裏切りを受ける神の子

 「イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」
 弟子たちは、だれのことを言われたのか、わからずに当惑して、互いに顔を見合わせていた。」(ヨハネ13:21-22)

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 イエスの動揺、そしてそれを目の当たりにする弟子たちの当惑。

 イエスは何に動揺しているのだろう。
 イスカリオテ・ユダの裏切りを間近にして、それで動揺している。
 死者をよみがえらせ、目の見えない人を見えるようにし、五千人の給食をも行った神の子イエス。
 その神の子イエスが、裏切りを前に動揺している。

 神の子イエスと私たちとで、同じところが1つだけある。
 それは肉をまとっているということだ。ただ、我々の罪深い肉とは異なって、イエスの肉は罪のない肉である。
 しかし、同じ肉をまとっているからには、私たち人間と同じことでイエスも痛みを感じる。
 裏切りというのは、人と人との間で起こることの中でも、もっとも辛く苦しいものだろう。
 怒り憤り、失望、さまざまな感情にさいなまれる。
 裏切りを間近に控えたイエスの動揺というのも、こういった苦しみによるものだったろう。

 つまり、神の子イエスは、私たちが時に体験するあの辛い体験をも、実際に味わっている。
 この神の子は、観念的に私たちを理解するのではなく、私たちの悩み苦しみが身に染みて分かっているのである。
 私たちがどれだけ辛いところを通っても、そのことをご自身のことのように理解してくださる神、それがイエス・キリストなのである。
 そのイエスを信仰するということは、私はもはや1人きりではないということである。

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[一版]2014年 9月 7日
[二版]2017年 5月21日
[三版]2019年 2月24日(本日)

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丸ごと受け入れる

 「イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。
 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。
 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(ヨハネ13:12-15)

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 弟子たちの足を洗うイエス。

 足というのは、人の体の中でおそらく最も汚いところだろう。
 イエスは上着を脱いで、弟子たちのその最も汚いところを洗う。

 ところでどんな人でも、心の中にきれいな部分と汚い部分とが同居している。
 たとえ相矛盾する性質同士であっても、心の中に収まっている。
 この、相手の汚いところ、少なくとも自分にとって嫌なところを、足を洗うように扱う。
 相手を丸ごと受け入れるということである。
 だからイエスは、相手を丸ごと受け入れなさいと模範を示している。

 人がこのことをできるだろうか。実は自分には難しい。
 だが、ここで範を示したように、復活のイエス・キリストはこの私を丸ごと受け入れてくださる。
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やみと光

 「また、イエスは大声で言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。
 また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。
 わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。
 だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。」(ヨハネ12:44-47)

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 「やみ」と「光」。
 これは、処世術についてのことではないし、成功や失敗といったことでもない。

 「やみ」とは、ここでは神を見いださないこと。
 たとえばカネが原動力という人は少なくないが、それが「やみの中を歩く者」に当たる。
 カネが目的であったはずが、いつのまにカネが手段に化けてしまう。通帳の数字が大きくなることがうれしいのであれば、それは単に刺激を求めているだけだろう。ゲームのハイスコアと同じだ。
 ワーカホリックというのも、仕事が手段化して刺激を求めている。若い頃の自分もこうであったし、今の多くの人もこうではないかという気がする。
 やみにとどまる者は本当のものを持っていないので、代替物である刺激で埋め合わせをするしかない。だから、上に書いたような手段化がたやすく生じる。

 対して、「光」とは神である。
 光に向かってやみから脱すると、心満たされ、平穏さが訪れる。
 私が自分で動くのではもはやなく、内住の聖霊に従って私が動かされている。
 本来必要なものに満たされ、代替物としての刺激は不要になる。
 足ることを知るので、目的と手段とが転倒することもない。

 どちらの方に価値を置くかは、人それぞれかもしれない。
 しかし、代替物としての刺激しかなく本当に欲しいものがどこにもないというのは、頭がこれを良しとしても、体や心は正直に反応するのではないか。
 そして、このやみに参ってしまった者が、光の方をみやる。
 復活のキリストは、今も聖書を通して光り輝いている。キリストは、光の方を見る人を見捨てることを決してしない。

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[一版]2014年 8月31日
[二版]2019年 2月11日(本日:聖書箇所も変更)

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盲目であることと神の愛

 「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。
 それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。
 彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。
 「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」
 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。」(ヨハネ12:37-41)

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 「彼ら」は、イエスを信じなかったのではない、信じようがなかったのである。
 「主は彼らの目を盲目にされた」からであり、その盲目の彼らには、イエス自体を見聞きできない。

 では、御父は私たち全員を盲目にし続けるであろうか。かたくなな心のままにし続けるのであろうか。
 このことこそが神の愛なのである。
 救いを求める私たち、憐れみを乞う私たちに、神は大いに恵んでくださる。

 「目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」(黙3:18)

 この目薬は、どこで手に入るのか分からない。
 しかし、狭い道の先には確かにあって、しかも無償で与えられる。
 この狭い道もまた、自ら見いだして入るものではなく、うめきつつも気付くと、その狭い道の中に入っている。
 人は神に対して、どこまでも受け身なのだ。
 その受け身の中での神からの愛が恵みであり、盲目の者が見えるようになる。
 そのとき私たちは、御父を「父」と呼べるほどに、この御父と和解するのである。

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[一版]2014年 9月 6日
[二版]2017年 5月19日
[三版]2019年 2月10日(本日)

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いのち/永遠のいのち

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」(ヨハネ12:24-25)

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 いのちのことと、永遠のいのちのことについて。
 ここでいういのちというのは、生物体としての生命ではない。
 死ぬことなしには、永遠のいのちに至ることはないということである。
 死ぬ、とは、十字架のイエスと共に極刑に処せられることであり、そうしてはじめて、イエスと同様によみがえる。

 では、イエスのわざが私たちの中で永遠のいのちという実を結んだら、はたしてどうなるのだろう。
 外観上は、まったく変わらない。
 どうしようもないのは、やはりどうしようもない。
 性格が変わるわけでもなければ、仕事ができるようになるわけでもない。
 病が癒えるわけでもなければ、力がみなぎるわけでもない。
 生き馬の目を抜くようなこの世の世渡りがしやすくなるということもない。

 そうすると、いったい何が変わるのだろうか。
 今までは自分の外側にあった聖書が、自分の内側に据わること、言い換えると、私たちはもはや一人で生きているのではないということである。
 誰よりも心強いお方が、私たちの考えや思いや行動、それらの源のところに一緒にいて下さる。
 このことは、この世を生き抜く上ではあるいは愚かなことかも知れない。
 しかし、自分のこころの中では整合性がついているので、後ろめたいことがない。

 そうなるためには、イエスが型として示すように、死んでこそ真に生きるというプロセスをたどることになる。

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[一版]2014年 8月30日
[二版]2019年 2月 3日(本日)

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