毛さえも数えられていることはありがたいか空恐ろしいか

 「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。
 また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。
 だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」(マタイ10:29-31)

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 ネットの世界にはターゲティング広告というものがあるが、私はこのターゲティング広告が嫌ったらしくてしようがない。常につきまとわれているという感覚があり、生理的に受け付けない。
 この場合、ターゲティング広告はアルゴリズムという無生物が自動的にやっていることだ。頭ではそうと分かっていても、誰かが自分のすべてを何もかも分かった上で広告を配信してきているのではないかという気にもなってくると恐さすら覚えてくる。
 上の「あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」という聖句は、御父が私のことを何もかもご存じであることを言っているが、このことをありがたいことと思うか空恐ろしいことと思うかは、御父との関係性によるだろう。
 アダムの違反によって、すべての人は御父との関係が壊れて罪の下に置かれている。そうすると、すべてをご存じの神の前に自分は何も隠し立てできないという罪意識が律法によって生じてくる。だから、頭の毛まで数えられているというのは、実は空恐ろしいことのはずである。以前にも何度か記したが、山上の説教での姦淫の下りが思い出されたときに、私は恐怖症に陥ってしまったことがある。
 しかし救い主イエスは、十字架と復活の御技を通して、この罪意識からの解放への道を切り拓いた。その道の先に罪の赦しと御父との和解がある。この御父との和解を通して、神は私のすべてを赦し暖かく見守って下さっているという信仰に至るのである。
 このとき、御父は私の内側におられる。「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:38)とあるとおりで、外から流れてくるのとはまったく異なる。
 心の奥底からの水がほとばしるようになるためには、律法を通して、頭の毛まで数えられていることの空恐ろしさをいったんは味わう必要があると思う。

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イエスにある者とそうでない者との対立

 「兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。
 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」(マタイ10:21-22)

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 イエスは公生涯中に様々なところで伝道をしたが、次第に群衆がいらだちはじめ、あるときには石を投げられまたあるときには崖から突き落とされかけた。
 理由は単純で、この群衆がイエスにある者ではないからである。
 イエスにある者とそうでない者とは、これほどまでにわかり合えず対立する。だから「子どもたちは両親に立ち逆ら」うのである。
 逆に言うと、十字架に死にイエスによって新しく生まれた人は、もはや他の人とはわかり合えない位に割り切る必要があり、じっさい人々に憎まれる。だが、私を憎むやつは、実は私に映し出されるイエスを憎んでいる。
 この新しい日々は、私が歩んでいるというよりは、内住の聖霊に動かされている日々である。
 様々な人との間で我慢や忍耐を強いられるが、御父からいただいたこの聖霊という心棒が私を支え続けている。一方で、彼らには心棒はあるようでない。

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[一版]2022年 4月24日
[二版]2024年 9月28日

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借り物の言葉、自分の言葉、聖霊の言葉

 「人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。
 というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。」(マタイ10:19-20)

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 ある人から聞いたことなのだが、その人のとても辛かったときに「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。」(1コリント10:13)という言葉が聖書にあると言われて、その人は猛烈に腹が立ったそうだ。
 なぜそんなにも腹が立ったのだろう。
 その人が聖書に関心がなく、それどころか忌避していたからかもしれない。
 あるいは、神はこう言っているぞと大上段に振りかざすばかりで、その人への気遣いや思いやりをまるで感じられなかったからかもしれない。
 なにより、言い放った人にとって、このみことばが借り物の言葉にすぎないのであれば響くものがないことは明らかだ。

 自分でいうのもなんだが、私は自分の言葉で伝えることができる。
 雑談などをしていた後、あー今のは聖書の話を自分はしていたなあと気づくことがたまにある。
 聖書の言葉を使うことは全くないし、話している最中は聖書をまるで意識していない。だが、確かに聖書の内容を話している。
 聖書の話に限らず、自分の考えや気持ちを伝える上では、自分の言葉を持っているか、借り物の言葉にすぎないのかはかなり違ってくると思う。

 しかし、その自分の言葉なんかよりもずっと大切なものがある。
 それは内住の聖霊の言葉である。
 イエスが「話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです」と言っているところのものである。
 自分のまったく思いもよらないことを言うことが、ほんのときどきある。
 頭の計算なんか遙かに超えて、そのときぽんっと飛び出してくる。
 大抵は窮しているときで、言った自分自身が驚くし、相手も理屈を超えて納得してしまう、そういう類の言葉だ。

 聖書は、この聖霊が恵みによってその人の内に住んでくださることを約束している。
 聖霊は私の一番の味方であり、私の最強の弁護士である。
 私を先導してくれ、私の存在を唯一守ってくれる。
 自分に頼る者よりも一見弱いが実は強い。
 だがそれは、私が強いのではなく、和解した御父、創造主の強さなのである。

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[一版]2020年12月 6日
[三版]2024年 9月23日

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羊飼いのない羊にもっとも必要なのは羊飼い

 「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。
 また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ9:35-36)

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 さまざまな町や村を巡ったイエスは、群衆のひとりひとりが弱り果てて倒れているように見えた。彼らはあたかも羊飼いのない羊のようだった。

 この福音書のころより時代はずっと下るが、産業革命後のカール・マルクスは「人間は特定の土地から切り離されて、自分の労働力を商品として売るようになる」と書いたという(佐伯啓思 著、「西欧近代を問い直す」、p.73)。私はマルクスの考えに賛同する者ではないが、地縁から切り離されて都会で孤立し、自分を切り売りしてゆくしかなくなるという趣旨の的確さには鳥肌が立った。

 人とのつながりから切り離されて、人としてでなく労働力としてしか扱われないのでは、弱り果ててしまうのも当然だ。イギリスに続いて日本でも孤独大臣ができた。もっともこれはポストがまたも増えたというだけのことであるが、人とのつながりがないならばツイッターでもと彼らが言うのはまるで違うと私は思う。人は物質的存在でもなければ、情報的存在でもない。

 では人に一番大切なものはなんだろうか。それは人とのつながりそれ自体よりもまず、羊飼いの存在である。言い換えると内住の聖霊であり、ゆるぎない自分の心棒である。言い替えると、自分を取り戻すということになるだろうか。これがあってはじめて人は人と本当に交わることができる。

 羊飼いのない羊とは、神と断絶したすべての人に当てはまることで、さまざまな町や村でまさにイエスが見たとおりである。
 弱り果てて倒れそうになったら、外に目を向けるのではなく、内にいます神を探し求めるのである。そのためにイエスは町や村を回っている。

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真の病とイエスによる治癒

 「イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。
 すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」
 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:10-13)

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 取税人や罪人たちは自らの病人ぶりを自覚していて、それで医者を必要としていた。
 パリサイ人や人々に後ろ指を指され続ける中、イエスが取税人たちを訪れた。
 さて、もしも彼ら取税人や罪人たちがイエスによって救われたなら、そのあと彼らはどうなるだろうか。
 そのあとも彼らは取税人であり続け、罪人であり続ける。
 ただ、もう病人ではなくなるのである。
 イエスを介した御父と和解によって、人をお造りになられたこの御父との関係が元通りになるという、根源的な治療を受けたのだ。
 復活のイエスは、今も病に苦しむ人のもとを訪れる。
 一方で、後ろ指を指し続けるほんとうの病人たちは、そうであることすら気づかない。

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神が会いに来て神に出会う

 「イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。」(マタイ9:9)

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 イエスは取税人マタイのところに来て「わたしについて来なさい」と言った。
 これは、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙3:20)と同じことで、イエスはまさに会いに来た。
 マタイがすぐさまイエスに従ったのは、頭であれこれ考えてのことというより、むしろ脊髄反応的なものではないか。ペテロなども同じであるが、つまり神に出会ったのである。
 神に出会うためにこちらから探したり追いかけたりしても無理で、神が戸の外に立ってたたく。
 これは、神の選びというよりも、神の憐れみなのである。

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[一版]2022年 3月27日
[二版]2024年 9月16日

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因果関係がないからこその恵み

 「イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。
 すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。
 すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている。」と言った。
 イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。
 『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。
 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。
 すると、彼は起きて家に帰った。」(マタイ9:1-7)

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 イエスが「あなたの罪は赦された」とまで踏み込むのはこの箇所だけだと思う。
 なぜイエスは、癒やすにとどまらず、この人の罪を赦そうと思ったのであろうか。
 たまたまである。
 中風の人を運んできた人々に感嘆してとか、そういうことではない。なぜなら、もしそうだとしたら、我々の救いはパフォーマンス合戦に堕してしまうからだ。つまり、わざによる救いになってしまう。
 たまたまイエスの心が動いてイエスが救いたいと思った、これが恵みであり、この恵みには因果関係がないのである。

 それから、人の罪を赦すということは、病の癒しよりも遙かに難しい。
 人の罪の赦しは、もっぱらそのためにイエスが受肉したもので、これからのイエスの業によって完成する。
 すなわち十字架と復活であり、イエスは救いの道を開通させてくださった。
 自身の肉を差し出して死んで更によみがえるというのは、病の癒しよりも遙かに難しいことは明らかである。
 イエスを単に難病を癒してくれる存在として見ると、おそらく失望するだろう。イエスはもっとずっと大きなことを我々になしとげてくれたのである。

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[一版]2013年11月11日
[三版]2024年 9月15日

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ただの死と復活に至る死

 「イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。
 すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。
 弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」
 イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。
 人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」(マタイ8:23-27)

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 イエス一行を乗せた船は嵐に遭い、舟は大波をかぶって浸水する。
 弟子たちはみなガリラヤの者で漁師もすくなくないから、この事態が何を意味するのかは分かっている、今にも溺死するのである。そしてイエスは彼らの懇願に応じて、湖を大凪にするわざを行った。
 こうして命からがら助かったにもかかわらず、いつもイエスの御許にいるこの弟子たちは、よく知っているイエスがキリストであるとは気づかない。
 もしこれが海難事故になって溺死してもただの死なのだが、イエスが切り拓いた十字架の死と復活の道においての十字架の死とは、罪赦され義と認められて御父と和解して復活といのちへと至るためのものなのである。復活のイエスによってこの道に入らされてこの十字架と復活に預かった人にとって、天の御国はたしかに今ここにある。
 福音書の時代、イエスは人々と共にいたが、今は、「戸の外に立ってたたく」(黙示3:20)とあるように復活のイエスが個々人を訪れ、そのときイエスをキリストと知ることになる。これは否応なく分かる。

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『死人』への恵み

 「そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」
 すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」
 また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
 ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」(マタイ8:19-22)

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 イエスは律法学者の申し出をあしらい、弟子には「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい」と、どうあっても自分について来いという。
 なぜ律法学者は弟子にしてもらえず、もう一人の男は弟子にしてもらえるのだろうか。
 律法学者が従前の律法解釈から離れることができないからだろうか。イエスはもう一人の男をよほど可愛がっていたのだろうか。

 そうではなく、どの人にもイエスの愛は降り注ぐ。
 これはむしろ恵みについてであって、もう一人の弟子がたまたま恵まれたというだけのことだ。
 恵みに理由はない。少なくとも、人間に理解できるような理由はない。
 たまたま、なのである。
 敬虔にしたから恵まれるとか、律法を型どおりに遵守したので恵まれるとか、そういう因果関係からは離れたところにあるものである。

 そもそも、私たちは敬虔でも何でもない。かけらほども律法を守れない。
 そのことに気付きすらしないのだから、なんという死人だろう。
 それほどの死人だからこそイエスの恵みが必要なのであり、この恵みによって我々死人はイエスに葬られてのちよみがえる。

 だから、求め続ければこの律法学者が恵まれるのはもちろんのことで、彼が恵まれて生まれ変わったら、うわべの敬虔さなどかなぐり捨てることだろう。

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[一版]2012年 2月26日
[四版]2024年 9月 7日

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土台

 「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイ7:24-27)

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 山上の説教の最後、土台について。

 それにしても最近の若者の狼藉ぶりには、目が余るものがある。
 高速道での故意の事故をはじめ、通勤電車の中などでは自分も被害に遭う。
 彼らはどうも、現実の世界はゲームの延長と思っている節がある。正に砂の土台だ。
 善悪の概念自体がないようなこんな連中には腹を立てるのも馬鹿らしくなる。

 ここまで大層偉そうに書いてきたが、しかし自分の若い頃だって彼らと大同小異だった。
 あまりにもひどかったから、それでふらふらになって教会の門を当時叩いた。
 今までの砂の土台では立ちゆかないと気付いて初めて人は救いを求めるような気がする。

 イエス・キリストを通して魂が救われると、今までの砂の土台は岩の土台にがらりと変わる。
 土台というか、根底の部分、奥底の部分という方が分かりがいいかもしれない。
 善悪について、また、そのほかのことについても、確かなものに瞬時に入れ替わる。
 実は、この岩の土台は自分から出たものではない。
 私たちは罪に死んで、自分を復活のイエスに明け渡したのだった。
 だから、この岩の土台とは内住の聖霊なのである。
 砂は自分、岩は御霊といえばいいだろうか。

 山上の説教とは、全ての人は罪の下にあるというものであり、最後に、その罪から解放された結果についてイエスは約束している。

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[一版]2018年 3月 4日
[三版]2024年 9月 1日

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