神に教えられて

 「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。
 だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。
 まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
 わたしはいのちのパンです。」(ヨハネ6:45-48)

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 イエスの公生涯というのは、たかだか3年間にすぎない。
 つまり有史以来、神の子イエスを実際に見ることができた期間は、たったの3年間しかなかった。
 その奇跡のような3年間のどこかでなされたイエスのお話が、上の引用聖句。

 預言者の書には、「彼らはみな神によって教えられる」と記されているという。
 古代イスラエルの人々は、士師や預言者を通して神から教えられていた。
 そうではなく、いまや神がじかにわたしたちに教えてくださる。
 では神は、何をじかに教えてくださるのだろう?
 それは、イエスの居場所、とでも言えばよいだろうか。
 そこでイエスとお会いできる、というような一種の情報とでもいえばいいのだろうか。
 漠たる書き方しかできないのだが、確かなことは「汝殺すなかれ」とか、その類のこと(律法それ自体)を教えるわけでは、全くない。

 さて、上の聖書箇所でイエスの言に耳を傾けている誰一人として、イエスを全く知らず、またイエスと出会ってもいない。
 イエスを目の前にしているにもかかわらず、そうなのである。
 そうであるならば、イエスが天に上げられてのち、一体どうやってイエスに出会うことができ、イエスに聞くことができるというのだろうか。
 ところが、数多の人々がイエスに出会ってきた。
 もっぱらその出会い方(?)について、「彼らはみな神によって教えられ」たのである。

 神に教えられてイエスに出会うと、いやが上にもイエスを信じざるをえない。
(ただ、聖書という媒体なくしてそうなるとは思えない。)
 そしてイエスという永遠のパンを食す。
 あたかもアダムが木の実を食して目が開かれたのと同じように(創3:7)、このパンは今まで閉じていた目を開かせる。
 その目から見えるもの、見渡せるもの……、「いのち」の確かな手応え。

 「聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました」(1コリント15:45)
 このとおりである。
 「最後のアダム」によって、「最初のアダム」が生きるのだ。
 この「生きる」というのが、端的に「いのち」だ。
 アダムは違反以前の地点に戻るのである。
 それは、アダムの肉をまとったイエス、いわば「もうやめにしようのアダム」によってである。

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