預言

 「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)

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 旧約聖書に編まれている預言書・イザヤ書から。

 「あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」。
 この預言は、キリストの十字架の死と復活によって初めて実現した。
 「十字架の贖罪」とか、まあことばは何でもよい。
 ともかく、「罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」。
 これは「赤」が「白」に変色するのとは異なる。
 「赤」の上に、雪のような「白」が分厚く降りかかって「地」をコーティングしていただける。
 罪そのもの(上に書いた「地」)がなくなるわけではなく、罪を赦していただけるのである。
 本来「赤」であるものを「白」に見立ててくださり、そしてそのこと(「赦された」)を自身も深く気付くこと、これが罪の赦しだ。

 仲介者キリストの立ち会いの下、「さあ、来たれ。論じ合おう」と神が申し出てくださる時が来るはずだ。

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よみがえり

 「イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」(ヨハネ11:23-27)

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 ラザロが死んで墓に葬られた後に、イエス達は残された姉妹マルタ・マリアのところに来られた。

 イエスは仰る。
 「わたしは、よみがえりです。いのちです」。
 聖書というのはこれだけ分厚いのだけれども、要約してしまうと、上のひとことだけになるような気がする。
 キリストはよみがえり、そしてすべての人は死んでいても、その中でキリストを信じる人をよみがえらせることができるお方だ。
 よみがえるとは、キリストによって、「死」から「いのち」へと移されることを指す。不老不死の類の話などではない。

 ただ、イエスが道筋を示してくださったように、よみがえる前には十字架(最高刑)の苦しみと、続くよみの状態がある。
 ラザロも、上の聖書箇所の段階では、墓の中で眠っているさなかにある。
 よみがえりは、どうしてもそのようなところを通り抜ける必要がある。
 生まれ変わるのだ、よみがえるためにはいったんは「死ぬ」のである。

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弱音を誰に吐くか

 「主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。
 主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。
 悪を行なう者が私の肉を食らおうと、
 私に襲いかかったとき、
 私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。
 たとい、私に向かって陣営が張られても、
 私の心は恐れない。
 たとい、戦いが私に向かって起こっても、
 それにも、私は動じない。
……
 聞いてください。主よ。私の呼ぶこの声を。
 私をあわれみ、私に答えてください。
 あなたに代わって、私の心は申します。
 「わたしの顔を、慕い求めよ。」と。
 主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。
 どうか、御顔を私に隠さないでください。
 あなたのしもべを、怒って、押しのけないでください。
 あなたは私の助けです。
 私を見放さないでください。
 見捨てないでください。
 私の救いの神。
……
 ああ、私に、
 生ける者の地で主のいつくしみを見ることが
 信じられなかったなら。――
 待ち望め。主を。
 雄々しくあれ。心を強くせよ。
 待ち望め。主を。」(詩27:1-3,7-9,13-14)

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 「たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない」とは、まあ、なんと傲慢不遜な人間なのだろう。
 強がりというか。

 その詩人は、当然のように神を見失う。そして言う。
 「あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ。」と」。
 さらに詩人は、弱音まで吐く。
 「私を見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神」。

 ただ、弱音を吐いた相手が神だったのが良かった。
 彼は己を取り戻し、主に頼ることを改めて覚える。
 「ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら。―― 待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を」。
 未だ困難の中にいるのだが、上のような弱音はもう影を潜め、詩人の心は確信に満ちている。
 強がりも、まったく見られない。

 弱音を吐く相手が人だったら、彼はどうなっていただろうか。
 ほんとうに信頼できるのは、ひとにぎり、いや、ひとり(おひとかた)だと思う。
 この方が、上の詩人を導いたようにわたしたちを導いて下さる。

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それが起こったとき

 「『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る。』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。
 あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。
 そして今わたしは、そのことの起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったときに、あなたがたが信じるためです。」(ヨハネ14:28-29)

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 「わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る」。
 すなわちイエスは十字架に架かって死に、その死から復活しておいでになる。
 そして、「父のもとに行く」。
 実際、復活のイエスは弟子たちに姿を現された(ヨハネ20章)。

 このことは、「起こ」る。
 彼がイエスと同じ道程をたどって十字架に架かり復活し、そこで復活のイエスに出逢える、ということが、起こる。
 そのことを「あなたがたが信じるため」、イエスは「そのことの起こる前にあなたがたに話」された。

 イエスはそのことが起こるよう、「父のもと」で準備しておられる。
 だから私は、イエスが「父のもとに行くことを喜」んでいる。

 復活ということが、自分自身の「いのち」と何の関係もないと思っていたら、つまり、単なる生死や不老不死の類と思っていたら、それは実に勿体ない。
 そのこと、つまりイエスが予め話しておられたことは、起こる。
 それは、実際起こったときに、分かる。

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「いのち」の準備

 「いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。
 その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」(ヨハネ14:19-20)

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 「わたしが生きるので、あなたがたも生きるから」、「あなたがたはわたしを見ます」とイエスは仰る。

 イエスの復活あってはじめて、私たちが「生きる」準備が調った。
 2000年来、ずっと準備され続けている。
 あらゆる地域のあらゆる階層の人々のための準備。

 この準備が「いのち」へと進むためには、まずは「いのち」をイエスに求める必要があることは言うまでもない。
 「いのち」を求める、求め続けると、「その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわか」って、「いのち」を得て、「生きる」ことがかなう。
 そのとき、イエスを見る。

 彼がイエスにおり、イエスが彼におる……、「いのち」について、イエスはそのように仰っている。

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アバ、父

 「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。
 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」(ローマ8:14-16)

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 教会に行きだしてまもなくの頃、この「アバ」というのは「おとうちゃん!」という位のニュアンスのことばだということを礼拝で聴いた。
 アラム語だったはずだ(自信なし)。

 「おとうちゃん!」。
 最も身近な存在に呼びかけるときの、親しみを込めた呼び方だ。
 身近で親しい。
 そうであれば、「アバ、父」という滅びた言語で呼びかける必要も、ないだろう。
 神が身近な存在で、そして何の気遣いもなく親しみを込めて呼びかけることができているかどうか。
 そしてそのことに全く違和感を感じずに済むかどうか。

 「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます」とあるが、誰に対して「あかし」するのかというと、もっぱら自分自身に対してだ。
 自分が子だと思いこんでるからこそ、「アバ、父」に類する呼びかけが、あたかも息を吐きだすかのように自然に口をつく。

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人を許す

 「だから、こう祈りなさい。
 『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
 御国が来ますように。
 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
 私たちの負いめをお赦しください。
 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』
 〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」(マタイ6:9-15)

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 前半は、いわゆる「主の祈り」。
 イエスから授けられたこの祈りは、こうして改めてみると、必要十分な祈りのように思える。
 言い換えると、これ以上のことばは余計であり、これより少ないと足りない、そのような祈り。

 この祈りの前半部は、「御国が来ますように」に集約される。
 残る後半部のうち二行を、「人を許す」ということに費やしている。
 この「人を許す」ということについては、イエス御自身の注釈まで付くという念の入れようだ。

 人を許すということは、一般にとてもむずかしい。
 人を許さないままでいると、自分が苦しくなってしまう。
 しかし、もしその人と和解するならば、その苦しさからあっという間に解き放たれる。
 お父様が創ったこの世界の理(ことわり)なのであろう。
 ところが人には要らぬプライドがあるので、人を許すことはむずかしい。
 そういうことで、「人を許す」ということについて、必要十分であるところの「主の祈り」の中で祈り求めよ、ということなのだと思う。

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歯車

 「私は身を横たえて、眠る。
 私はまた目をさます。
 主がささえてくださるから。」(詩3:5)

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 「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます」、その営みはあたかも機械の歯車かのようだ。
 あわてずさわがず、声も出さず特に主張もせず、淡々とおんなじ速度で隣の歯車とかみ合いつつ、ごく自然と回り続ける。
 その隣の歯車に歩調を乱されることも、ない。
 「主がささえてくださるから」。

 「この歯車」がないと、多分どこかしらが困り果てるだろう。
 けれども逆に、「この歯車」があるからといって「歯車さん、ありがとう」とありがたがられることは、まったくない。
 暗黙の内に、「そこ」できちんと役割を果たせばよしとされる、「この歯車」。
 「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます」、その繰り返し。
 「主がささえてくださるから」できることだ。
(それを明確に意識しようとすると、歯車の速度がぎくしゃくするような気がする。)
 そして週に一度、「主」がグリスを丁寧に塗り込んでくれる。

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[おことわり]
 本日の記事は、今年2月17日の記事を再掲したものです。

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なぜ疑うのか

 「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。
 しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。
 すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
 弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。
 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
 イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。
 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」(マタイ14:22-31)

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 弟子たちが乗り込む舟には強い向かい風が吹き、進むこともままならない。
 そうこうしていると、幽霊のような影が向かってくる。
 しかしそれは、イエスだった。
 イエスが水の上を歩いてこられた。

 おっちょこちょいペテロが、イエスを試す。「私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」。
 「来なさい」と、イエスは許可を下す。
 そろりそろりと水の上を歩き出すペテロ。
 だがペテロはふと、強風の方に気を取られてしまって、沈みかけてしまう。

 神は、必要であれば、水の上だろうと火の上だろうとそこを通って、私たちを助けに来てくださる。
 人間が水の上を歩くことは、許されていない。
 だが、ペテロには特別な許可が出た。
 その許可の下、実際ペテロは水の上をしばらく歩く。
 ところが、強風を見てこわくなる。
 すると、神が構築した自然科学の働きによって、ペテロは水の底へと沈み始める。

 特別な許可が出たのであれば、いかに強風の下であろうと疑わなければ水上のイエスの御許に行くという約束がかなったであろう。
 周囲の状況の悪さによって、約束を疑わないこと。
 イエスも仰った。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」。
 信仰とは、はっきりと得た約束を、たとえ周囲の状況が悪くとも疑わずに「そうなるもんだ」と信じるもののような気がする。

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コーティング

 「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。
 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」(ローマ13:13-14)

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 かなり前、柿の種にチョコレートがコーティングされたものを食べたことがある。
 妙なものを作るもんだ、そう思った。

 「主イエス・キリストを着なさい」。
 パウロにこのように書かれて、はいそうですかと着ることなどできない。
 だが「いのち」とはまさしく、キリストを着ているようなものだと思う。
 その人がキリストになるわけではない。中身はそのまんまだ。
 ただ、その中身に、キリストがコーティングされる。
 柿の種がピーナッツに全き変質を遂げるのではない。
 柿の種にチョコレートがコーティングされる、これと同じだ。

 アダムの肉が、コーティングされる。
 それが妙なものか、妙(たえ)なるものか、どうだろうか。

 検索ソフトで「着る」と調べ調べた結果をもとに聖書を開くと、偶然にもこの箇所は、アウグスティヌスがとどめを打たれた箇所だった。
 アウグスティヌスは、この箇所を読み、そしてコーティングされた。

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