見えるようになったことについて

 「盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。
 もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」
 彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。
 イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
 その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
 イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。
 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」(ヨハネ9:32-39)

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 イエスによって目が見えるようになった人を、パリサイ人たちは尋問した挙げ句に追い出してしまった。追い出された彼を、イエスは探し出す。
 そしてイエスは彼に言う。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです」。 イエスを見て拝した彼は、こうして信仰者となった。
 このように、信仰とはイエスが会いに来てくれて、それで信じさせられるものであり、自分で選ぶようなものではないのである。
 そのことは、一般的に「目の見えない者が見えるようにな」るのが専ら他者によることからも想像することができる。

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[一版]2020年11月15日
[二版]2023年 1月29日

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救いは恵みにより、恵みとは風が吹いてくるようなもの

 「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(ヨハネ9:1-3)

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 生まれつきの盲人を見かけた一行。

 「神のわざがこの人に現われるためです。」とイエスは宣言して、この人の盲目を癒すのであるが、ほかにも病気を抱えた人は周囲に大勢いただろう。
 なぜ、イエスは特段この人を癒したのであろうか。

 それは、イエスが彼をいやそうと思ったから、これが理由のすべてである。
 この盲目の人が誰より気の毒そうだったとか、そういうことではなく、たまたま、この人をいやしてあげようとイエスが感じたのである。
 そして、この人、であることに、理由はない。
 この人の病状の重さも、生まれつきであったことも、理由ではない。
 風が吹いてくることに理由はないのと同じである。

 だから、神の救いは因果関係ではない。
 善行をどれだけ積んだかとか、断食祈祷をしただとか、施しをしただとか、そういうことが直ちに恵みにつながるわけではない。
 また、本人に罪があるとしても、両親に罪があるとしても、それらが恵まれないことにつながるわけでもない。
 そのような因果関係とは関係がないがゆえに、逆に、誰もが救いに預かる可能性を秘めている。それだから恵みなのである。

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[一版]2014年 8月 5日
[二版]2017年 5月 4日
[三版]2020年11月 8日
[四版]2023年 1月22日

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偽り者は偽らない者に変えられるか

 「けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。」(ヨハネ8:55)

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 「この方」とは御父のこと。
 イエスは御父を知っているので、もしも御父を知らないというならば、あなた方同様に自分は「偽り者」となる、そう言っている。

 自分が偽り者だという気付き。
 自分が殺す者だという気付き。
 律法という囲い込みによってそれらの気付きに至るとき(それは経験したことのない程の苦しみであるはずだ)、私たちは復活のイエスを介して御父を知ることとなる。
 それは、断食とか滝に打たれるとか、そのような自発的な行ないではどうにもならず、ただ恵みによるのである。

 偽り者が、恵みによって偽らない者となるのではない。
 殺す者が、恵みによって全く殺さない者に変えられるのではない。
 偽り者が偽り者として赦され、殺す者が殺す者としてありのまま赦されるのである。
 そのためのスタートラインとして、まず、自分は実は偽り者なのだと気付くことが必要となる。

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[一版]2011年 1月23日
[二版]2014年 8月 4日
[三版]2017年 5月 3日
[四版]2018年 1月 2日
[五版]2020年11月 1日
[六版]2023年 1月15日

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『自由』と『自由』

 「イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。
 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」
 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」(ヨハネ8:30-34)

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 自由ということばについて、イエスの言うところと彼らの言うところが大きく違っている。

 彼らの言う自由とは、奴隷のような束縛や制限がないという意味での自由である。
 物理的な自由とでもいおうか。
 しかし彼らはその自由を手にしているのに、何故イエスを「信じる」のだろう。自らの自由をせいいっぱい味わって踊って楽しめばいいものを。
 この彼らにしても、彼らの物理的な自由によっては自分が満たされることがないことにうすうす気づいていて、それでイエスを「信じ」たのだろう。

 そこでイエスは彼らに答える。「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です」。
 イエスの言う自由とは、罪赦されて御父との和解の中にいる中で、心の縛りがなくなる自由を指す。だから奴隷かどうかはこの自由とは関係がない。
 このイエスに従ってゆくと、イエスと同じく極刑の十字架に架かって死ぬところにくる。罪から解放されるためには、罪に死ぬ以外にないのである。そして、イエス同様復活する。これがイエスの言う真理であり、この真理が人の心や魂を自由にする。
 この自由な人は解放されて真の満足があるので、もはや物理的な自由にはとらわれなくなる。

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[一版]2018年12月31日
[二版]2020年10月25日
[三版]2023年 1月 9日

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イエスが与える自由

 「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」
 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」(ヨハネ8:31-34)

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 自分語りになるのだが、私は必要以上に緊張している時期が長かった。その緊張がほぐれてからそうであったことに後から気づいたのだが、この緊張がほぐれてくると、人前でもいきいきとした会話ができるようになり、日ごろ書く文章ものびやかになっていった。それ以前は頭にも上らなかった四字熟語やことわざの類いがぽんぽんと出てくるようになった。駄洒落もよく思いつくようになったが、これはいい顔をされないので口から出すのを止めている。
 つまり、緊張感が解けて私は自由になったのである。私は、というよりかは、私の内面が自由になった。上の聖書箇所に「決してだれの奴隷になったこともありません」とイエスに言った人がいるが、制度その他の外形的な事柄がここで問題にされているのではない。
 それにしても、この内面の自由は何によってもたらされるのであろうか。それはイエスの言う「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」に尽きてしまう。十字架の死と復活がもたらす御父との和解によって罪赦され、罪意識に責められることがたちどころにしてなくなるのである。
 イエスの周囲の人々は、イエスに外形的な自由の成就を期待していたかもしれない。当時のメシア待望ということも、もしかするとそのメシアによるローマの圧政からの解放を求めていたからかもしれない。
 しかしイエスが為そうとしているのは、がんじがらめになってしまっているひとりひとりの内面が自由になって潤うようになることであり、言い換えると生ける水の川が流れる(ヨハネ7:38)ようになることなのである。

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ほんとうに生きぬく道

 「イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)

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 希代の芸術家である岡本太郎は、こう書いている。
 「考えてみると、人生には、世渡りと、ほんとうに生きぬく道と二つあるはずだ。」(「自分の中に毒を持て」,p.122)
 イエスの言う「世」とは、この世渡りをするところの世である。

 この「世」について、先の本をもう少し引用する。
 「世の中うまくやろうとすると、結局、人の思惑に従い、社会のベルトコンベアーの上に乗せられてしまう。一応世間体もよく、うまくいくかもしれないが、ほんとうに生きているのではない。流されたままで生きているにすぎない。」(同,p.137)
 これこそまさに「やみの中」だ。死んだ人々がおびただしく群れている。
 イエスという光はこの群れを照らし、これを見た私たちはやがていのちの光を宿すことになる。
 そして私たちはほんとうに生きぬく道を歩み始める。

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[一版]2020年10月10日
[二版]2023年 1月 7日

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いのちの光

 「イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)

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 世には二種類の人がいる。生きている人と死んでいる人だ。
 死んでいる人とは、イエスは「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい」(マタイ8:22)と言っているところのものである。生きているが死んでおり、やみの中にいる。
 一方、生きている人は、いのちの光を宿している。世の光であるところのイエスから与えられたこの光を宿している。私などは死んでいるように見えても生きており、イエスと共にある内からの満足感が湧き上がってくる。
 生きがいとかやり甲斐というものは、自分の外にある何かではなく、この内なるいのちの炎なのではないかと思う。

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生きたことば

 「それから役人たちは祭司長、パリサイ人たちのもとに帰って来た。彼らは役人たちに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」
 役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」
 すると、パリサイ人が答えた。「おまえたちも惑わされているのか。
 議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。
 だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている。」(ヨハネ7:45-49)

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 もともとはイエスを捕らえるために、役人たちはパリサイ人たちから遣わされた。
 このパリサイ人たちは、日頃、律法を教える立場にある。
 イエスを捕らえなかった役人たちはこのパリサイ人に告げる。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」

 パリサイ人の教えに接し続けてきた人々がこのように言うのであるから、少なくとも、イエスの話がパリサイ人の話とは違ったのである。
 何が違ったのだろか。
 パリサイ人の話というのは、教わったことを教えているだけで、自分のものでもなければ自分のことばでもなかったのだろうと思われる。
 しかしイエスはイエス自身の話をイエス自身のことばで話している。
 何を言っているかという内容以上に、その生きた言葉そのものが、役人たちの心証を変えた。

 このように、ことばには生きたことばと死んだことばがある。
 生きたことばは、上のように役人たちを変える力がある。
 では、この生きたことばは、私たちのどこから出てくるのだろう。
 「話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。」(マタイ10:20)とあるとおりで、この御霊に生きるためにはまずキリストに死ぬ必要がある。

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[一版]2020年10月 4日
[二版]2023年 1月 2日

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内側からわき出る満足感

 「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(ヨハネ7:37-39)

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 世の中には二種類の人に大別される。乾いている人と、乾いているが乾いていることにすら気づかない人である。前者には伝道者の書(コヘレトの手紙)に著されているような虚無感が含まれる。
 そしてこの世では各種イベントや宴会などが刺激を与え、この外部からの刺激が心の飢え乾きから一時的にでも気をそらしてくれる。しかし、刺激が消えると心の渇きがまたもたげてくる。
 イエスは「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」と約束している。
 イエスの十字架の死と復活を通り抜けてはじめてほとばしる水で、この生ける水は死んではじめてあふれ出す。
 外部からの各種の刺激というかごまかしとは異なって、この生ける水は内側からわき出る満足感なのである。イエスはこの満足感を約束している。

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 健やかな一日をお祈りします!

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