天からのパン

 「そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた。』と書いてあるとおりです。」
 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。
 というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」
 そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」
 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
 しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。
 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ6:30-37)

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 イエスが与えようとしているのは、シナイ半島に降ってきたマナのような「たべもの」ではない。
 「わたしがいのちのパンです」、そうイエスは仰る。
 このパンは天からのパン、神のパンであり、「いのち」である。
 これを「食する」と、こころの飢え乾きを覚えなくなる。
 虚しさは、満たされる。
 なによりも、「食して」イエスを信じた者を、イエスはけっして見捨てない。

 一方「彼ら」はもっぱらマナを求め、神のパンについてわからないまま「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください」とか願っている。

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救いの種類

 「そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。
 そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」
 彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。
 人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言った。
 そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。
……
 群衆は、イエスがそこにおられず、弟子たちもいないことを知ると、自分たちもその小舟に乗り込んで、イエスを捜してカペナウムに来た。そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。「先生。いつここにおいでになりましたか。」
 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」(ヨハネ6:11-15,24-27)

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 群集は、五千人の給食の奇跡に、このように驚いた。
 「この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」。
 イエスこそキリストだ、そう思ったのである。

 彼らは逃げるイエスを執念深く追う。
 しかしそれは、ただパンのためであった。
 彼らにとって救いとは、労せずして好きなだけ食らうことだ。
 しかし最初の人アダムは善悪の知識の実を食べてしまったため、園から追放されたのである。

 イエスが与えようとする救いは、「永遠のいのち」である。
 アダムの肉が有する罪からの解放だ。
 それでイエスは、そのために労せよと仰る。
 例えば聖書を読むとか、そのような類のことである。
 ただ、アダムの肉から解放されても、園に復帰できるわけではない。
 だから、食うために労することは必要だ。
(「食うため」としか思えないと多分しんどいと思うが、「いのち」を頂いた人はそのようなことはないはずだ。)

 何をもって救いとするかが、立場によって異なるものだ。
 勿論救いとはただ一つ、「永遠のいのち」である。

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聖書

 「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(ヨハネ5:39-40)

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 聖書という、この分厚い書物はなんだろう。
 そのことについては、イエスと「あなたがた」との考えは一致している。
 「永遠のいのち」だ。
 まさに、「聖書の中に永遠のいのちがある」。

 ただ、「聖書を調べ」たり、更に研究したりしても、「永遠のいのち」には行き着かない。
 かえって、「わたしのもと」から遠ざかってしまうだろう。
 イエスは仰る。「その聖書が、わたしについて証言しているのです」。
 聖書を開きみて、その証言に耳をそばたてる。
 そうすると、時至って、「永遠のいのち」というのはイエスそのものだということを、聖書の方から語り出すに違いない。

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キリストの死にあずかるバプテスマ

 「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:4-6)

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 キリストが復活したという事は、「キリストの死にあずかるバプテスマ」を受けてどうなるか、ということについて、その道を切り開いたということである。
 そのバステスマを授かった者は、「いのちにあって新しい歩みをする」。
 「いのちにあって」というのは、妙な記法で書くと「in いのち」、すなわち「いのちのなかで」くらいのニュアンス。

 キリストは、復活する前は葬られていた。
 同様に、このバステスマは「死」へと向かうもので、「私たちの古い人」は葬られる。
 何が死に、葬られるのかというと、アダムの肉だ。
 キリストの復活と同様に、「いのち」というものの中で新しい歩みが始まる。
 その新しい歩みというのは、「罪の奴隷」という境遇からの解放である。

 そのためには、「キリストの死にあずかるバプテスマ」という恵みを授からなくてはならない。

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新しく生まれるということ

 「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3:1-8)

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 「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」。
 新生でも回心でもお好みの言葉を使えばいいと思うが、ともかく、そのようなことがあって初めて、神の国を彼方に見ることができる。
 アダムの肉をまとった身には、けっしてこれを見ることがかなわない。

 そしてそれは、「水と御霊によって生まれ」る、そうイエスは仰る。
 「水」は、おそらく、バステスマのヨハネが与える類のバステスマ。
(だから私は、教会を全否定しないのである。)
 この「水」は、スタートラインなのだろう。
 そして「御霊」、これは昇天のイエスがお送り下さる(ヨハネ14:16-17)。

 「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」。
 アダムの肉のままならば、アダムの肉で終わる。
 その道とは、恵みを受けるための道だ。
 そして、ただその恵みによってイエス・キリストがお与え下さる御霊を受けると、その人はそこで新しく生まれ変わって霊的な存在へと生まれ変わる。

 この恵みというのが、呼び寄せようといくら試みようともけっして得ることのできる類のものではなく、要するに「風」なのだ。
 どこから来るのか、分からない。
 どこへ往くのかも、分からない。
 つかみどころがない。
 風切り音は聞こえるので、その存在自体は否定しようもない。
 そのような性質である恵みによって、イエス・キリストは御霊をその人に与えてくださる。
 アダムの肉に徹底的に苦しみ悩んだ人を、とりわけて神は恵んでくださるのではないかという気がする。

 イエスの呼びかけは徹頭徹尾、「あなたがたは新しく生まれなければならない」ということである。

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証言

 「もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません。わたしについて証言する方がほかにあるのです。その方のわたしについて証言される証言が真実であることは、わたしが知っています。
 あなたがたは、ヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました。
 といっても、わたしは人の証言を受けるのではありません。わたしは、あなたがたが救われるために、そのことを言うのです。
 彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです。
 しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。
 また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。」(ヨハネ5:31-37)

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 イエスを救い主(キリスト)として人々を納得させるだけの証言ということについて。
 なぜそのようなことを取り上げるのかというと、「あなたがたが救われるため」、ただこの一点においてのみである。

 「主の道をまっすぐにする」バプテスマのヨハネによる証言があった。
 ユダヤ中から人々がヨハネの下へと集まったのだから、ヨハネの証言は多くの人が耳にしているはずだ。
 だが、ヨハネ自体を信じたとしても、ヨハネによる証言を、二、三の例外を除いて誰が信じただろうか。
(ただ、ヨハネはイエスを明らかにしたこと自体が、「主の道をまっすぐに」にしたことになるのだろう。)

 「わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります」。
 ひとつは、わざ。
 このヨハネ5章冒頭では、病人を癒している。
 次の6章では、五千人の給食。
 こういった数々のわざは、普通の人にはけっしてできず、神でなくてはできない事柄だ。
 ところが、彼らときたら、こうした数々のわざを間近にしても、なおイエスをそうと認めようとしない。
 それから、これらのわざは、今現在に生きる私たちは、直接見ることは決してできない。

 もう一つの証言、「わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます」。
 この証言は、今現在も引き続き響き渡っている。
 聖書という書物の存在がその最大のもので、神はもっぱら、この聖書を通して語りかけ、証言する。
 私は新改訳第二版を用いているが、第三版でも新共同訳でも口語訳でも、ことこの点にかけては全く変わることはないはずだ。
 何故かというと、神の語りかけというのは、古代言語の訳出や日本語としての表現などという些末なことがらなどはるかに突き抜けて、時が来るとその人の中にいやおうなく入ってくる性質のものだからだ。
 そのときに、イエスがキリストであるという、これ以上疑いようのない証拠が与えられて、信ぜざるを得なくなる。
 そしてその時、その人は救われる。
 救い主が明白に分かったのだから。
 その意味では、聖書というのは「信じる」のではなく、「信じざるを得なくなる」類のものだろう。

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『そのとき』における善悪

 「また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。
 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。
 善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。」(ヨハネ5:27-29)

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 いわゆる終わりの日について。

 そのとき、一方の群は「よみがえっていのちを受け」る。天の御国と言い直しても、第二のエルサレムと言い直しても、それはお好みだろう。
 また、もう一方の群は、「よみがえってさばきを受ける」。
 ゲヘナのことだ。
 どちらの群も、このときよみがえる事には変わりない。なので、「よみがえり」それ自体は、有り難がるほどの概念ではない。
 双方の群を分け隔てるのは「善悪」だ。

 終わりの日に際しての善悪というのは、何が基準なのだろう。
 世間体ではない。
 常識(コモンセンス)でもない。
 法律体系でも、ない。
 そして、十戒を初めとする律法ではなくなった。
 新しい基準が現れて、それが多くの人を救う。

 「父はさばきを行なう権を子に与えられました」。
 新しい善悪の基準、それは御子イエス・キリストという大祭司(ヘブル5:8-10)である。
 「3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」(ローマ3:22)
 イエス・キリストを「信じる」ことで義とされる。
 大祭司イエスが「義」として下さるのである。

 イエスの目に善と映るのは、イエス・キリストを「信じる」ことだけである。
 すると次の焦点は、「信じる」とは何か、ということに移る。

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[お知らせ]
 明日から3日間出張で留守にします。まったく…。

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わたしのことば

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。
 まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。
 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。」(ヨハネ5:24-26)

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 「わたしのことばを聞」いた人は、「死」から「いのち」へと移る。
 今まではずっと「死んでいた」のだ、ということにも気付く。
 ここに言う「死」、「いのち」というのは、「ある状態」を指す。
 産まれるとか殺すとかいうことの結果としての状態では、全くない。
 いきいき元気だとか死人みたいに憔悴しきっているとか、そういう状態でもない。

 今もってなお、神の子の声、「わたしのことば」は発せられ続けている。
 イエスは復活されているからだ。
 復活のイエスが「わたしのことば」を発し続ける。
 あまたの生きている死人達の中から、ひとり、そしてまたひとりと、神の子の声を聞きつけてたちまち「生きる」者が現れ続けている。

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初めに、ことばがあった

 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)

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 ヨハネ福音書の有名な書き出し。

 「初めに、ことばがあった」。
 「ことばは神とともにあった」。
 「ことばは神であった」。

 御子の本質は「ことば」にある。
 「ことば」で人の不具や病をお癒しになった。
 「ことば」でガリラヤ湖の嵐を静めた。
 この「ことば」は、権威である(参/マタイ8:5-13)。
 権威とは、神としてのそれである。

 聖書を手に取る者は、膨大な「ことば」に接する。
 そして、この聖書の「ことば」に従おうとする。
 「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 これがたいせつな第一の戒めです。 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22:37-40)

 ところが、聖書の「ことば」には、どこまでいっても従いきれない。
 人間が有する肉が、従うことを拒絶する。そしてそのことを罪という。
 従おうと思えば思うほど、従うことのできない自分を見いだし、憔悴してゆく。
 それはヨブの苦難の軌跡に似ている。
 ヨブには、神が直接「ことば」を語り続けられた(ヨブ38-41章)。
 ことばの意味そのものよりもことばの権威の前に、ヨブは打ち砕かれた。
 そしてヨブは言う。「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。」(ヨブ42:5)

 このヨブの軌跡と同様に、あるところで「いのちのことば」が与えられる。
 アウグスティヌスには、ローマ13:14が与えられた。
 ルターには、ローマ3:22(だと記憶している)。
 内村鑑三は、コロサイ書のどこかのようだ(「余は如何にして基督教徒となりし乎」を参照している。)
 「いのちのことば」の権威、それは絶大だ。
 まさに、今までは「うわさを耳で聞いてい」ただけだったのが、「今、この目であなたを見」るようになる。
 そして、聖書の「ことば」によって、初めからあった「いのちのことば」が与えられ、人は罪覆われ救われて「いのち」を得る。

 救いを得させる権威を持つ「ことば」、それは復活のイエス・キリストそのものである。
 逆に言えば、ことばであるイエス・キリストが、そのことばによって人を救う。
 その人は、聖書の膨大なことばに、いままでとは全く異なる輝きを見いだすに違いない。

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[付記]
 今日の記事は、いわば試し書きです。やはりヨハネ1:1は深遠です。

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祭司長

 「そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司長たちのところへ行って、
 こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。
 そのときから、彼はイエスを引き渡す機会をねらっていた。
……
 そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、
 「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。
 それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。
 祭司長たちは銀貨を取って、「これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから。」と言った。」(マタイ26:14-16,27:3-6)

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 イスカリオテ・ユダについて、今の私には何一つ書くことのできる何かを持ち合わせていないので、もっぱら焦点を祭司長に合わせる。
(イスカリオテ・ユダには、謎が多すぎる。)

 何を考えてか、イスカリオテ・ユダは祭司長のところへ行き、イエスを売る話を持ちかける。
 祭司長はその話に乗り、銀貨三十枚をイスカリオテ・ユダに支払った。
 さて、祭司長達がイエスを捕らえて後、再度イスカリオテ・ユダは祭司長のもとを訪れる。
 「私は罪を犯した」。
 しかし、祭司長は「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」と、イスカリオテ・ユダを突き放す。

 祭司長という職分にある人は、「私は罪を犯した」に対しては、いけにえをささげよとか、そういう指示を職務上与えるものではないだろうか。
 だが、念願だったイエス逮捕に成功した彼らは、イスカリオテ・ユダの罪意識など、まさに「私たちの知ったことか」なのだ。
 イスカリオテ・ユダは、用済みの人間にすぎない。
 そのくせ、イスカリオテ・ユダが神殿に投げ込んだ銀貨三十枚を、「これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから」とか、妙に訳の分かったことを言う。
 端的に、汚れ(けがれ)を受けたくない。

 祭司長ともあろう人間が、まったくもって自分の利益でしか動いていない。
 これでは、なんのための祭司長なのだろうか。
 アロン以来のこの職責は、イエスの時代にはここまで堕落していた。
(もとより、旧約の預言者の時代には既に堕落していたと思うが。)
 イエスはこの堕落した世から、信じる者を救うために来られた。
 それで、「イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。」(ヘブル6:20)

 イエスが「大祭司」となる過程で、上に見てきたように、弟子は裏切り、祭司長は保身しか考えないという混乱状況が発生した。
(イエスを逮捕することも、祭司長としての権威がイエスに脅かされていたからという保身上のことである。)
 ローマ法上はもちろん律法の上でも罪のないお方が、十字架という最高刑を受けることなどは、「混乱」の最たるものだろう。
 新しい時代へと移行するための、産みの苦しみのようなものだ。

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