整合性

「酒気帯び運転容疑で牧師を逮捕


 埼玉県警浦和署は11日、道交法違反(酒気帯び)の現行犯で、さいたま市南区根岸、牧師、○○○○容疑者(48)を逮捕した。

 浦和署の調べでは、○○容疑者は11日午後8時15分ごろ、さいたま市浦和区岸町の県道で、酒気を帯びて乗用車を運転した。○○容疑者は道路脇の街灯に衝突、駆けつけた警察官が検査したところ、呼気1リットル当たり0・3ミリグラムのアルコールが検知された。

 浦和署によると、○○容疑者は「自宅で酒を飲んだ」と供述している。○○容疑者は自宅からさまざまな教会へ牧師として派遣されていたという。」

(MSN産経ニュース 2011.4.12 10:54)

---

 この牧師は飲酒していて、運悪くおまわりに見つかってしまった。
 私はそのこと自体は、特にどうとは思わない。
(量が多すぎるとは思う。)
 ただそれは、聖書と飲酒とが整合することをこの牧師が信者に教えている限りにおいて、である。
 飲酒はいけませんとか信徒に言っていたならば、その整合性の無さ、ちぐはぐさを問われるだろう。激しく問われるだろう。

 それはおそらく、聖書とは何か、という問題だろう。
 聖書をルール集として読むとしたら、それは飲酒はアウトだろう。
 一方私は聖書を、いのちを与える書物としてとらえている。
 イエスの十字架と復活が明らかにされている書物なのだ。
 これが私たちの罪深い肉に救いを与える。
 何故私たちの肉が罪深いのかを嫌と言うほど分からせようと、神はたくさんの律法を与えておられる。
 私たちはこの神から遙か遠く、これらの律法を守り通せることが到底できない。
 そういう存在であっても、復活のイエスを信じてのみ、御父につながることができる。これが「いのち」である。
 私たちは、既に律法に死んでいるのである。律法に死んで、恵みに生きている。

 そういうわけで、私は牧師が飲酒することそれ自体には無頓着だ。肉を責めるものはないからだ。
 ただ、次のようにある。

 「しかし、私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。
 ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい。」(1コリント8:8-9)

 この牧師はおそらく「弱い人」であり、この弱い人が弱い人に連鎖式につまずきを与えてしまうことになる…、だから私はここで整合性のことを言っている。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

no title

 昨日の激甚震災の被害を受けました方々に、お見舞いを申し上げます。

 このブログは平時に戻るまでの間、お休みします。
 今は、今やることをやりましょう。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

キリストにはかえられません

 「キリストにはかえられません
 世の宝も また 富も
 このお方が私に代わって死んだゆえです

 ※世の楽しみよ 去れ
  世の誉れよ 行け
  キリストにはかえられません
  世の何物も

 キリストにはかえられません
 有名な人になることも
 人の褒める言葉も
 この心を惹きません

 (※繰り返し)

 キリストにはかえられません
 如何に美しい物も
 このお方で心の満たされて在る今は

 (※繰り返し)」
           (聖歌521番)

---

 死んで生きる、ということはキリストがなさせてくださる。
 この道を切り開いたのが、イエスの十字架の死と復活だからだ。
 「このお方が私に代わって死んだ」、そういう道だ。
 「私」の死は、擬似的な死で済むのだから。
(ただ、擬似的であれ、死の苦しみあっての死には違いない。)

 上の聖歌には、様々な事物が列挙されている。
 世の宝、富、世の楽しみ、世の誉れ。
 有名人、褒め言葉。
 美しい物。

 いや、ほめられたらうれしいし、美術をたしなんでもいいじゃないか。
 全く楽しみを拒絶するというのは、ストイックを越えて端的に変人だ。
 歌詞なので水増しせざるを得なかったのだろうと思うのだが、この歌詞はいいところを突いている。

 「世の宝、富」、すなわちマモニズムの奴隷。
 ここから死んで、生きるのだから。
(マモニズムという名称は、「マモン」(富)というアラム語に由来する。)
 これは、お金なんかまったくいらない、ということではない。
 生活してゆけるだけのお金が必要なのは、いうまでもない。
(だから働くことそれ自体は、とても大切なことだと思う。)
 マモニズムとは、例えば、転職して年収大幅アップだとかいうのがほんの一例だろう。
 生活するという目的のためにお金を神から頂いているはずなのに、お金を儲けることが目的になってその手段として生活する、こういう主客転倒に陥る。
 「お金がすべて」、「ゼニあってなんぼ」。
 この世界からは、死ぬ。

 そして、「このお方で心の満たされて在る今は」という世界に、生きる。
 何も、絶えずキリストキリストと思っているというのではない。
 それは「無意識」に埋め込まれた。
 そのことが、外界に左右されない確かな充足の基となる。
 だから、キリストが何物にも代えることができないのである。

---
 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

いと静けき港

 「人生の海の嵐に
 揉まれきしこの身に
 不思議なる神の手により
 いのちびろいしぬ
 いと静けき港に着き
 我は今休らう
 救い主イェスの手にある身は
 いとも安し」

(聖歌472、1番の歌詞)

---

 この曲は昔、教会で何度も何度も歌ったものです。
 「いと静けき港に着き」、この箇所だけ覚えていました。
 今日、聖歌を取り出してぱらぱらめくって、472番にみつかりました。

 嵐の時もあるけれど、静かな港にて心底休まる時もまた、主が必ず備えてくださる……、この歌詞はそんなことを教えてくれているかのようです。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )