患難が生み出す希望

 「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:3-5)

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 教会の門を叩いたのは、まだ20世紀の頃だ。
 購入した聖書を読み進めていって最初にありがたく思った聖句が上の「患難が忍耐を生み出し」のくだりだった。
 それから毎週教会に通い、賛美歌を歌い説教に耳を傾け兄弟姉妹と交わった。教会を変えもした。
 ある教会で、いきさつは忘れたのだが老牧師とサシでやりとりを重ねた挙げ句、「あなたはイエス様を分かっていますか!」と問い詰められて「いえ、全然……」と悄然として答えたということがあった。予期していなかったその答えに、老牧師は言葉を失ってしまった。
 この日を最後に教会に行くことはなくなり、聖書も放り投げてしまった。
 しかし数年してこのブログを書き始めた。希望が生み出されたのだ。

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[一版]2021年 7月25日
[二版]2024年 1月28日

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成長痛

 「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:3-5)

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 俗に成長痛という言葉がある。あるいはもう死語かもしれない。
 しかし実際のところ、私たちは傷ついたとき、そしてそれを乗り越えることによって成長してゆく。
 上の聖書箇所では、このことを「希望」といっている。
 こういう苦難とは無縁に見える人がたまにいるが、かえって気の毒というか、御父から見捨てられているのかと思うほどだ。しかし、このような人もまた、人知れぬところで苦しんでいるような気もする。
 なにしろ御父の愛は、十字架のイエスによってすべての人に明らかにされたのだ。
 この愛はイエスを信じる私たちに、内住の聖霊として宿り続けている。
 この内住の聖霊が、私たちを愛するが故に成長痛へと導いている。

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[一版]2019年 9月16日
[二版]2024年 1月21日

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極端なまでの非合理が死人を生かす

 「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
 しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、
 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4:19-25)

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 「およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認め」るアブラハムのこの認識は合理的な思考に基づいている。
 しかしそれでもアブラハムは「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」という非合理を貫き通す。
 たしかに人間は合理的に考え、そのことによって近代の物質的繁栄がもたらされた。自然科学は輝かしい近代の大看板であり続けている。
 人体のはたらきはその自然科学によってかなり分かってきて、私たちは診断や治療により治癒するということを通して、その合理性の恩恵を受けている。

 ところが、「心の奥底から、生ける水の川が流れ出る」(ヨハネ7:38)ことについて、つまり生ける死人をよみがえらせることについては、我々の合理的思考は全く歯が立たない。
 彼ら生ける死人にとって最も必要なことは、「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」という非合理、それも極端なまでの非合理なのである。
 そうしてよみがえった人は、いのちあふれる生を生きるようになる。
 このいのちとは、いつのまに塞がれていた水源のその塞ぎをイエスが取り去って、勢いよくほとばしるようなものである。
 私は日頃は理屈を突き詰める仕事をしているが、非合理性がもたらしたこのほとばしりが私を豊かに生かしている。

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[一版]2021年 7月24日
[二版]2024年 1月14日

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律法と信仰による義

 「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」(ローマ3:31)

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 もし行ないによって義が確立するのであれば、割礼をしないことは不義に当たる。分かりがいい。
 では、割礼をしないことは、律法を確立するであろうか、それともそれを貶めるだろうか。
 イエス・キリストの十字架の死と復活以来、これは頭の上では分からなくなってくる。

 行いによる義とは自力で義をつかみ取ろうとするものであるが、信仰による義はそうではない。
 というのは、信仰というのは自分が力ずくで獲得するものではなく、死んでよみがえったイエスによって信じさせられるものだからである。
 信じさせられる以前には、自力ではどうやっても神の基準である律法には達することができず腹の底から罪意識が湧き出てきて、それにもかかわらず更に罪を重ねてのたうち回る過程がある。ここに養育係としての律法の役割がある。
 そうして極度の苦しみの果てに、復活のイエスが私たちに出会ってくださるのである。
 イエスが歩んだあの十字架への道は、のちに私たちがこのように通り抜けるために切り開いてくださったのだ。

 割礼をしないというか割礼をできずに律法を守れないところには、このように罪意識が湧いてくる。
 だから律法を守れないことを自覚することが救いへの第一歩になる。
 そして、やがて訪れるイエスとの出会いによって御父から義と認められ、これによって律法はその人の中でかえって確立される。すなわち聖霊の内住である。
 一方で、律法を遵守していることに疑いを持たないパリサイ人には、この罪意識が湧く余地がない。ここが決定的な違いなのである。

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[一版]2017年10月 1日
[四版]2023年 1月 7日

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イエスの十字架は私を無罪放免にしたのだろうか

 「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」(ローマ3:25-26))

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 私たちのアダムの肉は律法を守ることができず、罪を犯し続けてきた。
 私たちをお造りになった御父は、今まさに義を示すために、ご自身の御子をなだめの供え物とされた。
 ここで義とは、御父が定めた律法を破った者を自ら裁く義であるから、正に神の大義である。
 その神の大義が私には直接には下されず、肉を持つが罪のない御子キリスト・イエスに下された。

 では、イエスに下された神の大義、平たく言うと罰は、私の罪への罰を身代わりに受けたものなのであろうか。
 言い換えると、イエスが私の代わりに罰を受けたというので、無罪放免となった私はイエスをありがたがっているのでだろうか。
 しかしこれでは私はバラバではないか。無罪放免されたあのバラバはイエスとは関係はなく、イエスを信じてなどいなかった。
 私がイエスを信じる信仰をもつのは、イエスが私に会ってくれたからだ。
 私への罰は、イエスの十字架と同じように私に死をもたらしたし、そしてこのイエスは私をよみがえらせた。そうして御父が和解してくださり罪赦されたのである。
 私の願いや思惑などとは関係なしに神の大義に基づいて事は起こったのであるから、信じるというよりも信じさせられたのであり、信仰は持つものではなく持たされるものであった。

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[一版]2021年 7月11日
[二版]2024年 1月 6日

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値なしに義と認められる

 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23-24)

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 すべての人が罪を犯している。
 人間が持つアダムの肉を、神の律法が糾弾する。
 それゆえ、神の御目に義と映る者はおらず、神の御前にはすべての人が罪深い。
 何かをやったから罪だというよりも、存在そのものが罪深い。
 「義人はいない」のである。
 それゆえ、この絶対的な存在である神から栄誉や栄光を受けるには、私たちははるか程遠い。

 だがここに、この悲惨な状況に置かれた人間を救う救いの手が、神の方から差し伸べられた。
 それが、「キリスト・イエスによる贖い」である。
 イエスは、御自身もお持ちだった肉を十字架につけて処罰し、三日目に御父によって復活する。
 これは、このイエスを信じる私たちの肉が神に赦されるための救いの御技であり、また救いの型である。
 私たちは、この十字架のイエスを信じることによって、神の御前に義と認められ罪赦される。

 そうなると、そもそも信じるとはどういうことだろう。
 端的にいうと、信じるのではなく、恵みによって信じさせられるのである。
 「神を信じます」と言うのは、私たちが神を信じるかそうでないかについての選択の謂いであるから、神は選択される存在にすぎなくなってしまう。
 そうではなく、創造主が有無をもいわさず私たちに信じさせ、そのことが恵みなのである。
 恵みであるから対価は求められない。値なしで義と認められて、私たちは信仰に至る。

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[一版]2008年 9月15日
[七版]2024年 1月 2日

 被災された方々にお見舞い申し上げます。
 御父のあわれみが豊かにありますように。

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