物質主義と本物の満足感

 「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」
 すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」
 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」(ヨハネ6:27-29)

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 なくなる食物のために働くか、永遠のいのちに至る食物のために働くか。
 これは、二者択一を強いられているわけではない。両方とも必要に違いない。
 しかし、それにしても、なくなる食物のためのシステムがあまりに幅をきかせていないか。すなわちマモニズム、物質主義のことだ。
 子どもと長い時間共にいたいというので農村に入り有機栽培を実習する、そういう夫婦の話を聞いたことがあるが、こういう人はまれで、「保育園落ちた、日本死ね」という言葉が流行した。
 物質を追い求めていくと、物質にがんじがらめになっていき、物質の奴隷に陥ってゆく。だから私たちは、永遠のいのちに至る食物を求めることがどうしても必要になる。

 イエスを信じるというのはイエスを信じさせられるということで、ここでいうイエスとは、十字架と復活のイエスのことである。
 十字架とは極刑の死のことであり、復活とは、その死からの復活である。
 この死と復活とを通して、人と神とは和解する。
 この和解は人に本物の満足感を与えるから、もはや彼は物質を追い求めなくなる。物質の奴隷から解放されるのだ。

 この神のわざは、求めれば与えられることをイエスは約束している。

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 健やかな一日をお祈りします!

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何を求めるのか

 「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(ヨハネ5:39-40)

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 「あなたがた」であるところの彼らは、「永遠のいのち」を求めて聖書に当たる。
 一方で、「いのち」を与えるのはイエスなのに、そのイエスのもとには行こうとしない。
 「永遠のいのち」、「いのち」と敢えて抜き書きしたが、この両者は違うもののように思える。

 彼らが欲しがっている「永遠のいのち」とは、死なないことなのではないか。
 死ぬのが恐いのだ。もしかすると、老化しないことまで含まれるかもしれない。
 一方、イエスのいう「いのち」とは、創造主との和解を通じて、死んでいた魂がよみがえることをいう。
 そのためには、むしろ死ぬことがどうしても必要なのだ。つまり罪に死ぬことである。

 死はなににも増して恐いもので、彼らの気持ちに理解はゆく。あるいは、その不安を鎮めるために彼らは聖書にすがっていたのかも知れない。
 しかし、聖書は精神安定剤の類ではないし、いやしを与えるものでもない。
 この聖書の言葉が生きて入ったとき、その人は死ぬのである。そして、復活のイエスによってよみがえる。このように、聖書とは峻厳とした何かだ。
 聖書に何を求めるかというのは、とても大切なことだろう。

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 健やかな一日をお祈りします!

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神の善悪

 「善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。」(ヨハネ5:29)

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 ここで唐突に善悪が登場する。
 いったい善とは何か。悪とは何か。
 律法を守れないことは罪であるから、善悪とは違うだろう。

 善悪の境目を知るものはいない。
 たしかに、大方の人が善と認めること、逆に、大方の人が悪とすることはある。
 だがこれも、時代の価値観や力学関係などの背景に照らして大きく揺らぐものだ。
 人の基準は、当てにならない。

 イエスが上のように言ったところの善悪とは、神の善悪である。
 文脈から言って、信仰に至ることが善、至らないことが悪なのかもしれない。
 それにしても、この信仰とは誰が与えるものだろうか。それとも自分で勝ち取るものなのだろうか。
 だから、神の善悪は信仰と共に与えられたものなのである。というより、それがすなわち内住の聖霊なのだ。

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 健やかな一日をお祈りします!

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神の子の声

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」(ヨハネ5:25)

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 死人が子の声を聞いて生きる。
 そしてそれは今も続いている。

 死人とはなんであろう。
 それは生きる者以外の全てである。子の声を聞いてよみがえった者以外の全てである。

 周り中が死人なのであれば、自分も死人である方がむしろ都合がいいのではないか。
 それは違う。なぜなら死人の奥底は窒息してしまっている。
 イエスの声はあるとき聞こえ、死者に生を与える。新鮮な空気が一気に胸に流れ込む。
 窒息にも気付かないおびただしい数の死者たちは、今日も彼らの主に仕え続ける。

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 健やかな一日をお祈りします!

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恵みということ

 「そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
……
 父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」(ヨハネ5:5-8,21)

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 「子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます」、救いたいと思う人をイエスは救うという恵み。

 イエスは、この38年間もの長患いの人を、癒したいと思った。
 これだけの長患いだから、というのはあまり関係がないような気がする。
 この人を救いたくなったから救った、これが全てなのではないだろうか。
 大勢の病人がいた中で、この人を救いたくなって、そして救った。
 なぜこの人なのかは、私たちには全くわからない。
 恵みとはこのようなもので、因果関係を越えた世界なのである。
 善行をよりたくさん行った結果救われます、というのとは異なる。

 とはいっても、そもそもイエスを信じていない人が恵まれるであろうか。
 イエスはひとりでもパリサイ人を救ったであろうか。
 イエスに「よくなりたいか」と問われたこの病人は、イエスの問いとは無関係な、池の水がどうの、という、とんちんかんな答えをイエスに返す。
 これはこの病人が長年人々から見捨てられていたからで、ともかく日頃自分の思っていること(うっぷんの類)をひさびさの話し相手であろうイエスにぶちまけている。
 だがこの病人もまた、その人なりにイエスが自分を何らかの形で助けてくれると思っており、これもまた、小さな信心であろう。

 イエスを信じてこそ、病人は癒しにあずかった。
 この病人は何かよきことをしたわけではない。
 この人を救いたい、とイエスが思ったのである。正に恵みだ。

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[一版]2010年12月10日
[二版]2014年 6月13日
[三版]2017年 2月25日
[四版]2018年11月18日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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霊とまことによる礼拝

 「イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:21-24)

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 エルサレムの神殿で礼拝するにせよ、北イスラエルが勝手に定めたゲリジム山(うろ覚え)で礼拝するにせよ、それは礼拝というよりか、ただの儀式になってしまう。
 しかしこの儀式によっては、人は御父とつながらず、御父は人とつながらない。
 それで御父が、霊とまことによって父を礼拝する者を求めておられる。

 御父と人とのつながりは、復活の大祭司イエス・キリストがとりなした。
 このイエスに出会うと、十字架と復活を通して私たちの罪が赦される。
 そのとき罪から自由になって、私たちは「いのち」を生きるようになる。
 このようにして、私たちはイエスを通して御父を知った。
(「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」ヨハネ17:3)。

 御父を知っているので、アダムの子孫の祭司による儀式は、もう要しない。
 大祭司イエス・キリストを介する真の礼拝が行われるようになる。
 言い換えると、イエスというパイプを通して、御父の霊と人の霊が交わること、これが「霊とまこと」による礼拝である。
 そのパイプとは、十字架と復活を通してイエスが初めて切り開いたものだ。

 だから私たちは、このパイプの通り抜けを、切実に祈り求めるのである。
 

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[一版] 2010年12月 4日
[二版] 2012年10月 7日
[三版] 2014年 6月 8日
[四版] 2018年11月11日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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刺激はまた渇く

 「あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:12-14)

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 「この水を飲む者はだれでも、また渇きます」。
 何が渇くのだろうか。もちろん魂が渇くのである。
 渇くとどうなるかというと、刺激で一時しのぎをしようとするのかもしれない。
 刺激といっても様々なものがあるので、ここでは物欲に絞ると、衝動買いという言葉もあるように、消費することそれ自体が刺激を与えてくれることがある。
 もちろんそんな刺激はすぐになくなるから、また刺激を求めてショッピングを続けることになる。
 しかしこれは満足感とは全く異なる。
 というより、この満足感の代わりに、いっときの刺激で埋め合わせているように思える。
 ここに出てくるサマリヤの女は、満足できずにとっかえひっかえした男に刺激を求め続け、そうしてつまはじきになっていったから、悪循環から抜け出せずにもがいていただろう。

 だがイエスが与えようとする水を飲むと、もう渇くことがない。
 つまり、心満たされ、満足感を得るのである。刺激は不可欠ではなくなる。
 マモニズム、物質主義が与え続けるこの種の刺激から、私たちは自由になる。
 神と富とに仕えることはできないのである(マタイ6:24新共同訳)。

 私たちは、本来何に心満たされるように造られているのか。
 見失ってしまったこのことを、イエスは回復させてくれるのである。

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 健やかな一日をお祈りします!

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イエスのあかし

 「上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。
 この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。
 そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。」(ヨハネ3:31-33)

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 イエスはあかしする。いつもあかししている。
 しかし、地の言葉を話し地の論理で生きる私たちには、そのあかしを理解できない。

 そもそも、そのイエスのあかしは、私たちに本当に必要なのだろうか。
 ユング心理学者の河合隼雄氏は、「痛みを感じると言うことは、自分を自分として意識することの始まりであるといえるかもしれない」(「影の現象学」,p.208)と書いており、これは、痛みがあってこそ初めて人は自分の内面に気付くということだろう。
 そして、自分の内面がぼろぼろだったと分かったときにはじめて、人は救いを求め天のあかしを求める。心の貧しいと気付いた人は幸いなのだ。

 この天のあかしをどこまでも追い求めようとしていると、恵みによって、天のことばによるあかしが突然ねじ込まれる。自分が何かをしたからあかしをゲット!できるという因果関係なのではなく、あるとき突然、あかしの方から自分の内に飛び込んでくるのである。
 そして、「神は真実であるということに確認の印を押した」というのは、確認の判子を押さざるを得なくなったのであり、喜んで押印しましたというのではない。
 あかしの意味は、ゲット!するのではなくやってくるものなのだ。

 神が真実だと承伏したとき、その人は死んで、よみがえる。
 イエスの十字架と復活の後に続くその先には、この神との和解がある。
 心乾いていた者は潤い、心の貧しき者は満たされる。価値観は転倒する。
 救世主イエスは多くの者をこのように救いたく、今日もあかしし続けている。

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 健やかな一日をお祈りします!
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