んでも(マタイ7:13)、その狭さを感じるほどかえって救いの確信が強くなる。
---
[付記]
本日の記事は、2009年2月21日付記事に筆を加えたものです。
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そのために彼の両親は、「あれはもうおとなです。あれに聞いてください。」と言ったのである。」(ヨハネ9:22-23)
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「その者を会堂から追放すると決めていた」。
「会堂」とはシナゴーグのことなのだが、ここではコミュニティー位の広い意味。
そうすると、「会堂から追放する」ということはコミュニティーからの追放、つまり村八分にするということ。
では、誰を村八分にするのかというと、「イエスをキリストであると告白する者」である。
キリスト・イエスが自分を救ってくださったということで村八分に遭う。
キリストによって救われた人は原理や法則が違ってしまうので、おのずと排斥されて村八分にならざるを得ない。
「彼の両親」は、この村八分を恐れている。イエスを知らないのだから、当然だろう。
だが、「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。」(マタイ5:11-12)
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安息日警察
「ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。
こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」
すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ。」と言った。しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行なうことができよう。」そして、彼らの間に、分裂が起こった。」(ヨハネ9:14-16)
---
律法とはなんであろう。「罪人」とはなんであろう。
イエスとパリサイ人とが激しく対立するのは、もっぱらこのことについてである。
パリサイ人にとっては、律法を守ることそれ自体が神に義とされることであり、その律法を守れないと罪として糾弾する。
律法をよく遵守し、自分たちは罪人などではないと思っている。
ときには律法それ自体を都合良く曲げてさえいるので(マルコ7:10-12)、彼らが「律法」を守ることは比較的容易であろう。
自分たちはモーセの弟子であり、「律法」を守れない罪人は忌々しい。
そういう状況の中、律法とはそういうものではないとやって来られたのがイエスである。
イエスの律法についての捉え方は山上の説教に顕著であり、たとえば「姦淫するなかれ」という文言のどこまでも厳しい意味を説く(マタイ5:27-28)。
このようなイエスの解釈によって、全ての人は神の律法の前に罪人とならざるを得ない。
そして、自分がそのように罪人なのだと分かったときが救いの出発点となる。
パリサイ人のやり方だと、救われるためのとっかかりそれ自体がなくなってしまう。
そして「安息日警察」をやらかしてしまうのだ。
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こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」
すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ。」と言った。しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行なうことができよう。」そして、彼らの間に、分裂が起こった。」(ヨハネ9:14-16)
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律法とはなんであろう。「罪人」とはなんであろう。
イエスとパリサイ人とが激しく対立するのは、もっぱらこのことについてである。
パリサイ人にとっては、律法を守ることそれ自体が神に義とされることであり、その律法を守れないと罪として糾弾する。
律法をよく遵守し、自分たちは罪人などではないと思っている。
ときには律法それ自体を都合良く曲げてさえいるので(マルコ7:10-12)、彼らが「律法」を守ることは比較的容易であろう。
自分たちはモーセの弟子であり、「律法」を守れない罪人は忌々しい。
そういう状況の中、律法とはそういうものではないとやって来られたのがイエスである。
イエスの律法についての捉え方は山上の説教に顕著であり、たとえば「姦淫するなかれ」という文言のどこまでも厳しい意味を説く(マタイ5:27-28)。
このようなイエスの解釈によって、全ての人は神の律法の前に罪人とならざるを得ない。
そして、自分がそのように罪人なのだと分かったときが救いの出発点となる。
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そして「安息日警察」をやらかしてしまうのだ。
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偽り者
「けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。」(ヨハネ8:55)
---
「この方」とは御父のこと。
イエスは御父を知っているので、もしも御父を知らないというならば自分は「偽り者」となる、あなた方同様に、そう言っている。
自分が偽り者だという気付き。
自分が殺す者だという気付き、等々。
律法という囲い込みによってそれらの気付きに至るとき(それは例えようのない程の苦しみであるはずだ)、私たちは復活のイエスを介して御父を知ることとなる。
それはただ、恵みによる。
修行とか断食とか滝に打たれるとか、そのような自力ではどうにもならない。
偽り者が、恵みによって偽らない者となるのではない。
殺す者が、恵みによって全く殺さない者に変えられるのではない。
偽り者が偽り者として赦され、殺す者が殺す者としてありのまま赦されるのである。
そのためのスタートラインとして、まず、自分は実は偽り者だと知ることが必要となる。
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「この方」とは御父のこと。
イエスは御父を知っているので、もしも御父を知らないというならば自分は「偽り者」となる、あなた方同様に、そう言っている。
自分が偽り者だという気付き。
自分が殺す者だという気付き、等々。
律法という囲い込みによってそれらの気付きに至るとき(それは例えようのない程の苦しみであるはずだ)、私たちは復活のイエスを介して御父を知ることとなる。
それはただ、恵みによる。
修行とか断食とか滝に打たれるとか、そのような自力ではどうにもならない。
偽り者が、恵みによって偽らない者となるのではない。
殺す者が、恵みによって全く殺さない者に変えられるのではない。
偽り者が偽り者として赦され、殺す者が殺す者としてありのまま赦されるのである。
そのためのスタートラインとして、まず、自分は実は偽り者だと知ることが必要となる。
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誰が父か
「わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。
わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行なうのです。」
彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。」(ヨハネ8:37-39)
---
私たちの「父」は、誰であろうか。
御父であろうか、アブラハムであろうか、それとも他の誰かであろうか。
御父を父とする人は、「わたしのことばが、あなたがたのうちにはいって」いる。
よく暗唱聖句ということをやるが、たとえ聖書の全てをそらんじたとしても、それはイエスのことばがうちに入ったことにはならない。
あるとき、ある聖句が自分のうちに入ってくる。
脳に刷り込むのではなく、うちに入ってくる。
そのことばが聖書を開く鍵となる。
イエスが救い主とはっきり分かり、このイエスを介して神と和解する。
そうでないうちは、自分の父はアブラハム(または他の誰か)である。
「私たちの父はアブラハムです。」というのは、自分は律法を守っている者です、ということで、イエスも「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。」と言う。
つまり、アブラハム(律法)の行ないを突き詰めようとしない限り、自分の罪、それも極刑に値する自分の罪が律法に照らして明らかにされない。
アブラハムは罪を明らかにし、その罪ゆえに子を殺す。極悪人としてあなたを極刑に処す導きをする。
アブラハムが殺し、そしてキリストがよみがえらせる。
イエスのよみがえりは、「わたしのことば」によってである。
だから、父が誰かは恵みによって変わるのである。
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わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行なうのです。」
彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。」(ヨハネ8:37-39)
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私たちの「父」は、誰であろうか。
御父であろうか、アブラハムであろうか、それとも他の誰かであろうか。
御父を父とする人は、「わたしのことばが、あなたがたのうちにはいって」いる。
よく暗唱聖句ということをやるが、たとえ聖書の全てをそらんじたとしても、それはイエスのことばがうちに入ったことにはならない。
あるとき、ある聖句が自分のうちに入ってくる。
脳に刷り込むのではなく、うちに入ってくる。
そのことばが聖書を開く鍵となる。
イエスが救い主とはっきり分かり、このイエスを介して神と和解する。
そうでないうちは、自分の父はアブラハム(または他の誰か)である。
「私たちの父はアブラハムです。」というのは、自分は律法を守っている者です、ということで、イエスも「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。」と言う。
つまり、アブラハム(律法)の行ないを突き詰めようとしない限り、自分の罪、それも極刑に値する自分の罪が律法に照らして明らかにされない。
アブラハムは罪を明らかにし、その罪ゆえに子を殺す。極悪人としてあなたを極刑に処す導きをする。
アブラハムが殺し、そしてキリストがよみがえらせる。
イエスのよみがえりは、「わたしのことば」によってである。
だから、父が誰かは恵みによって変わるのである。
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罪と自由
「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」
イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」(ヨハネ8:31-34)
---
自由、という言葉は厄介だと思う。
5年ほど前だったか、デンマークの新聞社がマホメットを侮辱するマンガを載せて表現の自由だとやらかしたことがあった。
だが、自由と好き勝手とは違うだろう。
今日の聖書箇所にいう自由とは、肉の罪からの自由を指す。
イエスは罪に死んだ人をよみがえらせて自由にする。
それはイエスのことばによってであり、これが復活である。
復活するためには、死ななくてはならない。
それがイエスの十字架であり、この十字架に死ぬには、まず「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です」ということを律法に照らして分かる必要がある。
私たちは神の御前に、極刑に値する存在なのである。罪の奴隷なのである。
その罪深さに気付いたとき、イエスの道に従って死んでよみがえることができるに違いない。
肉はそのままなので、罪がなくなるということはない。
だが、よみがえって罪赦される。
この罪からの解放が、ここでいう自由である。
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そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」
イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」(ヨハネ8:31-34)
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自由、という言葉は厄介だと思う。
5年ほど前だったか、デンマークの新聞社がマホメットを侮辱するマンガを載せて表現の自由だとやらかしたことがあった。
だが、自由と好き勝手とは違うだろう。
今日の聖書箇所にいう自由とは、肉の罪からの自由を指す。
イエスは罪に死んだ人をよみがえらせて自由にする。
それはイエスのことばによってであり、これが復活である。
復活するためには、死ななくてはならない。
それがイエスの十字架であり、この十字架に死ぬには、まず「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です」ということを律法に照らして分かる必要がある。
私たちは神の御前に、極刑に値する存在なのである。罪の奴隷なのである。
その罪深さに気付いたとき、イエスの道に従って死んでよみがえることができるに違いない。
肉はそのままなので、罪がなくなるということはない。
だが、よみがえって罪赦される。
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自分の罪
「それでイエスは彼らに言われた。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。
それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」(ヨハネ8:23-24)
---
イエスとパリサイ人との問答より。
「自分の罪」とは、アダム以来人間が宿している罪で、神と神の律法に反する性質とでもいえばいいだろうか。
つまり、もともと人間の肉は罪深く神に反し、その罪の中で死ぬしかない。
ここにいう「死ぬ」というのは、永遠の死のこと。
自分の罪深さは、律法に照らせば嫌と言うほど分かってくる。
人間からこの肉がなくなることは生きている限りないので、罪がなくなることもまたない。
だが、十字架で自らの肉を処罰したイエス・キリストにあやかって初めて、罪が罪のまま赦される、それがイエスの救いなのである。
イエス・キリストに出会ってこのお方を信じさせられるとき、どういう人であろうが罪赦される。
彼は「いのち」を得て、永遠の死から救い出される。
たとえパリサイ人であっても、例えばニコデモのように求めるならば罪赦され得る、これこそ神の恵みである。
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それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」(ヨハネ8:23-24)
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イエスとパリサイ人との問答より。
「自分の罪」とは、アダム以来人間が宿している罪で、神と神の律法に反する性質とでもいえばいいだろうか。
つまり、もともと人間の肉は罪深く神に反し、その罪の中で死ぬしかない。
ここにいう「死ぬ」というのは、永遠の死のこと。
自分の罪深さは、律法に照らせば嫌と言うほど分かってくる。
人間からこの肉がなくなることは生きている限りないので、罪がなくなることもまたない。
だが、十字架で自らの肉を処罰したイエス・キリストにあやかって初めて、罪が罪のまま赦される、それがイエスの救いなのである。
イエス・キリストに出会ってこのお方を信じさせられるとき、どういう人であろうが罪赦される。
彼は「いのち」を得て、永遠の死から救い出される。
たとえパリサイ人であっても、例えばニコデモのように求めるならば罪赦され得る、これこそ神の恵みである。
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世の光
「イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)
---
人は神によって造られ、神と共に暮らしていた。
ところがアダムの違反以来、神と罪深い人とはどんどん距離が離れてしまって、もはや肉ある人間は神が分からなくなってしまっている。
これこそ「やみ」だろう。
しかし、慈愛に満ちた神から救いの手が延ばされ、この御父は御子イエスをこの世にお送り下さった。
イエスは神からの和解のしるしであり、この世に輝く光である。
このイエスによって救われた私たちは、イエス・キリストを通して神を知る。
イエスという光が、真に帰るべきところを照らすのである。
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人は神によって造られ、神と共に暮らしていた。
ところがアダムの違反以来、神と罪深い人とはどんどん距離が離れてしまって、もはや肉ある人間は神が分からなくなってしまっている。
これこそ「やみ」だろう。
しかし、慈愛に満ちた神から救いの手が延ばされ、この御父は御子イエスをこの世にお送り下さった。
イエスは神からの和解のしるしであり、この世に輝く光である。
このイエスによって救われた私たちは、イエス・キリストを通して神を知る。
イエスという光が、真に帰るべきところを照らすのである。
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イエスのおことば
「このことばを聞いて、群衆のうちのある者は、「あの方は、確かにあの預言者なのだ。」と言い、
またある者は、「この方はキリストだ。」と言った。またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。」(ヨハネ7:40-41)
---
「このことば」とは、イエスのお言葉。
そのイエスのお言葉を間近で聞いて「あの方は、確かにあの預言者なのだ。」というのは、お調子者といえばいいのだろうか。
「岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。」(マタイ13:20)とは、上の聖書箇所の人々がよく当てはまる。
実際この人々は、話が進むにつれてイエスと険悪化する。
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)とあるように、聖書のことば、イエスのお言葉そのものが神であり「いのち」である。
ただそれは、こちらが読んでああこの言葉かと分かる類のものではない。
あるときにあることばが「いのち」を吹き込む、そういう類のものなのである。
ことばの文字面を遙かに超えた意味(真理というのだろうか)が、そのとき飛び込んでくる。
そこに至るまでには大きな苦しみがあり、それはイエスの十字架の受難と全く同じである。
死んで、みことばによって生きる。
だから信仰とは、むしろ信じさせられるもので、しかも、みことばに出会ったという事実に基づいたものである。
上の聖書箇所で、人々はイエスのお言葉のうわっつらの部分でイエスを信じた。
これは、信仰というものとはかなり掛け離れている。
だが、あきらめずにイエスのお言葉に耳を傾け続けているうちに、気付くとイエスの道に導かれて、すとんと信じさせられる。
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)という約束は、本当だと思う。
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またある者は、「この方はキリストだ。」と言った。またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。」(ヨハネ7:40-41)
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「このことば」とは、イエスのお言葉。
そのイエスのお言葉を間近で聞いて「あの方は、確かにあの預言者なのだ。」というのは、お調子者といえばいいのだろうか。
「岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。」(マタイ13:20)とは、上の聖書箇所の人々がよく当てはまる。
実際この人々は、話が進むにつれてイエスと険悪化する。
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)とあるように、聖書のことば、イエスのお言葉そのものが神であり「いのち」である。
ただそれは、こちらが読んでああこの言葉かと分かる類のものではない。
あるときにあることばが「いのち」を吹き込む、そういう類のものなのである。
ことばの文字面を遙かに超えた意味(真理というのだろうか)が、そのとき飛び込んでくる。
そこに至るまでには大きな苦しみがあり、それはイエスの十字架の受難と全く同じである。
死んで、みことばによって生きる。
だから信仰とは、むしろ信じさせられるもので、しかも、みことばに出会ったという事実に基づいたものである。
上の聖書箇所で、人々はイエスのお言葉のうわっつらの部分でイエスを信じた。
これは、信仰というものとはかなり掛け離れている。
だが、あきらめずにイエスのお言葉に耳を傾け続けているうちに、気付くとイエスの道に導かれて、すとんと信じさせられる。
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)という約束は、本当だと思う。
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生ける水の川
「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(ヨハネ7:37-39)
)
---
心の飢え乾きを潤すためには、人はどんなことをするのだろう。
遊興や酒宴は、ほんのいっときのごまかしにしかならない。
その余韻が過ぎさってしまうと、あの飢え乾きが再び襲ってくるのである。
イエスを信じる者は、「心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」。
心の根っこの部分が生ける水で潤される。
「後になってから受ける御霊」、すなわち、キリストの十字架と復活とを了解することが、信じることである。
信じることによって、「いのち」であるイエスは内在して下さる。
この生ける水の川は、その人の内部からじわりと湧き出てきて、枯れることはない。
外部からの刺激によっては、そもそもこの水は流れ出てこない。
行事につぐ行事というのは、心の飢え乾きには意味をなさない。
---
[付記]
本日の記事は、2009年1月31日付記事に筆を入れたものです。
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わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(ヨハネ7:37-39)
)
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心の飢え乾きを潤すためには、人はどんなことをするのだろう。
遊興や酒宴は、ほんのいっときのごまかしにしかならない。
その余韻が過ぎさってしまうと、あの飢え乾きが再び襲ってくるのである。
イエスを信じる者は、「心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」。
心の根っこの部分が生ける水で潤される。
「後になってから受ける御霊」、すなわち、キリストの十字架と復活とを了解することが、信じることである。
信じることによって、「いのち」であるイエスは内在して下さる。
この生ける水の川は、その人の内部からじわりと湧き出てきて、枯れることはない。
外部からの刺激によっては、そもそもこの水は流れ出てこない。
行事につぐ行事というのは、心の飢え乾きには意味をなさない。
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挑発
「イエスは彼らに答えて言われた。「わたしは一つのわざをしました。それであなたがたはみな驚いています。
モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。――ただし、それはモーセから始まったのではなく、先祖たちからです。――それで、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。
もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。
うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」(ヨハネ7:21-24)
---
イエスは安息日に人を癒し、激しい反発を招く。そのことについて。
イエスはここで、安息日について、また割礼について言いたいのではない。
そういった神が授けた律法群について、人々が自分たちの都合に合わせて勝手な解釈を施して適用してしまうということを言っている。
安息日をてこに、人々を挑発しているのだと思う。
「正しいさばきをしなさい」と言っているが、正しいさばきができるのが神おひとりであることも重々承知で言っているのだろう。
律法という神の秩序を罪ある人間が守り行うことは、到底出来ない。
律法を意識すればするほど、肉の罪はいよいよ明らかになり、その罪の中に人は死ぬほかなくなる。
私たちをこのように死に追い込むことこそ律法の役割であり、極刑に死んだイエスの復活の道によって私たちもよみがえって罪赦される。
神の赦しを得るためにイエスが切り開いた道である。
ところが上の聖書箇所の人たちは、律法を守ることそのものが善行だと考えている。
それどころか、人の上に立って人に重荷を押しつけてさえいる。
安息日には何もしてはいけない等。
いや律法とは(モーセとは)そういうものではない、と、イエスは人々を挑発する。
その挑発は、一人でも多くの人々が聖書によって肉の罪に気付いてそれから救われるために他ならない。
---
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モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。――ただし、それはモーセから始まったのではなく、先祖たちからです。――それで、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。
もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。
うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」(ヨハネ7:21-24)
---
イエスは安息日に人を癒し、激しい反発を招く。そのことについて。
イエスはここで、安息日について、また割礼について言いたいのではない。
そういった神が授けた律法群について、人々が自分たちの都合に合わせて勝手な解釈を施して適用してしまうということを言っている。
安息日をてこに、人々を挑発しているのだと思う。
「正しいさばきをしなさい」と言っているが、正しいさばきができるのが神おひとりであることも重々承知で言っているのだろう。
律法という神の秩序を罪ある人間が守り行うことは、到底出来ない。
律法を意識すればするほど、肉の罪はいよいよ明らかになり、その罪の中に人は死ぬほかなくなる。
私たちをこのように死に追い込むことこそ律法の役割であり、極刑に死んだイエスの復活の道によって私たちもよみがえって罪赦される。
神の赦しを得るためにイエスが切り開いた道である。
ところが上の聖書箇所の人たちは、律法を守ることそのものが善行だと考えている。
それどころか、人の上に立って人に重荷を押しつけてさえいる。
安息日には何もしてはいけない等。
いや律法とは(モーセとは)そういうものではない、と、イエスは人々を挑発する。
その挑発は、一人でも多くの人々が聖書によって肉の罪に気付いてそれから救われるために他ならない。
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