罪深い肉と同じような形

 「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ8:3-4)

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 キリストの十字架について。
 「神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです」。

 キリストは、私たちアダムの肉を持つ者と同じような肉を持つ者として遣わされた。
  つまりキリストは、人間と同じような肉をまとった神の子である。
 「同じような」というのは、キリストの肉はけがれたアダムの肉とは違って、罪を犯さない肉をまとっているからだ。
 では、何故神が御子をそのような姿で世に遣わしたのかというと、「肉において罪を処罰」するためであった。
 キリストの罪なき肉が極刑に葬られることよってはじめて、アダムの肉を持つ私たちの罪が神の御前に赦された。

 人間が毎年ささげる捧げものは無力で、同じ罪が繰り返し続けられてきた。
 アダムの肉はアダムの肉だからだ。
 ところが、キリストの肉は神の側からこれを捧げよと差し出してくださった「けがれなき肉」、真の捧げものである。
 イエスの十字架は、神の恵みなのである。
 このイエスを信じるとき、私たちは肉を持ち続けているにもかかわらず、律法の要求が全うされて神の御前に罪赦されたものとみなされる。

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コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )
« キリストにあ... アダムの肉 »
 
コメント
 
 
 
Unknown (サトシ)
2008-10-11 11:08:31
拝見させていただきました!
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