容疑者

 「殺してはならない。」(出エジプト20:13)

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 私たちは、日常の生活において人をあやめるということはない。
 万が一、過失によって人を殺すことはあるかもしれなくとも、殺そうと思って実際に殺してしまうことはまずない。
 しかし私たちの心の内には人を殺す心で満ちていて、と、話はつながっていくのだが、毎回はくどいので、その代わりに、河合隼雄 著「影の現象学」(講談社学術文庫)に引用された少女による詩を、ここで引用する。この詩を嫌がる人もいるだろうことを予めお断りしておく。


窓ガラスが割れている
そのわれがするどくとがっている
人が人を殺すごとき
そんな形にわれている
二つの影が(四文字不明)ている
一つの影は刃物を持っている
相手の影もせまっている
じっとみていると
今にもぬけだしてきそうだ
だんだん大きくなってくる
黒い影はとびだしてくるくらい大きくなった
ガラスが机の上におちている
それを拾ってにぎった
先がとがっている
不気味に光っている
殺せ
その先でのどをつけ
殺せ
戸のすきまから死の神がはいってきて
死ね死ねと叫ぶ
殺せ
            (pp.41-43)

 心も凍てつくダイレクトな質感とその高まりを感じるが、この詩で表現されているものは、実は自分の最も奥底のところに確かに存在するものだということに気付かされる。
 そうだとすれば、私の中には、大きく黒い影を殺せ、というものが、どうしようもなくあるのだ。 それを御父は、頭ごなしに「殺してはならない。」と押さえつけてくる。
 だから私は、一番奥底にあるこのものをひた隠しにしておびえながら生きることになる。容疑者として常に疑われている、と。

 しかしその容疑者の日々はイエスによって過ぎ去り、今は、おびえることもなく、上の少女の詩にあるものが自分の奥底にも確かにあることをあっさり認めている。
 神との和解は、自分自身との和解へと進むのである。

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[一版]2018年 8月24日
[二版]2019年 7月28日(本日)

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父と母を敬え

 「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」(出エジプト20:12)

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 出エジプト記の十戒より。

 この律法は自分にとって大変に難しく、接した当初より苦みを感じ続けていたものだ。
 両親とも死んで久しい今になっても、それは変わらない。
 どのようないきさつがあったのかをここに書くことはできない。
 父母を敬うのだったら、見も知らぬ老人に席を譲る方が、はるかにやりやすい。私は心を込めて、他人に席を譲る。

 このことが律法の上で何を意味するのかというと、もちろん、私が極刑に服しなくてはならないことの宣告であるのだが、イエスの御業を通して、今はこのこととは関係なく全体的にこころ安らかな生活を送っている。
 死んだ父母との和解ができたわけではない。それは不可能だろう。
 そうではなく、復活の主イエスを介して、御父が私と和解してくださったのだ。
 この私たちの御父は、イエスを介してすべてを赦してくださるのである。

 むしろ私が案じるのは、こういう人だ。
 「私はここに書いてあるとおり、十分に父母を敬っている。だから私には長寿が約束されているのだ!」

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[一版]2018年 8月23日
[二版]2019年 7月21日(本日)

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聖なる安息日

 「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。――
 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」(出エジプト20:8-11)

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 十戒より。

 休みの日、ある人は海や山で遊び、またある人は家で静かに過ごすだろう。
 教会に礼拝に行く人もいるだろう。
 働いている人も少なくないが、だいたいの人は職場が休みだから休んでいる。
 しかし、安息日は単なる休みと違って、聖なる日なのだ。
 すべてのものをお造りになった御父の七日目の安息、これを覚えよという。
 この日、私たちは神の創造の御業に感謝するのである。

 ところで私は、この天地をそこにあるものと思っている。
 そんな私が、創世記を読んでも、天地や人を神が作りたもうたということが腑に落ちることはなかった。頭で理解はしても、どこか遠い世界のおとぎ話のようにしか感じなかった。
 なぜなら、自分が生まれたときには、すでに天地はあったのだ。
 このように創造がピンとこないのだから、安息もまた分からない。
 この安息日という十戒の文言それ自体が分からないのだから、自分はなんと救われないことだろうか。
 いったい聖なる安息日というものはどのようなもので、どう過ごせばよいのだろう。
 いったい自分は、どれだけ創造主から断絶した存在なのだろうか。

 このように、律法は人に罪を気付かせる。その罪に苦しんだ果てに、イエスの十字架と復活を通して、この創造主との和解に至る。義と認められ、もう断絶はない。
 聖なる安息日を分からなくとも、そのときには赦してくださる。
 御父は人を創造し、人を赦してくださる。御子をさえ惜しまなかったのだ。
 それらすべての御業を覚えて、喜ぼう。

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神を信じるのか利用するのか

 「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。」(出エジプト20:7)

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 思うに、人はなぜ主の御名を唱えるのだろう。
 神は世界を造り人を造ったので、この神は世界を統御し、人の内面をもお分かりである。
 災害は人に神への畏れを生じさせ、悩み多いときには神に祈る。
 人が神の御名を唱えることは、ごく自然なことだ。

 では、御名を「みだりに」唱えるのはなぜなのか。
 これはパリサイ人を見ればよく分かることで、彼らは神の御名の下に好き放題やっていた。
 神を信じているというよりも、神の御名を利用していただけであった。
 そして、彼らの言動を非難したのが、神の子であるイエスであった。

 私たちも、時にこの過ちを犯す。
 たとえば、「主をなめるな」などと人に言う。
 これは昔自分が言われたことで、口をあんぐりと開けるほかなかったが、まあ、実際にこういう類のことをいう人はいる。「俺をなめるな」と言えばいいのに。
 これは、今でいうマウンティング?に御名を利用する形になる。

 御名をみだりに唱えるというのは、神を利用しようということである。
 御父と人との関係が、もはや逆転してしまっている。
 だから、「主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない」のだろう。
 しかし、この御父は、人との本来の関係が回復することを願って、それで御子イエスを遣わした。
 このイエスの十字架と復活に預かった人は信仰に至り、神を利用しようという発想は元からなくなってしまう。

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御父の怒りと救い

 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(出エジプト20:2-6)

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 出エジプト記の十戒より。

 ここで御父はご自身を「ねたむ神」と自己紹介している。「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」というほどのものだ。
 他の神々があって「主」というところの御父もいるとすれば、私たちは何故ことさら御父に仕え御父を信じているのであろうか。
 それは、私が御父を選んだのではなく、御父が私を見いだしてくださったからだ。「奴隷の家から連れ出し」て下さったのである。
 そうすると、仮に私たちが他の神々に仕え他の神々を拝んだならば、このねたむ神にとっては裏切り行為に映るだろう。偶像を作ること自体、御父への裏切りなのである。

 では、現代に生きる私たちが、御父以外の他の神に仕えていたり偶像を拝んだりしているだろうか。結論から言うと、私たちはあらゆる神々に仕え、すべての偶像を拝んでいる。
 物質主義(マモニズム)全盛の現代では、まず、金銭をはじめとする物質が最上位の神である。
 そしてそのために、自己啓発というものがある。自分をごまかし、他人をごまかす。そして人々は、この自己啓発という卑なる聖書を教典とするようになった。
 組織の論理や法令こそ律法だ、という人々も多くいる。彼らは、組織の中のみならず、生活の場に帰ってすら彼らの律法を周囲に適用する。
 テレビを見れば、数多くの偶像と、その偶像に酔いしれる人々を見ることができる。ちなみに、いわゆるスターが登場したのは、映画が普及した20世紀に入ってからのことだ。

 卑なる神、卑なる聖書、卑なる律法、卑なる偶像。これら本当には人を生かさないもの。
 近代合理主義のもとで、私たちはこういったものに仕え続けている。
 一方で、十戒をはじめとする私たちの律法は、とても簡単に守れるようなものではないのであり、そのことはイエスが山上の説教で言ったとおりである。
 ねたむ神は非なる神々に仕え続ける私たちを律法違反で罪深いとお怒りなのである。
 だが、律法に基づくこの怒りは、私たちの罪を白日の下にあぶりだすためのもので、むしろその人を生かすためのものなのだ。
 罪を罪と気付くことが救いのスタートラインであり、その先にはイエスの十字架と復活が待っている。

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[一版]2018年 8月21日
[二版]2019年 7月 7日(本日)

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