「シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。
 そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」(ヨハネ18:10-11)

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 イエスを裏切ったイスカリオテ・ユダが、イエスを捕らえようとする兵士、役人達を引き連れてきた場面。

 ペテロのイエス思いのほどは、自他共に認めるところだろう。
 そのイエスを護るためならば、剣という力の行使もためらわない。
 ところがイエスは、御自身を護ってくれるペテロを制止する。

 「父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」
 ここで捕らえられるということは、神がイエスに課した既定路線なのだ。
 「イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので」(ヨハネ18:4)ともある。
 イエスは、捕らえられて最高刑の十字架に架かるためにこそ、この世に来られた。
 捕らえられるためにイエスがここにいるということ、すなわち「杯」を、ペテロは全く知らない。

 イエスはのちに復活し、弟子たちの前に現れる。
 その復活のイエスと出会ったとき、弟子たちはイエスと父についての一切を了解し、そして信じる。
 そして自分たちも、イエスから杯を賜ったことを知る。
 その杯とは、パウロに言わせれば「イエスの焼き印」(ガラテヤ6:17)である。 上に書いた弟子たちやパウロに限らず、復活のイエスに出会った人は皆、杯を賜る。
 神が課した既定路線、それが杯であり、それを全うしてゆくのである。

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父の愛

 「正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。
 そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」(ヨハネ17:25-26)

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 イエスの祈り。

 「わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。」
 父の御名とは、何であろう。
 この17章に3度出てくる「御名」の文脈からいって、それがヤハウェ(エホバ)という固有名詞であるとか、"YHWY" という子音だけで構成されるものである、ということでは全くないことは明らかだ。
(アルファベット表記の綴りに自信なし。)

 この世は父を知らないが、「彼ら」、すなわち、父が世から取り出した人々には、イエスは父の御名を知らせ続ける。
(「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、…」ヨハネ17:6)、また、さくじつの記事参照)。
 そうすることで、父の愛がその人々に注ぎ込まれ続け、また、イエスが御内住なさるためである。

 父の愛、すなわち「神は愛なり」と呼ばれるその愛は、世を救うため肉をまとった子を世に送り、その肉を十字架につけて処罰し、そしてイエスを肉のない姿で復活させたことにある。
 そしてまた、父が世から取り出した人々が復活のイエスに出会い、このイエスが父から出たこと、またそのイエスが何をなされたのか、更に何故そうなされたのかを、はっきりと知るようになる。父の愛ゆえのことだ。
 だから父の愛というのは、親兄弟の愛とは全く異なる。友情とも親愛とも家族愛とも、全く異なる。
 父の愛は、アダム以来の人間をあがない出そうとする愛なのである。
 そしてそれは、父の御名の栄光ゆえのことである。

 イエスの祈りは、終わる。

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みなされる

 「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。
 いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。
 それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」(ヨハネ17:6-8)

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 イエスの祈り。

 イエスは父に申し上げる。
 「彼らはあなたのみことばを守りました。」
 いや、ちっとも守ってなんかいない。

 「あなたのみことば」とは、ここでは「あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていること」、すなわちイエスが神の御子だということを指す。
 あなたがた、すなわちここでは弟子たちは、以前、次のようなやりとりをイエスとしている。
 「これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。」(ヨハネ16:30-31)
 弟子たちが「あなたのみことば」を守っていないことが、ここで分かる。

 だがイエスは、「彼らはあなたのみことばを守りました。」と、弟子たちが「あなたのみことば」を守ったこととみなして下さっている。
 守っていないのに、守っているとみなされる。
 このことは、私たちが重罪人であるのに罪なき人とみなされることと同様である。

 弟子たちは復活のイエスに出会って、このイエスが神から来られたということをはっきり分かって、そして信じる。
 ところで弟子たちに限らず、神が世から取り出された人というのがたくさんいる。
 外見の比較や言動だのでは、見分けは付かない。
 なにしろ本人も、そのことを知らないのだ。
 しかし、イエスと出会ったときに、そのことを知る。
 落としようのない罪に汚れた身であるにもかかわらず、罪がないとみなされる、これを「救い」とも「いのち」とも呼ぶ。

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『この世のものでない』人々

 「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。
 彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。
 わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
 真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。
 あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。
 わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。
 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。」(ヨハネ17:14-20)

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 イエスの祈り。

 「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。」
 彼ら、すなわち弟子たちは、実はこの時点では、世のものに属している。
 後に復活のイエスという真理が彼らを聖別して、それでもはや、弟子たちもこの世のものではなくなる。

 それは、「彼らのことばによってわたしを信じる人々」、すなわちイエスのお姿を見ておらず、ただ聖書越しに想像するしかない私たちについても当てはまる。
 イエスのお姿を見ていなくとも、このイエスに出会って聖別されるということが、ある。
 その結果として、イエスを信じることとなる。このことは、ただ神の恵みによる。
 するとその人は、もはやこの世のものではなくなる。
 この世で生きていながら、この世のものではなくなるのだ。
 それで世はその人を憎む。
 それは、世がイエスを憎んだからだ(参/ヨハネ15:18)。

 イエスは、これら「この世のものでない」人々を、「この世から取り去ってくださるように」父に願うことは、けっしてしない。
 イエスは、人間にそんな安楽な逃避をさせるために十字架にかかるのではない。
 かえってイエスが与えた「いのち」は、この世の憎しみその他諸々を引き受けて世を全うし、イエス同様世に打ち勝つ、そのためのものなのだ。
 それでイエスは、「悪い者から守ってくださるようにお願い」して下さる、つまり愛し応援なさるのである。

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[付記]
 「聖別」という用語を用いたことには、少し違和感を覚えています。

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子の栄光

 「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。
 それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17:1-3)

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 弟子たちに語り終えられたイエスの祈り。

 神は子イエスに、「すべての人を支配する権威を」与えられた。
 神がお持ちの、万物を統御する権威と同じものだ。
 イエスはその権威によって、数々の有り得ないわざを今までなされた。
 病人の癒し、死人のよみがえり、パンの奇蹟…。
 それは、御自身が神であることの証明のためだったような気がする。
 イエス自身、「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」(ヨハネ14:11)と仰っている。

 そして今、イエスは、最もありえないわざをなさっておられる。
 十字架である。
 人が神を裁いて死刑に処し、それも最も重い罪とされ、最高刑の十字架につく。
 つまり人間の肉はそれほどにまで罪深く、その肉をまとったイエスが、十字架上で「肉の処刑」をしてしまう。
 罪深い肉に処刑済の焼き印を押したのである。
 これこそがもっともありえないわざであり、「あなたからいただいたすべての者」を罪赦して、永遠のいのちを与える。
 すなわち、その人は「唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリスト」と出会い、そして信じる。

 イエスは、神であるのに人を裁くことをなさらず、「すべての人を支配する権威」を、もっぱら人間に「いのち」を与えるため、言い換えると御自身を信じさせるために、十字架という手段でお使いになられた。
 ここに子の栄光がある。

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父がおられる

 「いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」
 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。
 見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。
 しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。
 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。
 あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:30-33)

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 十字架を前に、イエスは弟子たちに語り続ける。

 「わたしをひとり残す時が来ます。」
 いや、既に来ているという。
 イエスは弟子たちを友と呼んだが、そもそもは師弟の間柄であるから、弟子たちがいてもイエスには師としての孤独があっただろう。
 神が「孤独」?
 そう、イエスは、神が人間の肉をまとって来られた存在であるから、人々が皆恐れ嫌がっている孤独感を、肉あるイエスは味わい続けていたのではないだろうか。
 なにしろ周囲は、敵意と無理解の渦だったのだ。
 そして今や、弟子たちすら恐怖で逃げ去ろうとしている。
 イエスは、そのことを指して、「わたしをひとり残す時が来ます」と仰っている。
 これ以上ない孤独の身となる。
 そして待ち受けているのは、十字架への道。いわゆる受難。
 イエスは何を感じているのだろう。
 しかしイエスは言う。
 「しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。」
 孤独と受難という状況下、父が共におられると信じること、これこそ信仰であり、それは「いのち」の実だ。
 この実をして、イエスに「わたしはすでに世に勝ったのです」と言わしめる。

 信じる人には、イエスが歩んだように「患難」がある。
 しかし、信じるが故に、その人はイエスのように世を超克する。
 イエスもその人に、勇敢たれと励ます。

 一方、弟子たちは、「私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」とか言っておきながら、散り散りに逃げ去ってしまう。
 信じてなどいないのだ。
 彼らは、復活のイエスに会うことによって初めて信じた。
 ちなみに、信じる人はどの人も、その出会いによって信じる。

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はっきりと告げる時

 「これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。
 その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。
 それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。
 わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。」(ヨハネ16:25-28)

---

 十字架を目前にして、イエスは弟子に語り続ける。

 今まで話したことは、たとえであった。
 しかし、たとえではなく「はっきりと告げる時が来」る、イエスはそう仰る。
 何について告げるのかというと、「父について」である。
 その時というのは、弟子たちに語りかけている今このときでは、ない。
 その人その人、おのおの機が熟したときなのだろう。
 言えることは、ただ神の恵みによってのみ、その時に至る。
 自力では、どうにもならないことだ。

 「父について」はっきりと分かると、「わたしを神から出て来た者と信じ」るに至る。
 端的に、信仰に至る。
 「いのち」に灯がともされる。
 神がその人を愛してくださる。
 だからその日には、「あなたがたはわたしの名によって求めるのです」。
 信仰を持つ者がおのずと求めることを、求める。

 イエスは父の御許から世に来られ、今まさに、その父の御許に行こうとしている。
 父についてはっきり分かる時が来て、イエスが誰かが分かって信じる人は、そのイエスと同じような歩みになる。
 きわめて俗っぽく言い換えると、その人は「天国」に行くのである。

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『ひとりの人』が与える確信

 「女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。
 あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。
 そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。
 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。
 まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」(ヨハネ16:21-24)

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 十字架を前に、イエスは弟子たちに語り続ける。

 今、イエスは去ろうとしているが、「もう一度あなたがたに会います」。
 それは産みの苦しみのようなもので、その苦しみを通して「ひとりの人が世に生まれ」る。
 この人には、アダムの罪深い肉は、ない。
 それは十字架に残しておいた。
 この「ひとりの人」は、肉を脱ぎ去った清き存在だ。

 この復活のイエスに出会った人は、喜びに満たされる。
 「そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者は」、ない。
 悲しい日も悔しい日も、確信が消えることはないので、その喜びも奪われない。
 その確信とは、「もはや、わたしに何も尋ね」なくなるほどのものだ。
 それほどの強く絶対的な確信を、新たに生まれた「ひとりの人」は与えてくださる。

 その確信とは、自身もよみがえって肉を脱ぎ去り新たに生まれ、「ひとりの人」と同じようになる、ということである(参/コロサイ2:11)。
 それで、喜びであふれかえっている(参/1ペテロ1:8-9)。

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御霊について

 「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。
 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
 御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
 父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。」(ヨハネ16:12-15)

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 十字架を前に、イエスは弟子たちに語り続ける。

 イエスはまだまだ語りたいことがたくさんある。
 だが、弟子たちが、「それに耐える力がありません」。
 これは、弟子たちがうんざりしているからではない。
 かえって、理解に勉めているのだが全く分からないことだらけで、半ば頭が真っ白になってしまっているのかも知れない。

 それと全く同じことが、2000年来続いている。
 聖書というものが編まれた。
 この書物の中にこそ真理がある、真理が書き込まれている、そう思うので、人々は次々に聖書を手に取り、開き続ける。
 ところが何度開いても、何が真理か皆目分からない。
 「それに耐える力が」ないからなのだが、自力でその力をつけることはできない。

 「その力」は、「真理の御霊が来る」ことによってのみ得られる。
 ちなみに、この「真理の御霊」も、自力で来させることなど全くできない。
 この真理の御霊が、その人を「すべての真理に導き入れます」。
 そうすると、今まで全く分からなかった聖書を、砂が水を吸うようにぐんぐんと理解できるようになる。
 なぜなら、「御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話」されるからだ。
 つまり、御霊を介してイエスに出会って手ほどきを受けるようなものなのだ。
 そしてなにより、出会ったイエスを、初めて信じるて頭(こうべ)を垂れる。

 こうしたことすべては、ただ神の恵みによる。

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イエスの命令

 「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。
 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。
 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:13-16)

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 これから十字架へと、「友のためにいのちを捨て」に行くイエスは、語り続ける。

 「あなたがたに命じること」とは、個人的には、十字架の道を歩むことだと思っている。
(その中には例えば「互いに愛し合いなさい」も含まれるのだろう。)
 つまり、今イエスが歩んでいる十字架の道、この道をイエスが切り開いたので、この道を歩め、と。
 理不尽にも最高刑によって死に(つまりあなたは、それほどの重罪人なのだ)、そしてよみがえって「いのち」をいただく。
 そんな道だ。

 イエスは、「わたしがあなたがたを選」んだ、と仰る。
 「あなたがたがわたしを選んだのでは」ない(こちら参照)。
 だから、この十字架の道は、歩きたくなくとも歩まざるを得なくなる。
 そのように選ばれたのだから。
 イエスは友に、「父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせた」。
 逆に選ばれなければ、どれだけ志望しようと、この道の入り口すら見いだせない。

 この十字架の道を歩むことがイエスの命令であり、実を結ぶことである。
 イエスが友として付き添ってくださる道だ。

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