姦淫の女

 「すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、
 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。
 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:3-11)

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 いわゆる「姦淫の女の話」の箇所。

 新改訳聖書には詳細な注釈が付されているのだが、ヨハネ福音書7:53-8:11(上の引用聖句のおわりと一致)、この箇所について「古い写本のほとんど全部が7:53-8:11を欠いている。…」と注釈し、さらに本文でもこの箇所を〔 〕でくくっている。
 ちなみに7:52から飛んで8:12へと読むと、イエスの御言葉は実にスムーズにつながる。
 それで私は、この「姦淫の女の話」は後世よく考えもせず誰かが挿入したものと確信しており、この箇所に何の価値も見いだしていない。
 その価値のなさについて、書こうと思う。

 姦淫の女をイエスの下に連行するのは、「律法学者とパリサイ人」である。
 姦淫の現場で取り押さえ、この場合は律法によれば石打ちなのだが、あなたはどう思うか、そうイエスに詰め寄る。
(こう書いているだけで、この話がヨハネ福音書の前後の脈絡をよくもぶった切ってくれたものだと思う。)
 「自称イエス」は言う。
 「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」。
 するとパリサイ人達は、「年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された」。

 そもそもパリサイ人というのは、自分は律法を遵守し罪などなく目が見えていると思っている人種である(参/ヨハネ9:39-41)。
 「私たちも盲目なのですか。」(ヨハネ9:40)と、しれっと言ってのけるほど罪への自覚は皆無で、それで「罪とは何か」というそもそもの点でイエスと敵対し続ける。
 そんなパリサイ人がここでは様子が違う。
 「自称イエス」から「罪のない者が」石を投げろと言われ、「年長者たちから始めて、ひとりひとり……」などという物わかりの良さを示すのである。
 この分かり良さは、このヨハネ福音書をはじめ各福音書でのパリサイ人像とは全く整合性が取れていないではないか。

 さて、ひとり取り残された姦淫の女に、「自称イエス」は言う。
 「わたしもあなたを罪に定めない」。
 ……。
 これでは「自称イエス」の言っていることは、パリサイ人と変わらない。
 「安息日を破ったあなたには罪がある」、「あなたには罪はない」。
 罪(sin)という概念について、「自称イエス」がパリサイ人と同じ考えを持っているということになる。
 つまり、姦淫という「行為」について罪を判断しており、これは "guilty" の方の「罪」である。

 イエスは "sin" としての「罪」から人類を救うために来られたお方だ。
 そして、その罪とはすなわち、人がまとうアダムの肉である。
 人にはこれをぬぐう力がないので、神が身代わりにこの肉をまとい十字架上で処罰なさったことを信じることで、肉のままで赦される。
 そのように贖罪なされたイエスが、「わたしもあなたを罪に定めない」と言うのは、そういうわけで「罪」についての矛盾を取りつくろいようがない。
 姦淫という「単一の行為」について「罪に定めない」と裁決することを、イエスはなさらない。
 何故なら、姦淫しなくとも安息日は犯すのであり、安息日は犯さなくとも人を殺しうるからだ。
 「アダムの肉」とは、そういう性質を指す。

 「自分は罪人だと認めるパリサイ人」。
 「パリサイ人のように言動するイエス」。
 「姦淫の女の話」は、上の2点により、本来のヨハネ福音書には書かれていなかった話だろう。

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[お詫び]
 昨夜、記事を書いている途中に健忘を起こしてしまいまして、さくじつの記事の後半以降は、まったく意識がなく書いていました。
(記事アップも全く無意識です。)
 そのことに気付いて青ざめ、即座に記事を削除いたしました。
 本日の記事は、その後半部分を全部書き直したものです。
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