よみがえってから

 「そして、賛美の歌を歌ってから、みなでオリーブ山へ出かけて行った。
 イエスは、弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる。』と書いてありますから。
 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」(マルコ14:26-28)

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 いわゆる最後の晩餐の後、ゲッセマネへと向かう道すがら。

 イエスはこれから十字架に架かるのだが、その極刑は公開処刑、いわば衆人環境の中で執り行われる。
 だからイエスが十字架で死ぬと言うことは、誰しも知るところのものだ。

 だが、ここでイエスは仰る。「しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます」。
 よみがえったイエスが行く先は、弟子たちには馴染みでも片田舎のガリラヤなのだ。
 都エルサレムではない。
 イエスのよみがえりが誰しも知ることになる、ということがない。

 十字架までは誰の目にも明らかだ。
 だが、弟子たちのように復活のイエスに出会うというのは、ただ恵みによってなのである。
 イエスを見限ってちりぢりになるという行ないの面が、この恵みを左右する、ということもない。恵みとは、そういうものなのだ。

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裏切り

 「ところで、イスカリオテ・ユダは、十二弟子のひとりであるが、イエスを売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行った。
 彼らはこれを聞いて喜んで、金をやろうと約束した。そこでユダは、どうしたら、うまいぐあいにイエスを引き渡せるかと、ねらっていた。」(マルコ14:10-11)

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 イスカリオテ・ユダが、イエスを裏切るために動き出す。

 ユダが何故イエスを裏切るのか、それは全く分からない。
 また、そのことをことさら探ろうとすることは、聖書の目的とするところからはそれてしまう。
 ともかく、イエスを裏切るべく動き出した高弟が出てきたのである。

 イエスの周囲のすべてが、十字架に向かっている。
 確かに、この十字架のためにイエスは来られた。
 だが、このような形で流れが動くことを、果たしてイエスは見通していたであろうか。
 およそ人間関係の中で、裏切りほどつらいものはない。
 だから私たちは、自分たちがそのような目に遭ったとき、その苦しみは主イエスが(すなわち神が)経験されてご存じであることに心を重ね合わせてみよう。
 この神がどちらの方を憐れむかは、言うまでもないだろう。

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香油女

 「イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。
 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。
 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。
 すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。
 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
 この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。
 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」
(マルコ14:3-9)

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 イエスに香油を注いだ女性の名は、まったく不明だ。
 それなのに、福音の伝わるところ、この女性のしたことも伝えられ、それが彼女にとっての記念になる、そうイエスは仰る。

 ところでイエスは、あらゆる人々の無理解の中にいた。
 バステスマのヨハネですら、イエスを疑った(「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」マタイ11:2-3)。
 だがその中で、「香油女」、彼女は唯一、イエスを理解していた。
 イエスがキリストであり、多くの人々を救う十字架の道にいよいよ就くのだということを。
 それで、埋葬の用意をしてくれていた。それが彼女のできることだった。
 唯一イエスを理解していたこの「香油女」は、それゆえに福音の伝えられるところどこでも、イエスの唯一の理解者として語り継がれる。

 一方、弟子たちは「この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」とやっている。
 これは「義憤」というやつで、単に香油の高価さに目が惹かれているだけのことにすぎない。
 だが、取税人といい遊女といいこの弟子たちといい、分からないながらも救いを求めてイエスに付き従っていた。
 イエスは彼らをけっして拒まない。
 理解できるときが来るからだ。
 早いか遅いか、それは分からない。
 イエスはこう仰る。
 「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです」(マタイ20:16)

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[付記]
 初稿  :2007年7月31日(マタイ引用)
 第二稿:2008年8月21日 (初稿を大幅に修正:マタイ引用)
 今回も、かなり修正しました。マルコからの引用ということは、記事内容には影響していません。

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目を覚ましていなさい

 「まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。
この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
 気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。」(マルコ13:30-33)

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 イエスが語る黙示より。

 行ないは、文字を守り続けていることによって確からしさを確信できるが、恵みはそうではない。
 ある時恵まれ、そして救いを確信する。
 恵まれる前には、イエスの黙示にあるような大変な苦しみの日々を伴うことだろう。
 いつ、どのような形で恵まれるかは御父の主権であり、人はその恵みをただ待つのみである。
 だからこそ、救われるために、なおさら日頃、目を覚ましている必要がある。

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[付記]
 黙示を読み解くとか、そういう類の記事ではありませんので念のため。

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律法の大切さと身代わりの十字架

 「律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」
 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(マルコ12:28-31)

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 一番大切な律法について。

 ここでイエスが挙げた「主を愛せよ」、「隣人を愛せよ」は、十戒そのものではない。
 だが、十戒をきちんと含んでいる。完全に包含している。
 例えば「殺すな」は「隣人を愛せよ」、偶像礼拝禁止は「主を愛せよ」に、それぞれ含まれている。
 上の2つの律法は、数ある律法群のエッセンスとも言えよう。

 だから、イエスが挙げたこの2つの律法を、「いのち」を得るために、とことん行なってみるといい。いわば、行ないによる義である。
 できないということを、遅かれ早かれ悟ると思う。
 義人はひとりもいないのである(ローマ3:10)。
 律法を守ることができないということは、つまるところ、神の御前に罪人なのであり、律法に死んだのである。
 アダムの肉を持つ罪深い私たちは、律法によってはじめてその罪深さを悟る。(だからこそ、神の律法が大切なのである。)

 イエスが受肉して来られたのは、その罪人を救うためであり、ご自身の肉に罪を犯していないにも拘わらず極刑の十字架に死んで、私たちの身代わりに処分された。
 そして、その身代わりの死は承認されて復活し、私たちが罪人でありながら罪赦されるという道が切り開かれた。
 律法に死んだ私たちは、恵みによってイエス同様よみがえり、欲しかったものである「いのち」を、ここでいただけることとなる。
 それは、恵みによる義なのである。

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サービス

 「 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。
 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:43-45)


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 神の子イエスは、人間と同じ肉をまとってこの世に来られた。
 それはなぜだろう。
 「仕えられるためではなく、かえって仕えるため」、この罪深い人間にサービスするためだという。
 どのようなサービスかというと、「贖いの代価として、自分のいのちを与え」ることを通して、「多くの人」をその罪深さから解放する、そういうサービスである。
 神ご自身が犠牲になることで、人間を救う。
 このやり方、この道が、イエスの道なのだ。

 復活のイエスに出会って解放された人は、イエスが切り開いたこの道を自分も歩むことになる。
 他に選択肢はない。
 そうすると、しぶしぶではあっても、みなに仕える存在、みなのしもべとならざるを得なくなる。サービスせざるを得なくなる。
 そうなるのはイエスに出会ったことによる必然なのであり、単に聖書に書いてあるとおりに行ないとしてやってみよう、という類のものではない。
 もし行ないとしてやっていたら、これほど痛々しいことはないし、周りじゅうから偽善者呼ばわりされるだけだろう。

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 「どんなことでも、神にはできるのです。」

 「弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。
 金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」
 イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」(マルコ10:24-27)

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 神の国に入ること、分けても金持ちが神の国に入ることは、何と難しいことか。
 そうなると、弟子たちが言うように、一体誰が救われるのだろう。
 そこでイエスは、「どんなことでも、神にはできるのです。」と仰る。

 神の国にはいることは、多分、金持ちだろうがそうでなかろうが、難しい。
 ただ、金持ちが更に救いがたいのは、自分の救いなどよりも自分の財産の救いに気が行ってしまうからだろう。
 では、そのように救いを本心から求めない人には神のあわれみもないのであろうか。
 「どんなことでも、神にはできる」のであり、神はどんな人をも恵みによって救いに導くことがおできになる。
 神が恵むのであれば、金持ちですら救いに導かれて「いのち」を得る。
 恵みとはそのようなものであり、個々人の行ないや働きに応じて配分される業績評価のようなものではない。

 だから、どのような人も恵みによって救いに導かれ得る。
 ただ、「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。」、とあるように、恵みはあくまで神の側にイニシアチブがあるのである。

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切り捨てる

 「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。
 もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちにはいるほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
 もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」(マルコ9:43-47)

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 「いのち」(ここでは天の御国)に入ることとゲヘナに投げ込まれることの違い。

 「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。」と言うときの「つまずき」とは、何によって「つまずき」と判断されるのだろうか。
 いうまでもなく、律法である。
 律法に照らして手が違反するならば、その手を切り捨てよ、足なら足を、目なら目を、ということである。
 ここでは、手とか足とか目とか、そういう個々のパーツを言っているわけではない。
 なぜなら私たちは、どうじたばたしても、神の律法に照らしてその肉自体が違法なのである。
 それゆえ私たちは、いのちにはいるためには、この罪の肉全体を切り捨てる必要がある。
 そのことなしには「いのち」に入ることはできず、イエスによれば、そうではない方、すなわちゲヘナに投げ込まれてしまう。罪が切り捨てられていないからだろう。

 イエスは、極刑の十字架に架かって、文字通り死ぬという切り捨て方をしてみせた。
 そのお手本同様に、私たちは自身の十字架に死んで初めて、イエス同様復活して「いのち」に入ることができる。
 そしてそれは、恵みによりやってくるものであり、自分から求める類のものでは全くない。

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イエスの使命

 「さて、一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。
 それは、イエスは弟子たちを教えて、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる。」と話しておられたからである。
 しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。」(マルコ9:30-32)

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 弟子たちと共に過ごすのがもう長くないイエスは、自らの今後をはっきりと弟子たちに教える。
 「自らの今後」というよりは、「自らの使命」と言った方が適切か。
 ここでイエスは、ご自身の来られた目的を、はっきりと話している。
 「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる。」

 イエスは、罪なき肉を持つ人間として、この世に来られた。
 その肉が、人々によって切り裂かれ、殺される。
 それによって、罪深い人間の肉が、極刑として処罰されるのである。
 そしてイエスは人知れず復活し、そのことを信じる者は、肉の処罰による罪からの解放にあずかる。

 弟子たちは、イエスの言っていることが、このときは理解できない。
 理解できるとしたら、それは復活のイエスに出会って罪赦されたときだ。
 そしてそのことは、この弟子たちに限ったことではない。

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自分の十字架

 「それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。
 人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。
 自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。」(マルコ8:34-37)

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 私たちは、神の律法の御前に罪人である。
 どの程度罪が重いかというと、極刑の十字架にはりつけにされてしまう程なのだ。
 私たちはいつも、この重い十字架を背負い続けている。
 ところが、ほとんどの人は、そのこと自体に全く気付いていない。
 「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」というのは、自分が神の御前にそれほどの重罪人なのであるということに気付き、それで救い主イエスにすがりつくしかない、ということである。
 「さあ、イエスについてゆこう」とかいうものではない。

 イエスにすがった者は、ゴルゴダの丘でのイエス同様、死ぬ。
 そして、やはりイエス同様、よみがえる。
 死んでよみがえって、罪赦され、「いのち」に預かる。
 「いのちを失う者はそれを救う」のである。自分を捨てて初めて、自分が生きる。

 この「いのち」がなくては、見えない十字架の重みをこらえて全世界を手に入れたとしても、そんなものは天の御国ということについて全くの無価値だ。
 そして、この「いのち」は、売買できる類のものではない。流通していてお金でやりとりできるものではない。
 十字架に死ぬのは、イエスにすがった者の多くに働く神の恵み、また、そこから復活するのもまた、神の恵みによるのである。

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[付記]
 ほんじつの記事は、2008年12月24日付の記事を参考にしました。

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