語り続けるイエス

 「イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。
 あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。」(ヨハネ8:42-43)

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 イエスは仰る。
 「あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう」。

 続いて仰る。
 「あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです」。
 耳を傾けることができない。
 耳が塞がれている。

 ならばイエスはこの人たちに話し続けることを止めればよさそうなものだ。
 だが、止めないで語り続ける。
 それは、それらの人々の中から幾人かが、ただ神の恵みによって耳が開き、イエスのおことばが理解できて、「わたしは神から出て来てここにいる」ということをはっきりと了解する、つまり救われるためである。

 だから、きのうも今日もあすも、聖書越しにイエスは私たちに語り続ける。

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これはひどいことばだ

 「これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
 これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。
 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」
 しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。「このことであなたがたはつまずくのか。それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。
 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(ヨハネ6:58-63)

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 「これはひどいことばだ」。
 かつての私もまた、このヨハネ6章をそう思って読んでいた。

 イエスのおことばというのは、説明や説得といったものとは全く異なる。
 「説明や説得」というのは、努力という肉の行為にすぎない。
 イエスのおことばは霊、またいのちである。
 だから、聞く方(読む方)としても、納得して分かるという類のものではおよそない。
 去っていった弟子たちは全く分からなかったので、「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」と言う。

 しかしこの去っていった弟子たちは、こらえ性がないと思う。
 その「ひどいことば」を聞き続けてゆくうちに、ある一点で、はらりと膜がめくれるように全部が分かってくるはずだからだ。
 「このパンを食べる者は永遠に生き」る、ということを説明、説得によって理解させることは、できない。
 だがあるとき、このいのちのことばがその人のうちに入ったならば、その人は誰に教わるわけでもなく、理屈を越えて分かるようになる。
 それが「霊であり、またいのち」というイエスのおことばの特性である。

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渇き

 「イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 」(ヨハネ4:13-18)

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 井戸水というのは、ほんのひととき喉の渇きを潤すものにすぎない。
 水道水だろうがミネラルウォーターだろうが、変わるところはない。
 だが、ここでイエスが問題としている「渇き」というのは、生理的な喉の渇きではない。

 イエスと話している女は、どの男にも満足することがなく、今の男は既に六人目だ。
 この、何物にも満足することがないという、こころの飢え乾き。
 イエスが来られたのは、この飢え乾きを潤すためだ。
 イエスの与える水は、このこころの飢え乾きを潤して、「もうここまでくみに来なくてもよいように」なる。

 だから、イエスの与える水(「わたしが与える水」)というのは、何物にも優ってこころの満足(満ち足り)を与えるものである。
 それをイエスは、「永遠のいのちへの水」と仰っている。

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聖霊に逆らう冒涜は赦されません

 「これを聞いたパリサイ人は言った。「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」
 イエスは彼らの思いを知ってこう言われた。「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。
 もし、サタンがサタンを追い出していて仲間割れしたのだったら、どうしてその国は立ち行くでしょう。
 また、もしわたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの子らはだれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく人となるのです。
 しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。
 強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。 わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。
 だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。
 また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。」(マタイ12:24-32)

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 イエスのわざをパリサイ人が「悪霊どものかしらベルゼブルの力」と言い立てたことに対して。
 「涜神恐怖症」という病気があると聞いたことがあるが、そのような方々には上の引用箇所はややつらいかも知れない。

 まず、「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます」ということ。
 誰が赦すのだろうか。
 神である。
 ただ、それは、イエスの十字架のいけにえが受け入れられた結果、このイエスが復活なされたことが担保としてあってのことだ。
 これ以外による赦しは、ないのだから。
 十字架のいけにえ、というのは、私たちの全ての罪を神の御前になだめるためのいけにえ。
 であるから、復活のイエスを神の力によって信じることができたときに初めて、「赦していただけます」ということを実感できる。

 ではここで、イエスはなぜ「聖霊に逆らう冒涜は赦されません」と仰るのだろうか。
 大きな理由は、イエスの癒しが悪霊の頭の力を使っていると言うパリサイ人への当てつけだ。
 イエスは仰る。
 「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」。
 聖霊の働きによる悪霊の追い出し、それを「悪霊どものかしらベルゼブルの力」とパリサイ人は侮辱する。
 そのように聖霊を冒涜したパリサイ人よ、「聖霊に逆らう冒涜は赦されません」、文脈を追うと、こういう感じだ。

 また、それ以上に、信じた者に御内住なさる助け主・聖霊を冒涜することなど、できようもない。

 そういうわけで、聖霊という存在自体を恐れる必要は全くない。
(今日の聖書箇所の故に恐れてしまっている人を、数人知っている。)
 いくらかでも、涜神恐怖を取り除くことができればいいのだが。

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針の穴

 「それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。
 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
 弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」
 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」
 そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」
 そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。
 ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」(マタイ19:23-30)

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 「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」。
 マモニズムにまみれた金持ちが神の国にはいることは、らくだが針の穴を通ることよりも難しい。
 本来的に大同小異で、一般的にも神の国にはいることは、「針の穴」を通り抜けるほど難しい。
 だが、「神にはどんなことでもできます」。
 神が働いて、「針の穴」を通り抜けさせてくださる。

 ペテロが調子こいて報酬を求めている。
 イエスは神の世での報酬を約束する。
 ただ、釘を指す。「先の者があとになり、あとの者が先になることが多い」。
 つまり、天国でよりよいポジションを得るための努力というのは、往々意味を持たない。
 そんなことより、針の穴を通り抜けたこと自体を喜ぶべきだと思う。

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イエスを信じるということ

 「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」
 すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」
 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」
 そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。
 私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた。』と書いてあるとおりです。」(ヨハネ6:27-31)

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 ここに出てくる「彼ら」とは、五千人の給食にあずかってイエスを追いかけてきた人々。
 だからイエスは彼らに「パンを与えて食べさせた」というしるしを行っている。
 それなのに彼らはここでも、マナのようなしるしを見せろなどとかいう。

 「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」。
 今、目の前にイエスがおられるのだ。そのイエスを見て「神が遣わした者」と信じればよい。簡単ではないか。
 しかし、では何によってイエスを「神が遣わした者」と認めたらよいのであろうか。やはり「しるし」だろうか。
 そうすると、話はそう簡単ではない。
 ましてや現代は、受肉のイエスはおられない。

 この「認める」ということは、「神のわざ」なのだ。
 つまり、神が働かなくては、イエスを「神が遣わした者」、それほどのお方だと認識した上で信じることはできない。
 信じる、ということは、だから難しい。
 だが、思いもよらぬあるときに、神が働いてくださる。

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取税人

 「あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
 そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。
 このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。
 また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。
 もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。
 それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」(マタイ18:12-17)

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 「教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」。
 異邦人というのは、汚らわしい存在だ。
 自分たちを支配しているローマ人ですら、汚らわしい。
 「異邦人か取税人」、取税人もまた、異邦人同様、汚らわしい存在だったろう。
 そして、この文章を書き留めたマタイは、取税人である(参/マタイ10:3)。

 イエスは取税人マタイに、また取税人レビに、「私についてきなさい」と声を掛けられた。
 取税人のかしら・ザアカイの家には、立ち寄って食事を共にされた。
 こんな律法学者やパリサイ人は、いない。
 皆から汚らわしい、こ汚いと扱われている取税人を、「迷った一匹」として扱ってくださるお方だ。
 なぜならイエスはキリストだからだ。
 「迷った一匹」の取税人や罪人にも分け隔てがないほどに、キリスト・イエスはすべての人を救おうとなさっている。

 ただ、イエスにキリストを先に見いだすのは、恐らく取税人や罪人だろう。

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福音は神の力

 「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。
 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。
 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。」(ローマ1:16-21)

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 「不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されている」。
 神の怒り。
 神を神と認めない者への神の怒りは、大きい。
 一方で、信じて神が和解して下さり、この神との間で平和を保っている人々もいる。
 ロマ書5章に、以下のようにあるとおりだ。

 「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」
「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」(ローマ5:1,10)

 では、怒りと平和、この差は何がもたらしたのだろうか。
 「福音」だ。
 「福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」、福音は神の力。
 神は私たち怒りの子と和解するために、福音という神の力をまんべんなくお与え下さった。
 この「福音」とは、イエスがキリスト(救い主)であるということの知らせ。
 神はひとり子イエスを、その愛の故にこの世に遣わされた(ヨハネ3:16-17)。
 きょうイエスは、お生まれになった。
 そのイエスは、自分がキリストであることを数多くのわざと知恵によって顕した後、私たちの罪を赦す十字架に架かって、そして復活された。

 この福音を信じて受け入れるとき、神のほほえみが見えてくる。

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希望

 「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。」(ローマ5:3-6)

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 何かで読んだのだが、忍耐と我慢は違う、忍耐というのは希望を伴っているのだという。
 上の聖句に似ていると思う。
 が、違う。
 聖句が指すのは忍耐が希望へとつながることだ。
 忍耐が希望を生み出す。
(聖書のこういった記載というのは、どちら側の考えを採用する方が自分がより楽をできるか、ということ以上ではないと個人的には思っている。)

 聖書の中でいう希望とは、結局のところ、自らも復活して天の御国で恩人イエスと再会する、ということだ。
 それは、十字架に死んだイエスが復活して弟子と再会した、そのことに似ている。

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三日で建てられた神殿

 「ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。」と書いてあるのを思い起こした。
 そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」
 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」
 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」
 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。」(ヨハネ2:13-21)

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 宮清めの箇所。

 私の記憶が間違っていなければ、ここに出てくる神殿は、ヘロデ大王(今のヘロデ王の父で、東方の博士をだました)の権力保持を目的に着工されたもので、46年間を経た今も建設が続けられている、そのような壮大なスケールのものだ。

 その壮麗な宮殿の内では、商いがまかりとおっていた。
 なぜ神聖な宮殿内で商行為が?
 だいたい、何を商っていたのだろうか。
 牛、羊、鳩、それから両替だ。
 牛、羊、鳩は、ささげもの。
 ささげものを家から持ってくるのは大変だし、いのちあるものだから旅の途中のエサの確保や死ぬ事に対するリスクを伴う。
(宮でほふってささげるためにこそ、ささげるのだから。)
 じゃあ、そんなのものは、宮で買っちゃえばいいじゃないか。
 実にコンビニエントな話だ。
 また両替は、日常使っているローマ貨幣は宮では使えないので、イスラエルの?通貨に両替して献金する、そのために必要なもの。「レプタ」とかそういう貨幣。
(異邦人の貨幣などというのはけがわらしいのだ。そのくせ、そのけがらわしいものを宮殿内に持ち込んでいるのだが。)
 そういうわけで互いの利害が一致し、宮殿内での商いがまかり通る。

 神聖な空間に商人たち。
 誰もがまずいと、薄々分かっている。
 だが、何といってもコンビニエントだ。
 すべての人の建て前と本音の妥協点は、あまりに低い。
 そこにイエスがただ一人、筋を通すために反旗を翻す。
 神聖な場所での汚らしい行為が許せず、怒って商売をめちゃめちゃにする。
 そして仰る。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない」。

 人々は詰め寄る。
 「どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」
 お前は一体預言者なのか、なんの権限あってこんなことをやったのか、そうイエスに問い詰めている。
 イエスはお答えになる。
 「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう」。

 もっぱら権力維持のために建てられ続けている神殿。
 その中の神聖な空間で商いが盛んな神殿。
 こんなものは、どれだけ壮麗だろうが贅を尽くそうが、ぶっ壊してよい。
 代わりにイエスは「三日でそれを建てよう」と仰る。
 イエスは十字架の死ののち、三日で復活する。
 この復活のイエスこそ、本当のの神殿だ。「自分のからだの神殿」。
 私たちは、この復活のイエスという三日で建てられた神殿「で」礼拝するのである。

 「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:24)

 この聖句はだから、本来的にそのような意味かも知れない。

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