「私の肉のうちに善が住んでいない」

 「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」(ローマ7:18-20)

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 「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています」。
 それはなぜかというと、「私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないから」、すなわち、律法に叶う行ないをしたいのにできない、それゆえ、自分の肉の内には善がない、という認識である。
 もし律法がなかったら、この認識には達しないだろう。
 また、自分は律法を遵守していると考えているならば、この認識にはけっして達しない(詩篇119篇などは、この考えに立った旧訳時代の歌である)。

 「私の肉のうちに善が住んでいない」。

 なんと重い、神からの宣告であろうか。
 アダムの肉とはそのような何の希望もなく、何の信頼もおけないものだということを、真の律法はこれでもかと突きつける。
(ヒューマニズムと真っ向から対立するのは、そのためだ。)
 ただ、律法が指弾するのは、「私」そのものではなく、「私のうちに住む罪」である。
 「私」をそのアダムの肉の罪から救うのが、イエス・キリストの十字架である。
 この十字架が、このアダムの肉を身代わりに処分した。
 恵みによってキリストに出会った者は、そのことが分かって救われるのである。
 その罪からの救いのためには、律法が律法としてきちんと機能することが必要となってくる。
 律法を守っているから自分は正しい、というパリサイ人的な認識は、救いから最も遠い。

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罪をあぶり出す律法

 「では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。
 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。
 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。
 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
 ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」(ローマ7:13-17)

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 律法は、これを遵守しようとする類のものではない。
 イエスの山上の説教でのような厳格な解釈をほどこした律法、その全てについて、人間は遵守できるような存在ではない。
(そもそもその山上の説教は、そのことを言っている。)
 この律法は、もっぱらアダムの肉の罪をその人に指弾するために存在する。
 人はまず、神の御前に罪深い存在であることを、この律法によって自覚する必要がある。そうしないと、救いもまた、論理的にありようがない。
 「私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。」との思いを持たない人は、そもそも救いを求めないだろう。
 自分は律法を遵守していると言い張るパリサイ人、律法学者とイエスが互いに対立するのは、当然のなりゆきである(マタイ23章参照)。

 「もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。」
 律法が罪をえぐりだすので、「律法は良いもの」なのである。
 そしてアダムは、律法があぶり出したその罪に死ぬのである。
 罪なきイエスは、身代わりに極刑の十字架に掛かって下さっている。
 そのイエスが復活したように、罪に死んだ人もまた、イエスと同じ道を通って復活するのである。

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聖なる律法

 「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
  しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。
 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。
 それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。
 それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。
 ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」(ローマ7:7-12)

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 律法は、アダムの肉のあらゆる罪に光を当てる。
 「律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。」というのは、そのとおりであり、「律法がなければ、罪は死んだもの」、つまり、もし律法を知らなかったら罪が頭をもたげることもなかった。
 「戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺」す。
 律法は、その人の肉に潜む罪をつまびらかにし、そしてその「罪が生き、私は死」ぬ。

 では、なぜ「戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました」というような性質を持つこの律法が、「聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いもの」なのであろうか。
 というのは、私たちのイエス・キリストが、私たちと同じような肉を十字架につけて処分して死なれ、そしてよみがえったのである。
 罪なきイエスが、初穂として死んで、初穂として復活への道のりをつけてくださった。
 このイエスを信じる者は、このイエスの歩みのとおりに、聖なる律法に死んでもよみがえるのである。

 「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(ローマ6:4)

 律法だけでは、単に殺すだけだ。
 キリストだけだと、復活の意味がない。
 両者は対をなしている。
 律法によって死に、キリストによってよみがえるのである。
 そうであってはじめて、「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いもの」として、私たちアダムの肉に働いてくる。

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アダムを追い込む律法

 「私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。
 しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」(ローマ7:5-6)

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 私が聖書を手にしてまもなく、山上の説教での次の聖句を知った。
 「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:27-28)
 そのころたまたま入ったコンビニのレジにいた若い女性が非常に可愛らしく思え、と同時に、「すでに心の中で姦淫を犯した」が思い出された。
 レジの前にいた私の心の中には、えもいわれぬ不安がふつふつと湧き上がっていった。対人恐怖症の始まりである。
 もし私が聖書を、律法を知らなかったならば、そのように不安に思うこと自体、なかったはずだ。
 これは、律法が私の肉の罪を容赦なく指弾して、私のそのアダムの肉に反応したということである。
 律法は、このようにアダムの肉の罪を気付かせる役割がある。
 イエスの山上の説教に至っては、その律法を突き詰め、律法を遵守することなど誰一人できない、ということを説いている。上の「姦淫」の箇所もそうだ。
 そうして律法群は、アダムの肉を死へと追いやってゆく。

 ではなぜ、律法群はアダムを死へと追いやるのだろうか。
 それは正に、死に至らしめるが為である。
 イエスという初穂は、自らの肉を十字架に架けて処分し、三日目によみがえられた。
 その歩みと同様に、律法が私たちの肉を殺し、キリストがよみがえさせる。
 よみがえらせるためには、まず死ぬ必要があるのである。
 よみがえったとき、私たちは「私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだ」、「新しい御霊によって仕えている」。
 いいかえると、「いのち」に生きるためには、一度は律法という神の掟によって死ななくてはならないのであり、その道は既にキリストが開拓したのである。

 今も律法は厳然と存在するが、私たちは既に律法から解放されている。
 というのは、もう既に、律法に死んだからだ。
 今はキリストが下さった「いのち」に生きている。
 ちなみに私は今も対人恐怖症が完全に治癒したわけではないが、これは言ってみれば「とげ」(2コリント12:7)のようなものであり、そんなものとは比べものにならないものをいただいたと思っている。

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恵みと律法

 「それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。
……
 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:15,23)

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 律法だとか恵みだとかとは、そもそもなんであろうか。
 それらは共に、神が差し伸べた救いの手だてに他ならない。
 アダムの肉を持つ罪深い人間をその肉から救う、その救いである。
 言うまでもなく、旧い約束か、新しい約束か、というのが、両者の違いだ。

 だが律法はそれ以上に、神の完全なる秩序の体現である。
 時代がどうであろうが、キリストが十字架に掛かった後であっても、人に罪深さを自覚させるのは、あくまで律法なのである。
 その律法を完全に遵守してクリアするか、それとも恵みによるのか、というのが、救いについての新旧の違いである。
 恵みをもたらしたのが、イエスの十字架そして復活である。

 イエスの十字架そして復活とは、このロマ書6章で、死んで生きる、という言葉で繰り返される(例えば7節)。
 この、死ぬ、ということが、イエスの十字架にあずかるということであり、恵みによるのである。
 ここにいう恵みとは、上の聖句に言う「神の下さる賜物」に相当する。
 だから、「恵みの下にあるのだから罪を犯そう」というのは、恵み、という言葉をはき違えている。

 また、十字架の死という恵みによって救われてもなお、私たちはアダムの肉のままである(当たり前のことだが)。
 律法が規定する罪を、いつでも犯す存在にはかわりはない。
 ただ、それが赦されて義と認められたということが大きな違いであり、それが救いである。
 それがよみがえりであり、永遠のいのちなのである。

 そのような私たちが罪の下におらず心安らかなのは、罪を犯さないからではなく、恵みによって罪赦されたからなのだ。

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キリスト・イエスにある死とよみがえり

 「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」(ローマ6:6-11)

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 アダムの肉を持つ私たちは、ただ神の恵みによってのみ、キリストと共に十字架につけられる。
 この極刑によって裁かれ、死んでしまうことによって初めて、からみついていた罪、アダムの肉から解放される。
 そしてこのキリストがよみがえられたように、その人はよみがえってキリストにあって生きるようになる。

 「罪に対しては死んだ者」というのは、神の秩序たる律法にどこまでも反してしまう罪の肉に対する全くの無力さを認めることであり、「キリスト・イエスにあって生きた者」というのは、この罪深き肉が赦され神から義と認められている、そう信じることである。

 だから、回心とは、死とよみがえりのことであり、それはただ神の恵みによるのである。

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[付記]
 ほんじつの記事は、2008年10月1日付の記事を加筆したものです。
 タイトルも変更しました。

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罪に対して死ぬということ

 「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(ローマ6:1-4)

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 上の引用箇所は、それより少し前の「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」(5:20)を受けてのもの。
 律法によって罪が増えたところに恵みが満ちるのであれば、逆に、「恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか」。

 だが、この問いは、全くのナンセンスなのである。
 恵みによってイエスと出会い救われた者は、それまで私たちが身につけていたアダムの肉をイエスに処理していただいている。
 律法は、このアダムの肉を罪と告発するためのものであるから、救われてこのアダムの肉が処理された者は、律法による咎めからは解放されて罪赦されている。
 だから、「罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」となる。
 「罪の中にとどまる」ということは、救っていただいた身にはありえない状態なのだ。

  このアダムの肉の処理というのは、イエスの十字架、すなわちイエスの極刑の死によって、執り行われた。
 それが「キリストの死にあずかるバプテスマ」の型である。
 私たちは、全くの恵みによって、このバステスマに授かる。
 そして、このバステスマに預かった私たちは、キリストの復活同様、「いのちにあって新しい歩みをする」のである。
 アダムの肉の罪性にがんじがらめにされ、さらに律法に責め続けられてきた今までの歩みが、恵みによって救われて、「新しい歩み」をはじめるのである。

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律法とイエスによる恵み

 「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」(ローマ5:20-21)

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 神は人に、律法を授けた。
 人はこの律法を、微かにも守ることのできない存在でしかなく、神の秩序からは遠く掛け離れた存在でしかなかった。
(そのことに全く気付かないのが、パリサイ人である。)
 だから、人間には救いが必要になる。

 「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるため」というのは、事実そうなのであり、寧ろ、違反がよりはっきりするために律法が入ってきたと言ってもいい。
 違反とは、すなわち不義のことだ。
 自らの不義が明らかになればなるほど、その人は神の救いを求めるだろう。
 そして、その追い込み役こそ、律法の役割なのである。

 救いを求める者には、満ちあふれた恵みの下、身代わりに肉を十字架につけたイエス・キリストが出会ってくださる。
 不義という罪は死しか生み出さなかった。
 しかし、救世主イエスとの出会いは、「いのち」をその人に与える。それも「永遠のいのち」だ。
 イエスの救世主たるゆえんは、その十字架と復活によって、このような恵みによる救いの道を拓いてくださったことにある。

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