イエスの祈り

 「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。
 彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。」(ヨハネ17:14-15)

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 昼休み、ぱらぱらめくって、たまたま目に入った箇所。

 このヨハネ伝17章はまるごと、十字架に掛かる直前にイエスが父なる神に祈り続ける。
 「わたし」はイエス、そして「彼ら」は、イエスの弟子。

 「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく」。
 そうです、この世で全うする「何か」があります。天国は早すぎる。
 そしてイエスは祈ってくださる。
 「悪い者から守ってくださるように」。

 「悪い者」とは具体的に何なのかは、人によって様々でしょう。
(「悪い者」ではなく「悪い『物』」かも知れないし、「良い者」ではあってもその関係性において不幸にも「悪い」場合さえあるかも知れない。)

 「悪い者から守ってくださるように」。
 するとこの祈りは、「魔除け」の類とは違うような気がします。
 そして、この聖句を思い出しました。

 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)

 「悪い」と思う事物であっても、それを神が「時」という「ふるい」に掛けてゆくと、あるところで全く形を変えて「益」として働いていた…。
 おそらく誰にでも二、三、そういうことが思い当たると思います。
 「あ、あのときのあのことがあるからこそ、今のこれがあるんだ」。

 イエスは「悪い」思いをしている人のために、祈ってくださっているかのようです。
 「ふるい」に掛けられているあいだ、その人が堪え忍べるように。
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「口から出るもの

 「イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口にはいる物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」
……
 イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか。口にはいる物はみな、腹にはいり、かわやに捨てられることを知らないのですか。
 しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。
 悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。
 これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」(マタイ15:10-11,16-20)

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 「口から出るもの、これが人を汚します」。

 人のこころが「悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしり」「だけ」で占められてしまっているとは思わない。白か黒か、というよりかは、割合、パーセンテージ(しかも計測不能)で捉えた方がいいように思う。

 私のこころの「悪い考え」パーセンテージは、かなり高い。
 みな、似たようなものだろう。
 ただ私は、できるだけ意識して、口にはしないようになった。
(それでも付け焼き刃なので、もちろんたまに出る。)

 自分は悪い者であり、こころのうちに「悪い考え」が多いこと、このことはすっかり受け入れた。
 だからといって、それをやみくもに表出させては、「人を汚し」てしまう。

 最後に、善悪の基準という、いささか厄介な問題が残る。
 わたしにとってのそれは、多分聖書なのだろう。
 これを押しつけるつもりは、もはやない。
 何故かというと、もっぱら「神-私」という関係の中でのお話だからだ。
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悪い者

 「『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:38-39)

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 ま、わたしは今、頬を打たれるようなことをしている覚えはちっともないんですけど、頬を打たれることがけっしてないということはないでしょう。
 その人がわたしの頬を打ったのは、私が何かしたからでも、敵だからでも、心底憎たらしいからではなく、根源的にはもっぱら自身の問題に帰するはずです。
 ですから、頬を打つ人、彼は自身で「悪い者」証明したにすぎません。というわけで、「手向か」うまでもないことですので、彼をいたずらに恐れる必要もまた、全くありません。
 もし彼が「左の頬」をも打ったなら、それは自身で二重にバツ印を付けるようなものです。
 私はそのためのリトマス試験紙に徹すればよいようです。

 「目には目で、歯には歯で」、は、どうも気分がよくないですね。
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ひとつだけ

 「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:38-42)

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 たしかにイエスが仰るとおり、「どうしても必要」なのって、たったのひとつだけのようです。
 ちなみにそれは、自分のいのちで「すら」ないと思います。イエスも「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)と仰っているそのままです。

 マルタがあたふた騒がしいのとは対照的に、マリヤはとても静かです。
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こころの中のイエス

 「ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。」(ルカ19:2-7)

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 ザアカイ。取税人のかしら。
 みなからは「罪人」と呼ばれ陰口叩かれ、嫌われている。
 おそらくそれは、ザアカイ自身も自覚(自責)していたことと思う。

 イエスは、このザアカイのもとに来られた。
 「みな」の誰かではなく。
 イエスは、このザアカイのようなやつをこそ、救いに来られた。
 「「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶや」く連中なんかはどうでもいいかのように。

 イエスはザアカイのもとを去る。
 けれどもザアカイのこころの中には、イエスは居続ける。
 いつまでも、居続ける。
 みなは相も変わらず、ザアカイを「罪人!」と言い続けることだろう。
 けれども、イエスを内に迎えたザアカイは、意に介さない。
 「こころの中のイエス」、その素晴らしさに比べれば、 なんともちっぽけなもんだ。
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悪い者

 「してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」(マタイ7:11)

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 ええ、自分は「悪い者」です。
 ここでこんなにきれい事書き並べてますけど、こころの中はまっくろくろすけです。
 きょういちにちもまあ、ひどいものでした。
 ですけど、みずからを「悪い者」と認めてしまって、その悪い自分と折り合いつけているので、表面上は健やかです。

 自分は、「悪い者」です。
 イエスが仰ったとおりに。
 今日、この聖句の意味が分かりました。
 じっさい、父は「良いもの」を下さいますよ。
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弱さ

 「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(2コリント12:9-10)

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 「弱いときにこそ、私は強い」。
 自分の弱さを心底味わって、その弱さを受け入れざるを得なくなったら、その人はきっと、恐いもの知らずというほど「強い」と思います。
 ただ、「その人が強い」、強くなったのとはぜんぜん違うとも思います。
 「強い人」というのは、おそらくいないんじゃないでしょうか。
(たとえば腕力が強い人が「強い人」だといったら、それは違うと思いますから。)

 この聖句を書き記したのはパウロだそうですが、主がパウロに「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」と仰った、この「弱さのうちの完全」というのは有り難いお言葉ですね。
 ほんとうに、「キリストの力が私をおお」ってくれるかのようです。
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求安録について

上の部
 悲嘆
 内心の分離 (英語は略す)
 脱罪術 その一 リバイバル
 脱罪術 その二 学問
 脱罪術 その三 自然の研究
 脱罪術 その四 慈善事業
 脱罪術 その五 神学研究
 神学校
 忘罪術 その一 ホーム
 忘罪術 その二 利欲主義 (英語は略す)
 忘罪術 その三 オプティミズム(楽天教) (小見出しを略す)
下の部
 罪の原理
 喜びの訪れ
 信仰の解
 楽園の回復 (英語は略す)
 贖罪の哲理
 最終問題
(内村鑑三「求安録」の「見出し」、教文社全集1所収版より)

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 昨年9月22日、上の引用と一字一句違わない引用で、私はかなり長く書いている(こちら)。

 「求安録」。
 内村鑑三の、ごく初期の著作だ。
 この本は最後、次のように閉じられる。

 「さらばわれは何なるか
  夜暗くして泣く赤子
  光ほしさに泣く赤子
  泣くよりほかにことばなし」

 三日ほど前だろうか、ひさしぶりに上のエンディングを思い出してはうすぼんやりと考えていた。
 「『安き』を得た心理描写なのだろうけど、泣いている赤ちゃんよりもおっぱいを含んでいる赤ちゃんの方がずっと安らかそうじゃないか。」
 つまり、この三日前には、この閉じ方に不服を覚えていた。

 昨日あたりから、再度考えが変わって、いやいやいいの「泣く赤子」で、と、それはもう、心から「そういうもんだ」という思いになってきた。それで今日、これを書いている。

 「さらばわれは何なるか。夜暗くして泣く赤子。光ほしさに泣く赤子」。
 おっぱいが欲しくて泣き騒いでいる、これ以上ないほど弱っちい赤ちゃん、私はそういう存在でしかない。
 鑑三はそう書いた。

 生まれたばかりの赤ん坊に「思い」はない(はずだ)。
 けれど、もし赤ちゃんに「思い」があるとするなら?
 メシくれ、ここは暑い、寒い、なんかぬれててすごく気持ち悪いからどうにかしろ!
 その不満を、泣き叫んで解決しようとする。俺にはできねえからお前がやれ(くれ)。
 弱っちいくせにわがまま三昧、感情のけだもの。
 ひょっとすると赤ちゃんというのはそういうもの、かも知れない。
 自分が一番弱っちいくせに、自分が世界の王様かのようだ。

 「求安録」に戻って、内村鑑三が「赤子」についてどういう概念を保ちつつあの最後を書いたのか、それはもはや分からない。
 だから、鑑三の思いと私の今の思いとは、ずれていると思う。
 今の私の思い、それはこうだ。

 「さらばわれは何なるか。夜暗くして泣く赤子。光ほしさに泣く赤子」。
 弱っちいくせにわがまま三昧、感情のけだものであるこの「赤子」。
 この「赤子」は自分だ。
 自分のその「赤子」ほどの弱さわがままさに納得がいって、でもそれでいいなと思えたとき、「求安録」、そう、私も心底からの安きを得ている。
 「弱いわがままな自分」と仲直りができたという感じだ。

 私も単なる「泣く赤子」にすぎない。
 ただ、自分は世界の王様ではないし、「それ」になりたくても到底なれるものでもない、ということも(当たり前だが)納得ずくだ。
 腹が減ったら自力調達できる(簡単なのなら、ちゃちゃっと作ることもできる)。
 もちろんトイレに行けるし、洗濯機を回し物干し竿を使って乾かすこともできる。

 さて、冒頭に見出しを引用した。
 昨年9月22日には、この見出しの「上の部」について、なにやら書いた。
 今日は「下の部」について書こう。

 この本をかじりつきで読んでいたのは……どれくらい前のことだろう? ちょっとよく覚えていないくらい前のことだ。
 何故読んでいたか?
 「安き」が欲しかったからだ、それも心底から。
 「安き」の「こたえ」、それは一体どこに載っているのだろうか? と。

 罪の原理
 喜びの訪れ
 信仰の解
 楽園の回復 (英語は略す)
 贖罪の哲理
 最終問題

 「そうか! ここにこそ『こたえ』があるのか!」、そう思わせてくれる見出しが並ぶ。
 無論それは錯覚にすぎない。そんな当たり前のことに気付いたのは、実はつい最近のことだ。
 「信仰の解」、「解」ねぇ……。
 実は昔日、私はこの「下」を途中まで、それと最後の「最終問題」しか読んでいない。真ん中はすっ飛ばしている。
 何故かというと、「罪の原理」の中で、ある聖句の個人訳を掲げ、「日本の聖書の訳はこうであるがそれは違う、由緒正しき出版社のギリシャ語原典にさかのぼってきちんと訳すとどうこうしのごの……」とかなり長く続いたから、「ここに「『こたえ』はありそうもないな」とすっ飛ばし、そしてズルして最後だけ読んだからだ。

 昨日、この「下」をぱらぱら斜め読みしてみたのだが、どうも興味の湧く事柄は書かれていなかった。
 だが、やはりラストは値打ちが高いと思う。

 「さらばわれは何なるか
  夜暗くして泣く赤子
  光ほしさに泣く赤子
  泣くよりほかにことばなし」

 昔日はぴんとこなかった。
 三日前は「ちょっと違うんじゃないか」と感じた。
 昨日、ああほんとうにそうだった、なんだ書いてあったじゃん、「こたえ」が、そう納得できた。

 最後に、昨年12月23日、「余は如何にして基督教徒となりし乎」について書いた中から引用する。

 「なるほど罪の問題を解決した「回心者」は、偉大なことを為しやすいだろう。
 「こころの中の邪魔者」がないから。
 ルター、アウグスティヌス、内村鑑三……。
 しかし、「偉大なことなど」する必要などないといえば、またそうであるはずだ。
 ひとり神のそば近く生きる、やはり「こころの中の邪魔者」なき回心者、彼(彼女)は、無名のまま、実に静かな生活を送り続け、天に召される。」
 おそらくは初代教会以来、両者比して前者よりも後者の方が遙かに多かったに違いないことは、想像に難くない。」

 私は「後者」で満足だ。
(「前者」だって、偉大たらんとして偉大になったわけでもないだろう。)
 「静かな生活」、こころ静かだ。
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歯車

 「私は身を横たえて、眠る。
 私はまた目をさます。
 主がささえてくださるから。」(詩3:5)

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 「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます」、その営みはあたかも機械の歯車かのようだ。
 あわてずさわがず、声も出さず特に主張もせず、淡々とおんなじ速度で隣の歯車とかみ合いつつ、ごく自然と回り続ける。
 その隣の歯車に歩調を乱されることも、ない。
 「主がささえてくださるから」。

 「この歯車」がないと、多分どこかしらが困り果てるだろう。
 けれども逆に、「この歯車」があるからといって「歯車さん、ありがとう」とありがたがられることは、まったくない。
 暗黙の内に、「そこ」できちんと役割を果たせばよしとされる、「この歯車」。
 「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます」、その繰り返し。
 「主がささえてくださるから」できることだ。
(それを明確に意識しようとすると、歯車の速度がぎくしゃくするような気がする。)
 そして週に一度、「主」がグリスを丁寧に塗り込んでくれる。
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間抜けな猿ゲーム

 「互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。」(ローマ12:16)

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 「自分こそ知者だ」、まったくもって間抜けな猿ゲームをし続けていたものだ。
 「いい学校」に入って自分はできると思っていた頃があった。
 学生時代音楽を創り続けていたとき、「俺よりすごいアーティストはいない」と思っていた。
 誰よりも仕事ができる、そう思っていた時期がある。
 俺に聖書を解釈させれば一流だろ? とか。

 実に、まったくもって間抜けな猿ゲームだった。あーやれやれ。

 自己顕示欲というのが誰にでも多かれ少なかれあるのだろうが、私はそれが強すぎたようだ。
 「自分こそ知者だ」、自分はできる、俺すげーだろ。
 これらを翻訳すると「私を見て」なのだろう。
 「私がここにいるから、この私を見て。私、こんなにすごいんだよ。だから、見て。見捨てないで」。

 「『ここ』にいていい」。
 ある瞬間、心底、そう感じた。
 そしてそれ以来、「心底感じ続けて」いる。
 「『ここ』にいていい」。
 日常は何一つ変わっていない。
 ただ、肩の力がすっかり抜け、いい調子だ。
 なんであんなに力が入っていたのか今となっては不思議なほどだが、実は不思議ではなく「見捨てられ不安」が大きかったからだと思っている。
 けれど、「『ここ』にいていい」から、そう不安がることもなくなった。
 「見捨てられる」ことは、なさそうだ。

 「間抜けな猿ゲーム」という言葉は、今日の帰りの電車の中、本を読んでいてふと思いついた。
 もう自分はこのゲームからおりていい、「俺すげーんだぞ」をやらなくても大丈夫なんだ、そう気付いたときには心底ほっとした。
 誰とも張り合う必要はなく、肩肘張らずに済みそうだ。
 そして、「俺すげーんだぞ」をやらなくなると、きっと「あいつは馬鹿だ」もなくなってくれるだろう。
(両者ともゼロになるとも思っていない、つまり「相対的にずっと」ということ。)
 「高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に」、自分が偉ぶるでもなく、(下かも知れない)人も卑下せず。
 たんに課せられたことをなし、しかし、なしたからといって「偉い」わけでも何でもない。
(あたりまえだが。)

 「『ここ』にいていい」。
 「ここ」とはどこか。
 この家でもオフィスでもない。そういう「特定の場所」ではない。
 「世界」?
 今の私には、よくわからない。
 こたえなんか、なくていい。
 でも、確信でも得るためにでも、聖書をぱらぱらめくってみようか。

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 すると、ブログだのホームページだのを書く「動機」もなくなってくる。
 まあ、こっちの「聖書」の方はライフワークと思って、思いついたときの備忘録くらいの位置付けで、暇なときにでも書き込むことでしょう。ネタ自体は結構ありますし。
 今日は川柳を2つ作ったけど、ま、「川柳」は人様のを日々楽しむくらいでいいかな?
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