いったい律法とは何なのか

 「そのころ、パリサイ人たちは出て来て、どのようにイエスをことばのわなにかけようかと相談した。
 彼らはその弟子たちを、ヘロデ党の者たちといっしょにイエスのもとにやって、こう言わせた。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは、人の顔色を見られないからです。
 それで、どう思われるのか言ってください。税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」(マタイ22:15-17)

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 「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」(21節)とイエスが有名な答えをした、そのパリサイ人の質問。

 パリサイ人とは一体、どういう人たちなのだろう。
 正直なところ、ますます分からなくなる。
 というのは、律法が目的とするところと、ローマ帝政下での納税とが、どこでどう結びつくのか、ちょっと理解できないのだ。
 この人たちは、律法を全く分かっていないのではないか。
 そのくせ「律法」を振り回して人々を締め付ける。
 というより、人々を締め付けるための道具として「律法」があるのではないだろうか。

 なんどでも書くが、律法は神の完全なる秩序である。
 崇高な神の基準であり、アダムの肉を持つ人間がここを目指そうとしても到達することは出来ない。
 それはアダムの肉のためであり、それゆえ人間は罪に定められる。
 ……という人間存在の本質的な問題と、納税をどうこうということとが、そもそも何故結びつけられるのだろうか。
 税金をカイザルに納める、納めないということが、いったいあなたの生き死にの何に関係するというのか。

 イエスは気の利いた答をしたが、「それとこれって、一体何の関係があるんですか」くらいのことをこのパリサイ人に言うことはたやすいことだ。

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招待される者、選ばれる者

 「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。
 王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。
……
 王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。
 そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。
 だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』
 それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。
 ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。
 そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。
 そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。
 招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」(マタイ22:2-3,7-14)

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 王子結婚の披露宴。

 招待していた人々、モーセの座を占めていた人々は、ふさわしい人々ではなかった。
 そこで王様は、通りに出て誰彼構わず招き、宴会場はいっぱいになった。
 このように招待される者は多い。非常に多い。
 誰でも招かれ、応じさえすれば宴会場に入ることが出来る。

 ところが中に、礼服を着ていない者がいた。
 ここは王子結婚の披露宴なのであるから、彼の非礼は明らかである。王様の怒りは当然だ。
 礼服を着ていなかった彼は、招待されはしても選ばれなかった。

 このたとえ話の中で、礼服非着用の彼が選びから真っ先に除外された理由は、比較的理解しやすい。
 「招待される者は多いが、選ばれる者は少ない」、では、何によって選ばれるのであろうか。
 それは、ただ恵みによってである。
 行いによるのであれば、モーセの座の連中が、理由はどうあれ宴会場に入っていただろう。
 それからもう一つ、その恵みを祈り待つことが必要ではないだろうか。
 礼服非着用というような姿勢では、やはり恵まれないのだろう。

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イエスの人間くささ

 「翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。
 道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。」(マタイ21:18-19)

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 何度でも書くが、イエスは人間の肉をまとった神である。
 だからこそ、イエスが十字架に架かったことに意味がある。神が肉を自ら処罰したのだ。
 それはさておき、肉を持つイエスは、腹が減った。

 いちじくの木が見えたから実を食べようと近づくと、そこには葉っぱしかなかった。実は落ちてしまったのか、それとも、先客が食べてしまったのか。
 むっときたイエスは、そのいちじくの木をたちまち枯らしてしまう。

 この、いかにも人間くさいところが、イエスが肉をまとっているという所以である。
 イエスが一時期の感情に委ねていちじくの木を枯らしたというのは、正に私たちと同じではないか。
 公生涯を送っておられるイエスは、肉を有するゆえに私たちと変わることがなく、それゆえに、復活のイエスは弱い私たちのことをお分かりなのである。

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怒るイエス

 「それから、イエスは宮にはいって、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」(マタイ21:12-13)

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 宮清め。

 イエスは、怒っている。
 宮が「強盗の巣」になってしまっているからだ。
 これは神の御怒りなのだろうか。
 個人的には、人間と同じ肉をまとったがゆえの、私たちと同様の怒りではないかと思う。
 イエスは時々怒る。例えば、マルコ10:14「イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。」。また、マタイ23章は丸ごと「怒りの章」と言ってもいいだろう。
 公生涯において、イエスは我々人間と同様、きわめて人間的に怒っている。

 そのように人間の肉の弱さがわかっているからこそ、復活のイエスは私たちに同情できる大祭司(ヘブル4:15)として、神と私との間をとりなして下さるのである。

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なにゆえに、イエスを喜ぶのだろう

 「そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」
 こうして、イエスがエルサレムにはいられると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか。」と言った。
 群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ。」と言った。」(マタイ21:9-11)

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 イエスのイスラエル入城。

 イエスは群集から、あらんばかりの祝福を受けている。
 ただ、その祝福は、イエスこそイスラエル王国を再興しローマの支配から解放してくれるだろう、というものであり、それでイエスに「ホサナ」と叫んでいる。

 一方イエスは大分前から、「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」(マタイ16:21)。
 イエスは、「多くの苦しみを受け」十字架に架かるために、エルサレムに入る。
 それは、人間の肉の罪を処罰するため、そして復活を通して、そのことを信じる人間が罪赦されるためである。

 群集(弟子たちも)とイエスの間の、このあまりのギャップ。
 群衆達の、徹底した無理解。
 だから気付くと、群集はのちに「十字架につけろ」(マタイ27:22)などと、真逆のことをイエスに向かって叫びだす。
 弟子たちは、逃げてしまう。

 なにゆえに、イエスを喜ぶのだろうか。
 どのような期待を、イエスに持っているのだろう。
 「イスラエル王国再興」のような、全くの筋違いを求めてはいないだろうか。 しかし、たとえそうであっても、恵みによって復活のイエスに出会うと、なにゆえにイエスを喜ぶのか、イエスに真に期待するものが、瞬時にしてはっきりわかるようになる。
 最初はみな、上の群集のようなものなのだろう。

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救いは果たして、能力主義だろうか

 「すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」
 そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」と叫び立てた。
 すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」
 彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」
 イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。」(マタイ20:30-34)

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 エリコの盲人たち。

 群集の制止にもめげず、エリコの盲人たちはその盲目の癒しをイエスに求め続け、イエスは彼らの願いをかなえる。

 なぜイエスは、エリコの盲人たちにあわれみを示したのだろう。
 口がうまかったからか。
 声が大きかったからか。
 そうではなくて、あきらめなかったからではないだろうか。
 異邦人の女の願いを聞き届けたときも、そうだった(マタイ15:22-28)。
 彼女にしても、会話にペーソスが効いていたからイエスがあわれんで下さったのだろうか。

 もし、口がうまいとか、声が大きいとか、あるいは頭の回転が速いとか、そういうことで救われるのだとしたら、人間の救いはその人の能力に応じてなされるということになってしまう。
 救いは果たして、能力主義だろうか。
 そうではなく、エリコの盲人たちも異邦人の女も、冷遇や制止にめげずに救いを求めたから、イエスが彼らをあわれんだのではないか。
 それと同じで、私たちはあきらめずに願えば、十字架のイエスに救いを得ることができるのである。
 人間的な能力は、そのとき全く問われない。

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贖いの代価

 「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタイ20:28)

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 イエスは「贖いの代価」として、自らの肉の命をお与えになる。
 では、「贖いの代価」とは何だろうか。

 私たちアダムの子孫は、そうであるが故に神の御前に罪深い存在である。
 どのような行いをもってしても、神は依然として私たちを罪深き者とご覧になる。
 つまり、私たちがその罪深さをどれだけあがなおうとしても、そんなことで罪をぬぐうことにはならない。それも、全くならない。
 人間には、罪を贖う能力が全くないのである。

 だから、イエスが私たちの代わりに贖ってくださるのである。
 イエスの肉というささげ物が神にささげられ、人を救うこの「贖いの代価」を神は良しとしてくださった。
 それが十字架であり、その十字架を信じることのできる「多くの人」は、イエスという対価によって贖われて罪赦されているのである。

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[付記]
 本日の記事は、2008年8月12日付の記事に筆を加えたものです。

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待ち続けること

 「こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
 最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
 そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
 言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』
 しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』 このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」(マタイ20:8-16)

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 このぶどう園の主人は、夕方5時に雇った人間から先に1デナリを配り初め、朝早くから働いている人間にも同じく1デナリを支払った。
 長時間働いた人間からは、当然不満が出る。
 だが、約束は確かに約束だ。

 夕方5時に雇われた人たちは、誰も雇ってくれない中、職を一日中待ち続けた。
 誰かが雇ってくれることを、あきらめなかった。
 そのように待ち続けた人こそ、真っ先に報われた。
 これは、天の御国の話である。
 「あとの者が先になり、先の者があとになる」のであり、これと同じ意味として「……バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。」(マタイ11:11)がある。

 恵みを待ち望む者、待ち続ける者には、1デナリが、それも先に与えられることの約束ではないだろうか。

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針の穴

 「それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。
 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
 弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」
 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」(マタイ19:23-26)

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 「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」。
 金持ちの青年が去ったあとに、イエスは上のように仰る。
 「金持ちが」のところは、話の流れでそうなったのであり、何であっても当てはまる。
 貧乏人。
 社長。
 ヒラ社員。
 夫。
 妻。
 子。
 なんであっても、「らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」。

 天の御国に入るということは、誰にとっても針の穴を通るようなものだ。
 針の穴とは、狭き十字架の道であり、たいがいの人は、それを見いだすことすらかなわない(参/マタイ7:13-14)
 ところが、イエスを遣わした神には、どんなことでもおできになる。
 金持ちが針の穴を通ることすら、この神によってお出来になる。
 例えば、悔い改めた泥棒が、この神によって針の穴を通過したりする。
 その悔い改めもまた、神の御恵みによってなのである。

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[付記]
 本日の記事は、2008年8月10日付記事に筆を加えたものです。

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いのちにはいりたいと思うなら

 「すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」
 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」
 彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。
 父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」
 この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」
 イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
 ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。」(マタイ19:16-22)

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 金持ちの青年のたとえ。

 イエスは言う。「いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい」。
 戒めを守ろうとし、戒めにつきあたり、戒めに死ぬところに、復活のいのちが見いだされる。
 イエスはこれから、その十字架の道を開通させようとしている。

 ところがこの金持ちの青年は、ぬけぬけ言ってのける。
 「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」
 戒めをみな守っているなどと思っているあたりが、この青年の最大の欠けである。もし私だったら、「そいつはすごいねえ」とか、嫌みの一つでも抜かしていることだろう。
 だがイエスは更にからめ手から攻める。
 「あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」。
 彼が全財産を施す、ということは、彼の価値観からすると自身の死を意味する。
 金持ちの青年は、それができずに立ち去ってしまった。
 つまりこの青年は、「いのち」のために自分に死ぬこと、自分に死んでイエスにつきしたがうということができなかったのである。

 死ななくては、生きないのである。
 より具体的には、律法によって重罪人とされ十字架に死に、イエスと同じように復活する。金持ちの青年が欲しかったものは、この「いのち」である。
 「いのち」は、恵みによってどの人にも与えられる。
 貧乏人にも金持ちにも、分け隔てはない。
 現にこの金持ちの青年にも、イエスは大きなチャンスを与えている。「いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい」、と。

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