約束のもの

 「イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。
……
 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
……
 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 」
 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
……
 そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」(ヨハネ4:6-7,13-14,17-19,42)

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 先日、新聞で小さい仏像の宣伝を見た。
 またこの手か、と思いつつ眺めていると、この仏像には開運なんとか商売繁盛云々かんぬん、あわせて十の御利益がございます、というものであった。
 聖書は、この類の御利益を、あっけないほど約束していない。
(キリスト教系には、病気の治癒(いやし)を表看板に出す一群が存在するが、この表看板には警戒すること。)

 新約が約束するものは、ひとこと、「いのち」だ。
 そしてこの「いのち」は、あるいはあすにでも授かることがかなうものだ。

 サマリアの女の前歴、それは「夫が五人あった」。
 すなわち、とっかえひっかえ、5人の男と結婚しては離婚してを繰り返しても満足できず、そうして今は「6人目の男」と同居中、そういう、正に「底なし沼の欲望女」なのである。
 それでもどうにも満ち足りない。
 この状態こそ「死んでいる状態」だ。

 しかしこの女は、イエスに出会う。
 話は飛んで最後、人々の方からこの女に、「この方がほんとうに世の救い主だと知っている」と話しかけてくる。もちろん、喜びの表情で。
 サマリアの女はイエスに出会って、「渇かない水」(いのち)を得た。

 イエスが約束するものは、実に、この「いのち」である。
 「御利益」ではない。
 むしろ「御利益」とは逆のものかも知れない。
 「御利益」、それは、人を「いのち」から遠ざけてしまうのである。

 サマリアの女は、男を何人も取り替えていたのだから、「モてた」には違いない。
 だが彼女は「モてた」から、さいわいだったか? 心満たされていたか?
 取税人レビ(マルコ2:14)は、イエスの招きに応じて、すぐさま全てを捨てて従った。
 取税人の頭で金持ちのザアカイ(ルカ19:2)、彼がイエスを求めるさまは、こっけいですらあるが、それほどまでに、イエスによるさいわいを求めていた。
 カネもまた、心満たす何物も有していない。
 彼らはみな、大きな「御利益」にあずかっていた人々だ。
 だが、皆「死んで」いた。

 ほかの何物によっても埋めようのないもの。
 そして、それがあれば、もうなにも必要ないもの。
(参/マタイ13:44-46)
 それが、「いのち」、十字架に死に復活したイエスが下さると聖書が約束するものだ。
 イエスはもっぱら、「死んでいる状態」の人間に「永遠のいのち」を与えるがために来られた。
 しかも、気が遠くなるほどかなたの約束というわけでもない。
 サマリアの女は、すぐ約束のものにあずかった。
 レビもザアカイも、約束のものにあずかった。


[お断り]
 本日の記事の既出歴は、
    第一版 2006年 9月21日
    第二版 2007年 1月29日
    第三版 2007年 7月11日
    第四版 ほんじつ
です。その都度、筆を入れました。

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失って得る

 「アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」(創22:6-12)

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 齢百歳にして生まれたかわいい我が子、イサク。
 神はアブラハムに、このイサクをささげよと仰る。
 そして、今日の聖書箇所のようになった。

 アブラハムはイサクを失ったのだ。
 しかし、得た。
 たいせつなものというのは、失って、そして得るもののようだ。
 しがみついて離さないでいると、かえってだめなのだ。
 失って、得る。
 これはイエスが死んで復活したのと、全く同じだ。

 「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)

 私たちが十字架の道において「いのち」を得る過程も、また同じなのだ。

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[お断り]
 ほんじつの記事は、2007年7月25日の記事に筆を入れたものです。

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聖書の目的

 「イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。
 しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。」(ヨハネ20:30-31口語訳)

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 ヨハネ伝の結び。
 聖書というものが書かれ、編まれた目的について。

 それはもっぱら、「イエスは神の子キリストであると信じるため」である。
 それ以外の目的は、ないといっていい。
 イエスが救世主キリストである、ということは、聖書を通してのみ分かることだ。
 だが、ただ聖書を何回も繰り返して読めば、例えば百回読めば分かる、というものでは全くない。
 それではわざなのであり、その類の肉の努力によって肉を救うということになってしまう。
 暗唱聖句云々も同様で、救いのためには全く意味はない。
 肉で努力しても、ついに肉を解放することができなかったというのが、旧約の歴史だった。

 そこで神は、キリストという莫大な恵みを遣わした。
 イエスがキリストであると分かれば、「イエスの名によって命を得る」、すなわち「いのち」を得て救われる。
 そして、そのように救われるというのは、わざではなく恵みである。
 頭やからだによる理解ではなく、恵みによる出会いなのである。
 出会うためには、ギリシャ語もなにも、そういった知識や努力は全く不要だ。
 聖書は、あるときその人に語りかけてくるのである。
 み言葉によって語りかけてくる。
 これが恵みによるキリストとの出会いである。
 聖書は、そのようにしてキリストと出会っていのちを得るために、もっぱら書かれている。

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『信じる』ということ

 「八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:26-20:29)

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 懐疑主義的な弟子トマスと復活のイエスとの出会い。
 トマスの不在時に復活のイエスが現れたと聞いたトマスは、自分はそんなことは信じないと言い張った(20:19-25)。
 そのような者にも、ただ恵みによってイエスは会ってくださる。
 誰にでも機会はあるのだ。

 トマスが復活のイエスを信じたのは、イエスのからだをあれこれ点検できたからでも、また、イエスを間近に見たからでもない。
 復活のイエスと出会ったからである。
 今、わたしたちは復活のイエスを見るということはない。
 だが、イエスは来てくださって、イエスと出会うことができるのである。
 そのときに信じないでいるということができないことは、トマス同様だ。

 さて、イエスは「戸が閉じられていたが」来られる。
 人間の肉には、それは不可能なことだ。
 だが復活のイエスには、それができる。
 わたしたちが復活したときに着るものがもしアダムの肉であったとしたら、死んで復活することの意味が全くなくなってしまうのだ。

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安かれ

 「イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。
 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。
 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう。」(ヨハネ20:21口語訳)

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 復活のイエス。

 父はイエスを、受肉させてこの世にお遣わしになった。
 それは、十字架と復活を通して、アダムの肉を持つ人間に赦しを与えるためだ。
 そのイエスが、「わたしもまたあなたがたをつかわす」とおっしゃっている。
 それは、私たちが、行って、そして赦しまたは赦さない、そういうことをするのではない。
 罪を赦すことができるのは、律法を定めた神だけだ。

 そうではなく、わたしたちは、まず「聖霊を受け」る。
 その聖霊を受けることができるようにして下さったのが、復活のイエスなのだ。
 復活のイエスを信じて赦されたとき、それを受ける。
 そして、そのわたしたちが、わたしたちの出会ったイエスを、行って、伝えるのである。
 信じる者は罪赦され、そうでない者はそうでない。
 私たち個人にそのような権威はないが、内住の聖霊に赦しまた赦さないという権威がある。
 その赦しまた赦さないということは、この世においては何の意味も持たない。
 しかし、終わりの日とは、赦された者だけのためにある。
 このことが、さばきである。

 わたしたちは赦され、さばかれない。
 だからイエスは私たちに「安かれ」と仰るのである。

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埋葬

(1)
 「そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。
 イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。
 その日がユダヤ人の備え日であったため、墓が近かったので、彼らはイエスをそこに納めた。」(ヨハネ19:40-42)

(2)
 「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、……」(1コリント15:3-4)

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 十字架に死んだイエスの埋葬。

 埋葬とは、死んだ者を弔う営みだろう。
 ここでイエスを埋葬したヨセフとニコデモにとっても、そうであったと思う。
 だが、この埋葬は弔いとは異なる意味を持つ。

 イエスは死んで埋葬され、確かに閉じこめられた。
 そのことは、少なくともヨセフとニコデモが証人である。
 それにもかかわらず、それから三日目に、イエスはその墓から消えている。
 イエスはよみがえったのだ。
 仮にイエスが火葬に付されたとしても、やはりイエスはよみがえったろう。
 死んで葬られ、もう外には出られないように処理されたにもかかわらず、イエスは復活した。
 この一連の流れが、「最も大切なこと」、福音の核心である。

 この「最も大切なこと」は、復活のイエスに出会ったときにはっきりと分かる。

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『神は死んだ』

 「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。
 その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。
 それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。
 しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。」(ヨハネ19:30-33)

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 十字架にはりつけにされた御子イエスは、その極刑を受けて死んだ。
 「霊をお渡しにな」って死んだ。
 人間と同じ肉が、極刑を受けた。
 それは、御子を信じる者の罪深い肉に極刑を与えたことを意味する。
 それが目的で、御子は十字架に架かった。
 人間の罪深さを救うためである。

 アダムの子孫達の罪深さは、神の御前に極刑に値するほど重い。
 だが、神の御子が極刑に死んだので、その十字架を信じるならば、彼の罪深さは既に断罪されたとみなされる。
 ただ、そうみなされるのは、御子が復活してからである。
 十字架の死と復活とは、常にセットである。

 「神は死んだ」ということについて、ニーチェが全く異なることを言っている。(たとえばhttp://www.ne.jp/asahi/village/good/nietzsche.htm)
 だが、私たちが神を殺したのではない。
 もし私たちが何かを殺したとしても、それは全能の神ではあり得ない。
 そうではなく、御子が自ら十字架にはりつけになったのである。
 それは、アダム以来死のくびきにつながれている私たち、神をも殺しかねない罪深い私たちを、そこから救うためなのだ。

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わたしは渇く

 「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
 そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」(ヨハネ19:28-30)

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 十字架のイエスを描写する箇所。

 イエスは常々、人々にこう呼びかけてきた。
 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)
 渇ききっている人々に呼びかけ続け、枯れない水が内から流れ出ることを保証した。

 そのイエスが、満ち満ちていてそれを分け与えることのできるイエスが、十字架の上でこう仰った。
 「わたしは渇く」。
 十字架の上で、イエスはこころの飢え乾きを覚えられた。
 人々が抱えているこころの飢え乾きと同じものだ。

 今、神が死のうとしている。
 あくまでアダムの肉をまとった人間として、死に往こうとしている。
 それは、そのアダムの肉自体を処罰するためだ(ローマ8:3)。
 そのことが、人を救い渇きを癒す。
 その処罰が「完了」して、肉としてのイエスは死ぬ。
 そしてイエスの復活は、そのアダムの肉を処罰してなお生きるということの初穂、また、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)とイエス御自身が仰ったことの成就である。

 神であられるイエスは、人として死ぬ間際に、人間の味わう様々な辛さを実体験しておられる。
 「私は渇く」は、その最たるものだろう。
 だからこそ、イエスは人間の弱みを、我が身を持ってご存じであられる。
(「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」ヘブル2:18)

 復活のイエスは、人間の渇きを実体験してご存じの上で、今も「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と呼びかけている。
 その道はイエスによって、既に切り開かれている。

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[付記]
 本日の記事の初出は2007年12月6日、修正して2008年2月28日に再掲したものを、今回さらに小変更を施したものです。

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真理に属する者

 「そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。
 ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。」(ヨハネ18:37-38)

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 イエスと総督ピラトとのやりとり。

 イエスは「真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来た」。
 そのあかしは聖書という形で、現在にまで世に伝わり続けている。
 「真理に属する者」は、イエスの声、聖書の文字から真理を受けて「いのち」を授かる。
 ちなみに、聖書を読むことによって「真理に属する者」の仲間入りをするわけではない。

 ピラトはイエスに「真理とは何ですか。」と言って祭司長達のところへ降りてゆく。
 自分の職域とは何の関係もない「真理」。
 どうでもいいのである。
 世は、こういう原理で動いている。
 「真理に属する者」は、それとは異なるこの世でやってゆくのである。

 「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」(ヨハネ17:18)

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