父のみこころ

 「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」(マタイ7:21-23)

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 なすべきことはたったひとつ、「父のみこころを行う」ことである。

 父のみこころ、それは、悔い改めて父と和解することだ。
 このとき、ひとりの人が救われる。死んでいたこの人は「いのち」を得た。
 父がイエスを世に送った目的、イエスの十字架と復活のわざが、正にこの人に現れたのである。
 御父がお喜びになるのは、この救いなのである。

 一方で、主よと言う彼らの魔法ごっこについては、他人を助ける前にまず自分を救え、ということに尽きる。
 他人に目が向いているときには、自分の悲惨さには目がいかなくなる。
 自分から目をそらせていいかもしれないが、そうすると唯一の大切なことが見えなくなってしまう。
 この山上の説教は、全ての人が律法を守れず罪の下にあるというものだ。
 そして、自分の罪を自覚することが、救いへのスタートラインになる。
 この自分の罪を自覚したなら、もはや他人どころではなくなるだろう。

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 健やかな一日をお祈りします!

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イエスの狭き道

 「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)

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 世の道は広く、誰しもがそこを通ろうとする。
 みんなと同じように振る舞うのは、さしあたり楽なのである。
 流されるようにこの広い道を歩いていく。
 そこにイエスは、狭き道を切り開いた。
 十字架と復活の、いのちへと至る道だ。

 この狭き道に入る門は、目には見えない。
 だから探してもみつからない。
 この門は、自分から入る門ではない。
 いつの間に入らされ、気付くとこのイエスの道にいる。
 そして、イエスと同じく死とよみがえりとをくぐってゆくその先には「いのち」がある。

 そののちも、私たちはこの狭い道を通り続ける。
 世とは異なる原理で歩むため摩擦も多く、その道は険しい。
 広い道で流されていた方が、よっぽどいいようにも思える。
 だが、流されていたのではけっして味わうことのできない「いのち」のすばらしさが、何者にも代え難いのである。

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[一版]2013年11月 7日
[二版]2016年 1月11日
[三版]2018年 2月18日(本日)


 健やかな一日をお祈りします!
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何を求めるか

 「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。
 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:6-8)

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 「求めなさい。そうすれば与えられます。」は有名な聖句。
 かつての私はこれを、自分が欲しいものはなんであっても祈り願えば与えられると思っていた。
 しかしそれはとんでもない誤りで、そう解釈するとイエスの言葉は単なる御利益宗教に堕してしまう。
 それに、そう解釈すると、話の流れとして6節がなぜあるのかが分からなくなってしまう。

 イエスに願い求めるものは、聖なるものであり真珠である。
 これらを「いのち」と呼び直してもいい。
 ところが世はこれらを憎むかもしれない。ここでは犬とか豚に例えられている。
 豚に真珠が似合わないのではなく、豚は真珠を心底憎んで、踏みつけた上で持ち主にまで襲いかかる。
 聖なるものと世とは、水と油なのである。

 この世で生きづらい者、肉の不自由さに悩んでいる者は、イエスを求め捜せば、恵みによって誰でもイエスに出会うことができ、「いのち」を頂くことができる。
 これがイエスの約束であり、私たちは求め続ければ必ず救われる。
 求めているのは、生活上の些末なことやこの世のことではない。
 イエスとの聖なる出会いをこそ、私たちは求めているのである。

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[一版]2012年 2月 5日
[二版]2018年 2月17日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!
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他人のちり

 「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
 偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ7:3-5)

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 聖書とは何か。
 あえて短くまとめると、個人の魂を救済する書物となる。
 十字架のイエスを仲介者として、神と人との関係の回復を図ろうとする。

 この山上の説教は、どの人であれ、自身が罪人であることに気付かせるためになされている。
 そして、私たちのその罪深さを身代わりになって処分したのがイエスの十字架の業であり、その業が神に良しとされてイエスは復活した。

 私たち個人個人は、イエスが切り開いたこの狭き道に、たった一人で入らされる必要がある。
 自分で入るのではない。入らされる。
 この道を通り抜けて神に良しとされたとき、神-イエス-私という和解の関係ができあがる。

 この救いそれ自体は、他人も兄弟もない。すべてが個人の問題に帰結する。
 だから、他人の目のちりを云々する前に、私の罪(丸太)に気付くことが遙かに大切だ。
 第一、他人のちりは、自分の救いには関係ないのだ。
 そして他人の目のちりは彼自身が気付いて罪を認めるためにあるのだから、私が彼のちりを指摘するのは、ここでは要らぬおせっかいというか、それ以上に邪魔をしているだけになってしまう。

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[一版]2013年11月 4日
[二版]2018年 2月12日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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近代は物質を爆発的に増やしたが最も大切なものを忘れてしまった

 「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:31-33)

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 近代という時代は、頭による支配の時代だったのではないかと思い始めている。
 ルソーやヴォルテールらの思想はフランス革命の一因となり、建前の上では諸観念が政治原理となった。
 熱力学を用いてエネルギーを自在に操って、機関車という鉄の塊を自在に動かせるようになった。
 我らが頭は、まさに全能であった。
 農学は収量を大幅に増やし、それを加工して食べ物や飲み物は増産されていった。
 原油から合成繊維を作り出し、安価な服があふれんばかりに行き渡った。
 心配することなど何一つないではないか、なんでもある! 我らが頭の大勝利だ!
 心身共に消耗しきってぼろんぼろんになりながら、私たちは勝利の雄叫びを上げている。
 そして、神の国は忘れ去られた。
 たいへん大ざっぱなのだが、近代とはこのような時代だった。

 飲み食いの心配を駆逐したら、唯一大切なものが放擲されてしまった。
 そして、AIなどの登場により、私たち自身も放擲するぞと脅かされる。
 しかし、神の国とその義に満ち足れば、その人は、この頭の支配から外れて自然な営みをできるようになる。
 これがイエスの与える復活のいのちである。

 頭というのは、実は恐ろしく馬鹿なのではないかと、これも最近思い始めている。
 それは、頭は合理的なことしか理解できず、非合理的なこと(たとえば神など)を理解できないからだ。
 そして、近代において、頭は非合理の領域を追い出そうとしたので、人にとってより大切なものが忘れ去られてきた。
 進歩をよしとするこの近代は、ついに飽和しようとしているので、あるいは人々は神の国を求め出すかもしれない。

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(歴史などの個々の知識には間違いがあると思いますが、ご容赦下さい。)

 健やかな一日をお祈りします!
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あなたのうちの光

 「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」(マタイ6:22-23)

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 山上の説教より。

 「もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう」。

 「あなたのうちの光」。
 これが私たちの中で光放たなければ、この暗さは耐え難い。
 福音書の登場人物で言うと、ニコデモ、彼がこの暗さに絶望している。
 この点では、どの人もニコデモと大同小異だ。
 日々を忙しくして、この暗さを見ないようにしている人も少なくないだろう。
 しかし、どうごまかそうとも、私たちのうちの光は暗いのだ。
 暗く、絶望している。
 これは、魂についての問題であるから、頭による学問や愛玩動物の可愛らしさによってどうなるものでもない。
 そうでなくとも、あの物質主義が、私たちをこの暗さの淵に追いつめ続けているのだ。

 では、何が私のうちを照らすのであろう。
 「あなたのうちの光」、それは「いのち」だ。
 この「いのち」の光が、それこそ内側から輝く。
 そして、内側を照らすいのちの光が、私たちの魂をよみがえらせる。
 イエスは、この「いのち」を多くの人に与えるために、この世に来られた。

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[一版]2007年11月18日
[二版]2010年 5月 4日
[三版]2012年 1月15日
[四版]2013年11月 1日
[五版]2015年12月30日
[六版]2018年 2月 9日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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人を赦すことについて

 「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」(マタイ6:12-15)

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 主の祈りより。また、イエス自らによる解説。

 「私たちの負いめをお赦しください。」というのは、私たちの期待するところそのものである。
 自分ではどうにもならないこの肉の罪を、どうかお赦しくださいという、切実な気持ちについての祈りである。

 続いて「私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」とある。イエスの解説「もし人の罪を赦すなら、…。しかし、人を赦さないなら、…。」も、もっぱらこの部分についてのものだ。
 しかし、人を(または人の負い目を)赦すことは困難だ。
 簡単に赦すことのできることもあれば、到底赦すことのできないこともあり、その両者の区分けは人それぞれに異なると思うが、自分を侮辱したり貶めたり苦しみに遭わせた人を赦すことは、どの人にも困難を極めるだろう。
 だがイエスは、赦せ、と、できないことを言う。「人を赦さないなら」とまで言う。
 それゆえに、私たちは人を赦さなければならない。そうでないと、御父も私たちをお赦しにならない。

 言い換えると、人を赦すことのできない私たちは、御父の怒りの下にいるのである。
 私たちが「あの人を赦した」と思っていても、それは御父の赦しについての基準をはたして満たしているだろうか。
 その基準を満たす形で、私たちは人を赦さないといけない。
 ところがアダムの肉を持つ私たちは、律法を守ることがどうしてもできない。
 このことを頭で理解すること自体には、何の意味もない。
 律法の行いをつきつめていって、その律法に文字通り死んではじめて、律法が遵守不可能なことがわかる。
 このことを言い換えると、律法に死んだということである。
 それは、イエスの十字架、極刑の十字架に架かるのと同じことで、つまり、イエスと共に死に、イエスと共に復活することを意味する。
 その復活の際、ついに真の赦しが訪れる。
 律法を守れない私たちは義からほど遠いにもかかわらず、御父に赦されて義とみなされるのだ。
 律法に死んではじめて、律法とは別の原理による救いの道が開けてゆく。

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[一版]2015年12月27日
[二版]2018年 2月 4日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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