何を求めて信じるのか

 「すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
 イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。
 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
 そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。
 そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です。」と言った。」(マタイ14:28-33)

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 嵐の中、湖上を歩くイエスと、そのイエスを見たペテロ。

 ペテロは沈みかけて、イエスに助けを求める。
 そのイエスはペテロに「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と話しかけるのだが、ここでいう信仰とは何であろう。
 イエスと同じように水の上を自在に歩き続けることが、信仰なのだろうか。
 それでは人が神と同じ存在になってしまう。
 イエスは、人を神にしたいのだろうか。それが違うのは明らかだろう。
 イエスがしたいのは、神と人との和解であり、イエスはそのための仲介者(たとえばヘブル8:6)なのである。

 だから、ペテロは嵐の中の湖でおぼれなくてはならなかった。
 信じず、なぜ、助けなど求めたのだろう。
 おぼれ死んで水際に打ち上げられてからが、復活の主イエスの出番ではないか。
 実際にはこういうことはないのであるが、死んで、イエスによって新生する、これが信仰である。

 私たちは、超常現象がやりたいからイエスを信じているのではない。
 不治の病を癒したくて、イエスを信じているのでもない。
 それらは、しるし、すなわち手段であって、目的ではない。
 私たちはただひとつ、魂が救われたくて、イエスにすがりついている。
 そのイエスは私たちを、まずはおぼれ死なせて、それからよみがえらせる。

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満腹するやあっさり帰る群集について

 「そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。
 人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。
 食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。
 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。」(マタイ14:19-22)

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 前々から不思議なのだが、どこまでもイエスを追いかけてきた群集は、給食の奇跡によって満腹するや実にあっさりとイエスから離れてくれる。
 四千人の給食(マタイ15:32-39)でも、全く同様に、満腹するや、あっさりイエスから離れる。
 イエスが与えたいものは「いのちのパン」(ヨハネ6:48)であって、マナのような、それを食べていっときの空腹はしのげても死からは逃れることのできない(ヨハネ6:49)ようなものではない。
 次から次へと飛び出るパンには喜んでも、「いのちのパン」を与えてくれるイエスのそのしるしの意味には全く目が行かない。
 この群集は、イエスを便利な存在としかとらえておらず、それでは単なるご利益宗教にすぎないのではないか。

 もっとも、それも無理はない。
 私たちにはイエスがどのような存在なのか、わからないのだ。それも、まったく分かっていない。
 しかし、復活のイエスの方から戸を叩いてやってくる時が来る(黙3:20)。
 その時イエスは「いのちのパン」を与えてくれ、私たちもイエスがどのような存在であるのかをはっきりと了解するのである。

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[一版]2007年 7月22日
[二版]2010年 7月13日
[三版]2012年 4月28日
[四版]2013年11月24日
[五版]2016年 4月17日(本日)

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隠された宝

 「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)

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 私はカネを求めていたかのようで、そうではなかった。
 人からの栄誉を求めていたかのようで、そうではなかった。
 ほんとうに求めていたもの、それが実に、聖書にあった。
 「 わたしはいのちのパンです。」(ヨハネ6:48)
 まさしくイエス御自身こそが、いのちのパン、わき出る泉(ヨハネ4:14)、また永遠のいのち(ヨハネ6:27)そのものであったとは!

 今の私は、特に何かを失ったわけでもない。
 明日も、今まで通り、ごく普通に売り買いするだろう。今まで通りに、怒り、泣き、笑うだろう。ストレスも、依然として大きいだろう。
 人としての営みには、さほどの変化があるとは思えない。
 けれどもなんといっても、イエス、この宝を見いだした満足感の大きさといったらない。

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[一版]2006年 9月 2日
[二版]2008年 8月 2日
[三版]2010年 7月12日
[四版]2012年 4月22日
[五版]2013年11月23日
[六版]2016年 4月10日(本日)
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人間の2種類

 「ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。
 御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
 また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
 しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
 また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
 ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」(マタイ13:18-23)

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 種蒔きのたとえの、イエス自身による謎解き。

 ここでは、4種類の人間がたとえられている。
 道ばた、岩地、いばら、そして良い地。
 もっといえば、人間には2種類しかいない。
 実を結ぶ人か、結ばなかった人か、その2種類である。
 言い換えると、救われる人か、救われない人か、その2種類だけである。
 聖書には、この2種類についてのたとえ話がとても多い。たとえば五人の愚かな娘についてのたとえ話(マタイ25:1-13)など。
 この2種類とは、畢竟、御父の御恵みについてのことである。
 であるから、主権は人間の側になどなく、どこまでも神の側にある。
 神が恵もうとされるか、そうとは思われないか。
 乱暴だが、人間の2種類とはこの区分である。
 だから、誰が救われるかなど、誰にもわからない。

 では、救いとは確率的なもので、何もやらなくても運が良ければ救われるのであろうか。
 それは違う。救われるための準備をしておく必要がある。
 具体的には、自分が神の御前に罪人であることを悟ることだ。
 そして、罪人であることがわかるためには、神の律法をどこまでも遵守してゆく必要がある。
 そのように自分を耕して耕して「良い地」にしていって、罪人が救われるための御恵みを待つのである。

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