イエスのみわざ

 「それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。
 「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。
 しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。
 カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。
 しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」(マタイ11:20-24)

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 ツロ、シドン、更にあのソドムでもしイエスの御技が行われていたら、彼らはキリストが来られたと悟ってイエスの前に競って悔い改めていただろう。
 そのように、キリストが来られたときにそのことが分かって悔い改めること、これがイエスの福音である(マタイ4:17)。
 この悔い改めとは、回心とか新生といった事柄の中に包含されている。

 カペナウム、コラジン、ベツサイダは、実際にイエスの御技が鮮やかに行われたにもかかわらず、キリストの到来という福音に全く気付いていない。
 御技を見た上でなお悟らないので、イエスは責めておられるのである。

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イエスに従う

 「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
 なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
 さらに、家族の者がその人の敵となります。
 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:34-39)

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 イエスに付き従うということは、そのためならば親にすら従わないということである。
 親にすら従わないのであれば、「わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます」(マタイ10:22)ということになる。

 それでもイエスに従うのは、自分のいのちを失うことによっていのちを自分のものとさせていただいたからだ。
 ここでいう前者の「いのち」は、生命体としてのいのちであり、後者の「いのち」が聖書の言う永遠のいのちである。
 いのちは、捨ててはじめて生きる。
 このことは自分で成し遂げられるわけもなく、ただ恵みによってイエスにしていただける。

 それで今日も、自分の十字架を負ってイエスに従うのである。
 つまり、極刑に値するにもかかわらず赦していただいた喜びで、親にすら逆らってもイエスに従っている。
 自分が極刑相当だということに気付かない人に、イエスは全く無関係だ。
 ちなみに何によってそれほどの罪深さに気付くのかというと、イエスを通した律法群である。

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あなたの罪は赦された

 「イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。
 すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。
 すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている。」と言った。
 イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。
  『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。
 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。すると、彼は起きて家に帰った。
 群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。」(マタイ9:1-8)

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 「やさしい」は " easier " 、すなわち「易しい」。

 『起きて歩け』が成就する方が、 『あなたの罪は赦された』ことが成就するよりも、はるかに容易である。
 前者はごく少数であれ行うことができても、罪を赦すことができるのは神おひとりだからだ。
 というより、罪を見いだし、または咎を赦すのは、神の専権事項である。

 さて、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。
 イエスは「彼らの信仰を見」た。
 「彼ら」とは、中風の男をみもとに運べば癒されるだろうと思ってそうした人々のことを指している。
 その彼らの信仰を見たイエスは、彼らにではなく、中風の人に「あなたの罪は赦された。」と仰った。
 行いからいえば、罪赦されるのは信仰が見いだされる運び屋の人々だろう。
 しかし、イエスは何一つしていない中風の人に罪の赦しを告げ知らせた。
 これが恵みだ。
 神がなされる罪の赦しは、ただ恵みによるのである。

 今もイエスは天上から、罪の赦しを告げ知らせ続けている。
 だからイエスはしばしば「耳のあるものは聞きなさい。」と仰るのである。

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こっぱみじん

 「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイ7:24-27)

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 山上の説教の最後。
 山上の説教とは、イエスを通した徹底した律法解釈が主であった。

 さて、イエスが仰るように、「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行」ってみよう。
 この徹底した解釈を、どこまで行うことができるか。
 もしできたら、それは「岩の上に建てられていた」家になる。

 どこまでも試みて、そうしてどうしても出来ない、という地点にまで追いつめられたとき、暴風雨と洪水の前にあっけなく倒れる。
 それも、こっぱみじんにひどく倒れる。

 鉄壁の家は、律法を完璧に守り仰せたときの、文字の上に建つ安心感だ。
 自分はどの条文にも全く抵触しておりませんゆえ、神がお認め下さいます、まあ、そのようなものだろうか。
 もしそうであるならば、イエスの十字架は、その人には無関係だ。
 それ以前に、そのような人間はいない。

 イエスの十字架というのは、人間としてのイエスの肉がこっぱみじんになってしまったと形容できる。
 人間が持つ罪深い「肉」( human nature )を、代わりに処罰してくださったのである。そして、その処罰が認められてイエスは復活する。
 このイエスを信じるとき、十字架の意味が明瞭になり、罪赦されて「いのち」を得る。

 文字で出来た鉄壁の家にこもるのではなく、自身が生ける神の宮(2コリント6:16)そのものになるのである。
 そのためには、山上の説教の行いをとことんやってみた末、できないと分かってこっぱみじんに砕け散る必要がある。

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[付記]
 本日の記事は、今年2月12日の記事に修正を施したものです。

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父のみこころ

 「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」(マタイ7:21-23)

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 イエスに「主よ、主よ」と言いすがること自体は、とてもたやすい。
 そのようにイエスに言えば天の御国に入るのかというと、入るのは皆ではないという。
(どのくらいの少なさなのかは、父だけがご存じだ。)
 それは、「父のみこころ」を行うかどうかが、別れ目となる。

 預言をしたり、悪霊を追い出したり、奇蹟を行ったりするというおこない、このようなもの自体は、父のみこころなどではない。
 父が求めていることはただ一つ、神が遣わした御子イエスを信じるということである。
 「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17:3)

 キリストの十字架と復活を目の当たりにすること、これのみが神とキリストへの知識を与えて信仰へと至らせるものである。

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小さき門

 「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)

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 滅びに至る門はあまりにも大きい。
 大きすぎて、それしかないようにすら見える。
 大勢の人が、この広い門をくぐっていく。
 いのちに至る門など、その存在すら知らないかのように。

 実際のところ、いのちに至る門はあまりに小さく、大きな門を目の前にしてこの小さき門を見いだせる人は稀なのだと、イエスは仰る。
 地図も看板もない。
 それでも、捜すならば見つかる(マタイ7:7)のである。
 捜そうと思う時点で、その人は希有な人なのだ。
 この門についてイエスは、「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。」(ヨハネ10:9)と仰っている。

 大きな門に続く道は、広々している。楽に通ることができる。
 一方、この小さき門に続く道は、狭いという。
 世から救われたのだから、世にあっては狭いのも当然だろう。
 小さき門をくぐったことははっきりと分かるので、道の狭さは、ますます強い確信を与えてくれる。


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[お断り]
 明日21日から木曜24日まで、旅行のためお休みします。

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悪い者が求めるもの

 「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。
 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」(マタイ7:7-11)

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 上の聖書箇所でも、イエスは読み手を「悪い者」呼ばわりされる。
 自分の子供に良い物を与えることは、ここでいう善し悪しとは何の関係もない。
 イエスの律法を守り行えないという点で、私たちは皆、偽善者であり「悪い者」なのである。
 そのことを腑に落ちてもらいたいから、イエスは何度でも繰り返す。

 その自覚した悪い者が求めることといったら、父が与えてくださる「良いもの」である。
 義なる者からは程遠いにもかかわらず、父から義と認められることだ。
 その「良いもの」を得ることを「求めなさい」、「捜しなさい」、「たたきなさい」と、イエスは勧めている。
 自覚した悪い者は飢え乾いているから、イエスの勧め通りに「良いもの」を求め、捜し、たたくだろう。

 「だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」
 求めるならば、「良いもの」を誰であれ例外なく受けることができる。
 これがイエスの約束である。
 誰でも「良いもの」を受けることができるようになるため、イエスはこの世に来られて十字架に死に復活された。
 「良いもの」の中には、そのことを信じることが含まれている。

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犬や豚

 「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」(マタイ7:6)

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 犬や豚は、真珠の価値が分からないのではない。
 真珠に価値はないと思っているのでもない。
 それどころか、真珠それ自体の意味自体は、はっきりと分かっている。
 分かっているからこそ、「足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂く」。
 だから、犬であり豚なのだ。

 聖なる物であるこの真珠を憎悪する人が存在するのも、また事実である。
 イエスは常に、世との対立構造の中におられた。
 例えばヨハネ16:20には、十字架を前にしたイエスが、「あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。」と仰っている。

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丸太

 「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(マタイ7:3-5新共同訳)

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 自分の目の丸太には、おいそれと気付かない。
 その「丸太」に気付かせてくれるのが、イエスを通した律法だ。
 「イエスを通した律法」とは、厳密解釈であるのみならず、心の中まで突き通す。
 このイエスの律法によってのみ、丸太を丸太と気付かせてくれる。
 丸太とは、もちろん自身の罪( sin )のことだ。
 イエスの律法によって、罪が罪としてあからさまになる。

 「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け」。
 イエスは私たちを偽善者呼ばわりする。
 イエスの基準からすれば、私たちにはひとかけらの善すら行うことはできない。
 それにもかかわらず善人面(づら)して、他人のおが屑探しばかりやる。
 丸太の見えない偽善者なのである。
 だから、「まず自分の目から丸太を取り除け」と、イエスは仰っている。
 それが救いの入り口なのであり、そのためにイエスの律法がある。


 なお、上の聖書箇所は過去に何度も用いた。
 こちらこちら、それからこちら
 書いてきたことはいずれも同じで、今回もそうだ。

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神の国とその義

 「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ6:31-34)

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 人が最も切実に求めるべきものは、なんだろう。
 イエスは、「神の国とその義」だと仰る。
 それに比べれば、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」という事柄など、些末なことなのだ。

 義と認められて神の国に迎えられることの難しさ(イエスの十字架と復活によってたやすくなったとはいえ、その狭き道を見いだす者は依然として稀なのだ。)に比べれば、明日のことは相対的にずっとたやすい。
 回心とか新生とか言われていることの機会は、一生に数えるほどしかない。
 だが、糧を得るための労苦それ自体は、「その日その日に、十分あります」。

 そういうわけで大切なことは「神の国とその義」を求めることだ。
 求める過程が正しければ、食べ物、飲み物、着物も与えられる。

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