復活のイエスに会う喜び

 「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。
 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。」(ヨハネ16:22-23)

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 復活のイエスに会うことについて。

 復活のイエスに会った人は、もはやイエスに何も問わない。
 いっさいを了解するからだ。
 そして、それゆえに私たちの心に喜びがわきあがる。初めて体験するほどの強い喜びに満たされる。
 その強い喜びはやがて収束してゆくのだが、喜びの種火とでもいうべきものが灯り続ける。
 世であくせくやっていると、実に様々な困難に出会うし様々な感情に襲われる。
 アダムの肉を持つ者としてしかたのないことだが、そうしたさ中にあっても、この喜びの種火が消えることはない。
 それはあたかも、イエスを介して御父に支えていただいているかのようだ。
 私たちの祈りは、常にかなえられている。

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イエスが世から去るということ

 「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
 また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」(ヨハネ16:7-11)

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 しばしば、イエスはあわれみ深いお方で、という語られ方がされたり讃美されたりする。
 だが、もっぱらイエスのそのような性質についてどうこうというのは、フォーカスがかなりボけているような気がする。

 イエスのありがたみは、なんといっても「わたしが去って行くこと」、つまり、十字架そして復活にある。
 罪なき肉をもつ神の子イエスが、全人類の肉の処罰のためにいけにえの十字架に架かり、そのことがよしとされて復活する。
 その十字架と復活に預かるとき、私たちはイエス同様死んで、よみがえって義と見なされ、肉の罪から解放される。
 イエスはそのような罪の赦し、アダムの肉からの解放のために来られたのだから、そのイエスがあわれみ深いかどうかというのは本質的ではないと個人的には思うのである。
 世に来たこのイエスがこの世から去ることこそが、私たちにとって益なのである。

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[一版]2011年 4月23日
[二版]2014年 9月27日(本日)

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御霊がくださるもの

 「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」(ヨハネ15:26)

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 御父はイエスを通して、御霊をその人に来たらしめる。
 そうすると、その御霊はその人に、イエスについてあかしする。
 十字架について、復活について等、その人は一瞬にして了解する。
 すなわちそれが「いのち」であり、そのとき喜びが突き上げてくる。

 聖書は学問、頭の上での学問ではない。
 聖書それ自体が目的なのではない。
 聖書の字面を超えてこの御霊をいただけるかどうか、ただこの一点に全てがかかっている。
 そのためには、救いを求め続けることに尽きる(参/マタイ7:7)。

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世のもの/イエスの者

 「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。
 もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。
 もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。」(ヨハネ15:17-19)

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 世のものとイエスの者について。

 もしも私たちが世のものであり続けたとしたら、今のようにこの世で苦しむこともなかったろう。
 適当に世渡りしてやっていればよい。
 休まず遅れず仕事せず、を地でいくように、何もしない。日本の組織は減点法であるから、何かしているふりをして何もしない方が傷が付かない。
 大切なのはもっぱら社内政治だ。

 しかし私たちは、もはや世のものではなく、イエスから恵みを受けてイエスの者となった。
 何もしないことをするのではなく、実をつけるために何かをする。
 そんなよけいなことを考えるから、さらに世から憎まれる。

 では、私たちが実をつけようとするのは何故だろう。
 その方がはるかに満足感が大きいからだ。
 イエスの者として、そのような価値観に変えられている。しかも、恵まれたときに瞬時にして変えられた。
 このイエスの価値観のもとで生きる方が、世にあってつらいことはあっても、ずっと心を満たすことができる。

 「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」は、そのように世から憎まれるイエスの者たちの必然かもしれない。

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聖書のことば

 「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(ヨハネ15:8)

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 正確を期したいときには英語の聖書を付き合わせてみる(ギリシャ語はわからないので)。
 そうするとこのヨハネ15:8は、

" By this My Father is glorified, that you bear much fruit; so you will be My disciples. " (NKJ)

"My Father's glory is shown by your bearing much fruit; and in this way you become my disciples " (TEV)

となっていて、大意としては「あなたがたの多くの実を(御父に?イエスに?)持ってゆくことで御父は栄光を受ける;そしてあなたがたは私の弟子になる」くらいだろうか。
 上の新改訳とは、ニュアンスがかなり異なってくる。
 新改訳は、新共同訳や口語訳とは大差はないので、そうするとこれは日本語訳と英語訳とのニュアンスが異なるということになる。
 想像でしかないのだが、原典の訳出自体が難しい箇所なのだろう。

 ただ、聖書のことばは、日本語だとか英語だとか、そういう文字の上っ面をはるか越えて、あるときその人にするっと入ってくる。
 そのようにして聖書のことばが入ってくると、イエスについて、聖書についての全てのことが分かるようになる(参/ヨハネ14:26)。そして、このイエスを信じざるを得なくなる。

 文字面では分かりづらいこのヨハネ15:8で救われる人も、もちろんたくさんいるはずだ。

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[一版]2009年 5月10日
[二版]2011年 4月10日
[三版]2014年 9月24日(本日)

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イエスが与える平安

 「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)

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 人は、物心着いたときから恐れを抱く生き物なのではないかと思う。
 なんといっても、私たちは死後、どうなるのだろう。どこへいくのだろう。
 死の向こう側は、一体どうなっているのだろう。
 この、死への恐れが平安をかき乱す全てのおおもとのような気がする。

 そこで世の中には、平安、安らぎを与える数々のものが存在する。
 音楽、空間、それからマッサージやお香、お風呂などもそうかも知れない。
 そういった装置を個人的にもよく利用するが、「わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」とイエスは言う。

 十字架に架かって死んで3日目に復活したイエスは、そのイエスを信じる私たちがどうなるのだろうかということを、身をもって教えてくれた。イエスの通りになるのである。
 それでイエスは、私たちからこの根源的な不安を取り去ってくださった。音楽やお風呂では、これは全く期待できない。

 「わたしは、あなたがたに平安を残します」、イエスの与えるこの平安は十字架と復活に由来している。

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[一版]2011年 4月 8日
[二版]2014年 9月23日(本日)

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御父や御子と共にあるアダム

 「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)

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 内住された精霊のはたらきについて。

 私たちは、それによって何かを教えられたり、また、思い出したりするわけではない。
 むしろ、それと同じように感じ、思い、動くようになる。
 それは、いやいやなのではなく、内側からにじみ出てくる自然な営みなのである。
 そうであれば、この精霊の内住によって、私たちは変えられたということになる。
 それも、見栄えが変わるだけですぐに剥離するメッキとは違って、全体が変わる。

 そのように変えられて、なにかいいことがあるだろうか。
 世渡りがうまくなるわけではない。むしろ下手になる。
 善人になるわけでも、倫理的に優れた人間になるわけでもない。そのようなことは、メッキを見せびらかしたくてやることだ。
 言うなれば私たちは、違反の前のアダムに戻るのである。
 違反の前のアダムといったら、何も変わっていないように見える。
 しかし大きく異なる点がある。それは御父から罪のある身とみなされないということで、そこには大きな平安がある。
 私たちは、御父や御子と共にあるアダムなのである。

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世ということ

 「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。
 いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。
 その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」(ヨハネ14:16-20)

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 聖書の目的、すなわち救いということ。
 「真理の御霊」が与えられること、また、「わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわか」るようになること。
 「あなたがたを捨てて孤児にはし」ないこと。
 これらはすべて、頭の上での理解や信念ではなく、その人にとって実際にそうである。

 しかし、イエスは言う。「世はその方を受け入れることができません」。
 世は異なる原理によるからだ。
 その一つがマモニズムで、貧困ビジネスというものまである。
 そんな世にどっぷりと漬かっている限りは、イエスはその人の元に来ることはないだろうし、その人もまた、そんなことは全く望まないに違いない。
 だが、そんな人の中にも、実は救いを必要としている人もいるかもしれない。その逆もまた、多いだろう。

 私たちが真に救いを必要なのであれば、救い主イエスは応えてくださる。
 そのためには世の原理から離れることであるが、そのことも含めてすべてイエスが整えてくださっている。
 だから、この十字架の道は、とてつもなく辛いのである。

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イエスが開く道

 「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
 わたしの行く道はあなたがたも知っています。」
 トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」
 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:2-6)

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 イエスは、行かれる。
 「場所」を備えるために、父の家へと。
 そのために、イエスは十字架の道を、通られる。

 この道をかつて通った者は、誰一人としていない。
 イエスが初めて開く道だ。
 重罪人としていたぶられ、極刑としての十字架に架かる。
 その十字架の上で死んで、三日目によみがえる。
 よみがえったとき、イエスから人間の肉はなくなっている。それは十字架につけられたままだ。
 こうして道が、ひらかれた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」。

 「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」。
 イエスが切り開いたこの道だけが、父の御許へと至る道である。
 これは、みなが極刑を受けなくてはならない、ということとは全く違う。それはイエスが身代わりになって下さった。
 だが、それだけの苦難に遭うという点では、変わるところはない。
 そしてそれこそ神の恵みなのである。
 このことについては、アウグスティヌスが詳しく書いているとおりだ。

 父の御許では、イエスが場所を備えてくださっている。
 そしてイエスは、「また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」と仰る。
 イエスの道の先には、この居場所があるのである。

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[一版]2008年 4月11日
[二版]2014年 9月14日

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裏切りを受ける神の子

 「イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」
 弟子たちは、だれのことを言われたのか、わからずに当惑して、互いに顔を見合わせていた。」(ヨハネ13:21-22)

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 イエスの動揺、そしてそれを見る弟子たちの当惑。

 イエスは何に動揺しているのだろう。
 弟子(イスカリオテ・ユダ)の裏切りを間近に控え、それで動揺している。
 死者をよみがえらせ、目の見えない人を見えるようにし、五千人の給食も行った神の子イエス。
 その神の子イエスが、裏切りを前に動揺している。

 神の子イエスと私たちとで、同じところが1つだけある。
 それは肉をまとっているということだ。ただ、我々の罪深い肉とは異なって、イエスの肉は罪のない肉である。
 しかし、同じ肉をまとっているからには、私たち人間と同じようなことで痛みを感じる。
 裏切りというのは、人間同士の中で起こるもっとも辛く苦しいものだろう。
 怒り憤り、さまざまな感情にさいなまれる。
 裏切りを間近に控えたイエスの動揺というのも、こういった苦しみによるものだったろう。

 つまり、神の子イエスは、私たちが時に体験するあの辛い体験をも、実際に味わっている。
 この神の子は、観念的に私たちを理解するのではない。
 実体験を通して、私たちの悩み苦しみが分かっているのである。

 私たちがどれだけ辛いところを通っても、そのことをご自身のことのように理解してくださる神、それがイエス・キリストなのである。
 そのイエスを信仰するということは、私たちはもはや1人きりではないということだ。

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