弱っていない人と弱っている人とではイエスは後者を憐れむ

 「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。
 あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
 そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。
 このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。
 また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。
 もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。
 それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」(マタイ18:10,12-17)

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 異邦人は汚らしいし、取税人も汚らしい。
 ところがイエスは取税人マタイやレビを召す。ちなみに、このことを書き記したのもまた、取税人マタイである(参/マタイ10:3)
 彼らは、99匹の側ではなく、1匹の側だった。
 この1匹は、99匹から見下げられ続け、憔悴し切っている。
 イエスは弟子に、あなたがたまでがその1匹をしいたげるなと、ここでそう言っている。
 イエスが救おうとするのは、この1匹だからである。この1匹は救いを求めている。
 一方、99匹には自覚がない。自覚がないから救いを求めていない。
 だが、その99匹の中からやがて1匹が迷い出ることがままあり、そのときイエスはこの1匹に手を差し伸べる。

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[一版]2016年 6月 5日
[二版]2018年 5月12日
[三版]2022年 6月26日(本日)

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誰が一番偉いかと競うのはしんどい割に何ももたらさない

 「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」
 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、
 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。
 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」(マタイ18:1-4)

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 大ベストセラー「星の王子さま」(サン=テグジュベリ)の主人公である王子さまは、数々の小惑星を巡る。
 その4番目の星は実業家の星で、私は有能な人間だと二言目には口をつく。
 「有能な人間だからな、私は」。
 「だが私は有能な人間だからな!」。
 この星をあとにして、「おとなってやっぱり、まったくどうかしているな」という思いが王子さまにこみ上げてくる(川野 万里子訳、新潮文庫版、pp.65-71)。

 それにしても、私たちは一体なぜ、「天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」とか、上の実業家のような有能自慢といった、他人と比べて秀でたところをことさらに求めるのだろうか。
 この問いに、イエスは小さい子どもを呼び寄せてこう応える。
 「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません」。
 もう少し踏み込むと、イエスを介して御父と和解するとき、私たちは子どもに変えられる。
 子どもに変えられるということは、人にとって何が大切なのかが変えられるということである。
 だから、だれが一番偉いかなんてどうでもよくなる。

 子どもに変えられて他人との比較をしなくなるので、この世にいても生きやすさと、それ以上に子どもらしい喜びがある。
 世の多くの人が仕事というか組織を中心に回っているが、私のような子どもは生を中心に回っている。希代の芸術家である岡本太郎も「闘いの人生を通過してきたのに、五歳のままであるというよろこび」(「自分の中に孤独を抱け」,p.54)と綴っている。
 このよろこびのない日々というのは死んでいる日々であり、死んでいる日々を嘆いたものがコヘレトの言葉(伝道者の書)である。よろこびとはコインの裏表に当たる。
 私たちは子どもに変わるのではない。子どもに変えられるのであり、このことを言い換えると、信仰はもぎ取るものではなく与えられるものである。

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信仰はあるかないかのどちらか

 「そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」
 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」(マタイ17:19-20)

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 イエスは言う。「からし種ほどの信仰」。
 つまりそれは信仰があるのである。
 信仰とはあるかないかのどちらかしかないからだ。
 たとえば「信仰が30%ある」というようなことはない。

 違う言い方をすると、信仰とは獲得するものではなく与えられるものである。
 罪を自覚し、背負わされた十字架を背負って死に至り、そしてよみがえって与えられる。
 このとき、私たちの内で、何かがごろっと大きく動く。まさに山が動いたのである。
 もしも実際の山をあちらに移動させるほどの力が欲しいのだとすれば、それは自分こそ神になりたいというのと同義になってしまう。
 そうではなく、信仰とはあんなにも離れていた神と和解して、自分をお造りになったこの神と共にあるということなのである。
 だから、信仰とは、あるかないか、御父と共にあるか御父から離れているかのどちらかなのである。

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[一版]2013年11月30日
[二版]2016年 5月22日
[三版]2018年 5月 5日
[四版]2022年 6月19日(本日)

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超不信仰なこの時代ですらイエスは個々に会いに来てくださる

 「イエスは答えて言われた。「エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。
 しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています。」
 そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた。」(マタイ17:11-13)

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 エリヤの時代も不信仰な時代だったという。
 北イスラエルは国を挙げてバアル信仰に傾倒していた。
(完全に忘れていたので、あんちょこで調べた。)
 しかし当時はまだ、信心が目的であることに違いはなかった。
 ところが、バステスマのヨハネの頃に時代が下ると、信心は目的ではなく手段に堕した。
 たとえばイエスは安息日についてパリサイ人から何度もつっかかられる。
 彼らパリサイ人は、律法の遵守が目的なのではなく、イエスを攻撃したいので、その口実に安息日の律法を利用しているにすぎない。
 それにしても、パリサイ人たちが安息日にパトロールして回るのは、はたして安息日遵守には違反しないのであろうか。

 この不信仰は、十字架と復活のイエスによって立て直された。
 多くの人が復活のイエスに出会って救われて魂が立て直されたのである。
 言い方を変えると、崩壊しかかっていた人の内側が秩序を取り戻す。
 元に戻るのではない。新しくなる。それも、一瞬にして立て直されるのだ。

 物質主義全盛の今は、カネというものが、もう、むき出しにして扱われている。
 カネこそ全てと信じて疑わず、ポストと利権のためなら嘘やだますこともためらわない。
 しかしそれでは人はひからびきってしまうのだ。
 だからこそ、イエスとそのイエスによる立て直しは今まで以上に大切だと思う。

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[一版]2018年 5月 4日
[二版]2022年 6月18日(本日)

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生きるために死ぬ

 「しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:23-26)

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 かつて教会に行っていた頃、自分はとても苦しかった。
 愛情の類にも飢えていた。
 だから私は、牧師にべったりと寄り添って離れなかった。この牧師こそ自分を助け出してくれるのだと。
 こうなると、その牧師にどんどん盲目的になっていく。
 ここから先は省略するが、この自分の経験から言うと、世に言う洗脳というのは、考えや思想の類を頭に刷り込まれることではなく、指導者への盲従に陥ることなのではないかと思う。
 まさに「神のことを思わないで、人のことを思っている」ということになる。
 言葉を換えると、これこそ偶像礼拝というのだろう。だからイエスは「下がれ。サタン」とペテロを叱った。

 つまり私は、自分が助かりたいので自分を守ろうとしていた。
 しかしイエスが言うことはその逆だ。
 「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです」。
 生きるためには死ぬのである。
 死ぬ、というよりは、死がやってくるのであり、死がやってくるということは、未だかつてない苦しみがやってくるということである。
 ここにいう死とは、もちろん十字架の死、それから三日目の復活のことである。
 この救いへの道筋を、神の子イエスが切り開いてくれたのだ。

 上に、大昔の自分のしょうもなさについて書いた。
 今もしょうもないことはたいして変わりはないのだが、かつて牧師に盲従したような依存心の類はきれいになくなった。
 では自立しているのかというと、それも違う気がする。
 依存とか自立とかというより、よみがえった私は内住の聖霊に突き動かされているのだと思う。

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[一版]2018年 5月 3日
[二版]2022年 6月12日(本日)

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求め続ければ救いの方からやってくる

 「すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。
 しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。
 しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。
 すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。
 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。」(マタイ15:22-28)

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 カナン人の女はイエスに食らい続け、ついにイエスに「あなたの信仰はりっぱです」と言わしめる。
 では、カナン人の女の信仰は、どういうところがりっぱなのだろう。
 「小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」という機知にイエスが感じるところがあったのだろうか。そうではない。
 めげずにどこまでもイエスを信じて求め続けたこと、これが信仰に至る型なのである。
 「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタイ7:7)とあるとおりであり、しかも彼女は異邦人であるから当初は無視されても、なりふり構わず求め続けた。
 このようにどこまでも求め続ければ、救いの方からやってくる。

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[一版]2016年 5月 4日
[二版]2018年 4月30日
[三版]2022年 6月11日(本日)

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神を利用するのか、神を信じるのか

 「すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
 弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。
 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
 イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。
 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
 そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。
 そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です。」と言った。」(マタイ14:25-33)

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 イエスはペテロに「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」と言う。
 では、ペテロは何を疑ったのだろうか。
 水の上を歩くことなどできやしないという疑いだろうか。
 もちろんそのことも含まれるが、ペテロはイエスを神の子とはまるで信じていなかった。
 そのことが、この件で図らずも明らかになったのである。

 ペテロはイエスの「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」ということばでは納得せず、かえって「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」と言い出す。
 これを言い換えると、イエスだったら証拠を見せろと試しているのであるから、一番弟子ペテロはイエスのことなどちっとも信じていないではないか。

 主よ主よ、と言い寄る者ほど単に助け出して欲しいだけで、神を神そのものとは認めていない。自分にもそういう時期は短くなかった。
 神が行う奇跡の部分だけを取り出して、その取り出した部分にだけすがっている。
 それは神を信じているのとは違う。神を利用としているだけでご利益宗教の形になる。
 そもそも、人が神を信じることはできない。神が分からないから、信じようがない。
 そうではなく、神が人に信仰を与えるのである。復活のイエスが会いに来てくださるのだ。
 だから、信仰とは、あるかないかのどちらかしかない。
 イエスは「信仰の薄い人だな」と言うが、知恵のある言い方だと思う。

 では、信仰のない者が信仰を持つ者になるには、どうしたらよいのだろうか。
 誤解されることを承知の上で書くと、罪の重荷に苦しみ果てることのように思う。
 罪とは神の律法を守れないことである。言い換えると神の敵とでもいおうか。
 自分が神の敵であることに苦しみ続けていると、やがて十字架と復活の主がその人の元を訪れ、神を神そのものと分かってこの神との和解に至る。
 もしも神が御利益の神だとしたら、なぜ律法というものがあるのだろうか。
 神に、水の上を歩かせてくれることをもっぱら求めるのであれば、その人は神を神としてとらえていないし、罪に苦しむ過程もまたないだろう。
 もっともペテロはお調子者だったから、それで「水の上」を言い出しただけかもしれない。

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[一版]2018年 4月29日
[二版]2022年 6月 5日(本日)

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