コミュ力人間

 「彼は、自分の親しい者にまで手を伸ばし、
  自分の誓約を破った。
  彼の口は、バタよりもなめらかだが、
  その心には、戦いがある。
  彼のことばは、油よりも柔らかいが、
  それは抜き身の剣である。

  あなたの重荷を主にゆだねよ。
  主は、あなたのことを心配してくださる。
  主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。
  しかし、神よ。あなたは彼らを、
  滅びの穴に落とされましょう。
  血を流す者と欺く者どもは、おのれの日数の半ばも生きながらえないでしょう。
  けれども、私は、あなたに拠り頼みます。」(詩55:20-23)

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 「彼の口は、バタよりもなめらか」というのは、今の世でのコミュ力を思い起こさせる。
 じっさい彼らは自分しか頼りにしないという以上に、自分の口しか頼りにしない。
 無頼派で、人を信じず神など見えない。
 彼らは周囲とうまくやっているように見えるが、仲がいいというよりかは、もっぱら利害を考えて動いているだけだ。
 このような人間が多くなってきて、ほとほとうんざりすると思っていたのだが、上の詩にあるように大昔からコミュ力人間は大手を振っていたのだろう。

 しかし、「主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない」。
 コミュ力人間を主は支えないが、正しい者は主が支えてくださる。
 正しい者はゆるがされそうになっても支えられて歩むことができる。
 しかし、コミュ力人間はそうではない。
 神が見えないので、善悪もわからない。人を信じないので人からも信頼されない。
 「滅びの穴に落とされ」てしまうのも、むしろ当たり前なのかもしれない。
 そのとき彼は、はじめて神を知ることとなる。
 コミュ力人間に限らず、多くがかつてはそうであった。私もその一人だ。

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[一版]2020年12月23日
[二版]2023年11月26日

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砕かれた悔いた心

  「たとい私がささげても、
   まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。
   全焼のいけにえを、望まれません。
   神へのいけにえは、砕かれたたましい。
   砕かれた、悔いた心。
   神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩51:16-17)

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 全焼のいけにえというのは、値の張る物を神に捧げることという理解でいいのだろうか。
 物の捧げ物というのは心が伴っていなくともできるもので、このことはどの人にも心当たりがあると思う。
 そこを詩人は、「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心」と詠う。
 心が伴っているか以前に、心そのものが大切なのだ。

 その心は「砕かれた、悔いた心」であるという。
 頑なな心ではない。
 この頑なな心は、イエスの十字架の死に預かることではじめて砕かれ、そしてイエスの復活と共に悔いた心によみがえる。
 上の詩を言い替えると、十字架と復活のイエスを待ち望むことこそ、御父に喜ばれるいけにえと言えるのかもしれない。

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御父を信じる者の強さ

  「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。
   御前で思い乱れているのか。
   神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。
   御顔の救いを。」(詩42:5)

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 詩人は、私のたましいは絶望していると詠う。
 私は絶望していると書くのではなく、絶望という感情から距離を置いてそれを観察している。
 また、この絶望という言葉と御顔の救いという言葉とが、鮮やかなコントラストを作り出している。
 上に引用した4行は、この5節以外にも11節に繰り返され、さらに43:5でも用いられている。詩人のお気に入りのフレーズだったのだろうか、それとも当時流行したのだろうか。

 この巧みな詩人は絶望感にさいなまれながらも、なお御父を思う。
 これが創造主を信じる者の強さ、たくましさだと思う。
 私たちをお造りになった御父は、時機にかなったみ技をなさってくださる。今までもそうだったのだから、これからもそうである。
 まさに「御顔の救い」を待ち望むに尽きる。

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沈黙

  「私は言った。
   私は自分の道に気をつけよう。
   私が舌で罪を犯さないために。
   私の口に口輪をはめておこう。
   悪者が私の前にいる間は。
   私はひたすら沈黙を守った。
   よいことにさえ、黙っていた。
   それで私の痛みは激しくなった。
   私の心は私のうちで熱くなり、
   私がうめく間に、火は燃え上がった。
   そこで私は自分の舌で、こう言った。

   主よ。お知らせください。
   私の終わり、私の齢が、どれだけなのか。
   私が、どんなに、はかないかを
   知ることができるように。」(詩39:1-4)

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 詩人ダビデが自ら沈黙を選んだのか、それとも沈黙を強いられたのかはよく分からない。
 あるいは沈黙せざるを得なくなったのかもしれない。
 そうしてダビデは、この沈黙の重さに、要するに死にたいと御父にこぼす。
 このような人生の闇のときに人は全く頼りにならない。「私の愛する者や私の友も、私のえやみを避けて立ち、私の近親の者も遠く離れて立っています。」(詩38:11)とあるとおりである。
 そうであっても、イエスの十字架と復活を通して私たちと和解してくださった御父は、そんなときにもいつも共にいてくださる。私たちは、イエスが救ってくれたほどの存在なのである。
 御父とともにいる幸いを感じつつ御父に話そう。こんなときは死にたいと素直に話そう。

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御父に喜ばれる道

  「人の歩みは主によって確かにされる。
   主はその人の道を喜ばれる。
   その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。
   主がその手をささえておられるからだ。」(詩37:23-24)

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 レプタ銅貨2つを献金箱に投げ入れたやもめにイエスは彼女の信仰を見た(マルコ12:41-44)。いわゆるレプタのやもめにとっては御父への信仰がすべてであり、まさに彼女の道であった。 だから有り金すべてを献金しろと言っているのではない。むしろ、人それぞれに、御父に喜ばれる道があると思う。
 周り中からみじめな奴だと見られていても、自分はイエスと共にあって満足しているというのも、その道の一つだろう。このたとえは上のレプタのやもめに近い。
 「人の歩みは主によって確かにされる」のであり、自力でじたばたせずに天に従うとき、気づくと主に喜ばれ自分も満足できる道を歩んでいる。御父はずっと支え続けてくださり、これからも支え続けてくださる。

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この世相にあっていのちを輝かせる

  「悪者は、借りるが返さない。
  正しい者は、情け深くて人に施す。
  主に祝福された者は地を受け継ごう。
  しかし主にのろわれた者は断ち切られる。」(詩37:21-22)

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 時事ネタになるが、少し前に駐日ジョージア大使の映像が炎上した。
 大使の主張の力点は、大使の妻の妊娠中や子を連れているときに電車の席を譲ってくれた人が誰もいなかったというところにある。
 私はその映像についてヤフーニュースで知ったのだが、そのコメント欄には目を覆うものがあった。大使を支持すると短く書いたコメントもいくつかあったが、専用席ではなく優先席だから譲らなくてよいのだというものが多かった。堂々と主張していた。

 かねてより思っていたことなのだが、「情け深くて人に施す」ような正しい人がいなくなってしまった。
 私に対して情け容赦がないのだと思っていたら、上のコメント欄にあるように情けそのものがないのである。極端に言えば、悪者ばかりの世相になってしまった。
 しかし、そうであるからこそ、イエスが十字架と復活を通して与えてくれたこのすばらしいいのちはこの世で輝くのである。
 「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:5)のだ。

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御父を信じる人の悩みは報われる

 「正しい者の悩みは多い。
  しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。
  主は、彼の骨をことごとく守り、
  その一つさえ、砕かれることはない。」(詩34:19-20)

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 「正しい者の悩みは多い」というのはいつの世もそうなのだろう。
 一方で、この詩を詠ったダビデ王は別の詩の中で「悪者には心の痛みが多い」(詩32:10)とも詠っている。
 このことについて、ユング心理学者の河合隼雄氏は「人生とは、いかに言いかえようとも、そもそもすさまじいものなのである。」と書き記しており(「昔話の深層」、p.46)、悩み多く生きるということではどの人も変わらないのかもしれない。
 しかし御父は、両者のうち正しい者を救い出される。ここで、正しいとは御父を信じることをいう。
 御父を信じる者にとって悩むことは報われて、何一つ失うことはない。

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四方八方囲まれても

 「私は、敵対するすべての者から、非難されました。
  わけても、私の隣人から。
  私の親友には恐れられ、
  外で私に会う者は、私を避けて逃げ去ります。
  私は死人のように、人の心から忘れられ、
  こわれた器のようになりました。
  私は多くの者のそしりを聞きました。
  「四方八方みな恐怖だ。」と。
  彼らは私に逆らって相ともに集まったとき、
  私のいのちを取ろうと図りました。
  しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。
  私は告白します。
  「あなたこそ私の神です。」(詩31:11-14)

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 ダビデの賛歌。
 祈りの中で、御父に窮状を訴えている。
 周り中からの非難、そして忌避。

 祈りの中で、私たちは上のダビデ王のように、自分の心中を言い表して御父に伝える。
 このような祈り方は他にはあまり見られないのではないかという気がする。
 古来からのこの祈りの形式は、はからずも自我を見出し個を芽生えさせたかもしれない。
 そうしてダビデは自らの思いを明らかにして御父に注ぎだしている。

 時事ネタはできるだけ避けたいのだが、最近では、他県ナンバーの車を見つけた地元の人々が種々のいやがらせを繰り広げるとのこと。石を投げるとか金属パイプで叩くなど(註:コロナ禍が始まった頃)。
 その映像を見て、自分は意外感なんかちっともなかった。むしろ予想どおりだった。
 典型的な行動様式だからで、誰もが少しは思い当たるところがあるだろう。
 それで、上の詩を私たちはよくわかるのである。

 ちなみに、上に書いたいやがらせの類は、日本では1人ではしない。必ず群れる。
 みんなでやれば、赤信号など平気で渡る。
 自我も個もないから自分一人では判断がつかない。みんながやるからやっている。
 しかしそれでは自分を生きていることにはならないのである。
 今ここで、ダビデは御父の前にたったひとりだ。そして、自分に向き合っている。
 このとき、御父は最高の聞き役になってくださる。

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[一版]2020年 5月 6日
[二版]2023年11月 5日

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ご利益の祈りとほんとうの祈り

 「私は一つのことを主に願った。
  私はそれを求めている。
  私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。
  主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」(詩27:4)

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 「……、どうぞ叶えてくれというのは、ほんとうの祈りではない。こういうのは宗教的の祈りではなくて、ただ世間の商売、取り引きというてよい」、こう記したのは、禅学者の鈴木大拙である(大熊 玄 編、「はじめての大拙」)。
 あのご利益の祈りというのは、神という存在を下に見ているのではないかと思っている。「願いを叶えろよな!」というような。
 しかし、私たちの御父をもし下に見るとしたら、私をお造りになったこの御父が私にかしずくことになってしまっておかしなことになってしまう。御父にご利益の祈りをするとは、このおかしさを抱えるのである。
 一方、上のダビデの祈りの中では「私のいのちの日の限り、主の家に住むこと」を願っている。言い換えると、とこしえまで主と共におらせてくださいというくらいであろうか。これがほんとうの祈りである。

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御前で悩み切る

 「私に御顔を向け、私をあわれんでください。
  私はただひとりで、悩んでいます。
  私の心の苦しみが大きくなりました。
  どうか、苦悩のうちから私を引き出してください。
  私の悩みと労苦を見て、
  私のすべての罪を赦してください。
  私の敵がどんなに多いかを見てください。
  彼らは暴虐な憎しみで、私を憎んでいます。」(詩25:16-19)

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 憎しみに囲まれて、詩人ダビデはうち悩む。
 この悩むということこそ、孤独な者の特権といえる。
 悩みとその苦しみを通して自身と対話し御父に祈る。
 この過程を通して自分は内に穿たれてゆく。

 悩み苦しむとき、心底困ったとき、いつもは楽しい友人知人など何の助けにもならない。
 むしろ逆で、ささっと遠ざかってしまうのだ。「あいつやべーよ」。
 悩みを恐れず孤独を忌まず御前で自分自身と向き合うこと、これにはやはり忍耐力がいる。あのヨブもそうだった。
 私たちは自分自身と向き合う忍耐力を御父によって与えられている。悩み切ろう。

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[一版]2020年 5月 2日
[二版]2023年11月 3日

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