値なしの義

 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23-24)

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 すべての人が罪を犯している。罪の下にいる。
 人間はアダムの肉をもっている。
 それゆえ、神の御目に正しい(義しい)とは映らず、神の御前にはすべての人が罪深い( sin )。
 何をやったから罪だ( guilty )というよりも、そもそも罪深い(sin)存在としか神には認めていただけない。
 というより、罪深い(sin)存在であるがゆえに、神の律法に照らして、その行ないが罪(guilty)とされてしまう。
 「義人はいない」のである。
 それゆえ、この絶対的な存在である神から、栄誉も栄光も受けるには私たちははるか程遠い。

 だがここに、この悲惨な状況に置かれた人間を救う救いの手が、しかも神の方から差し伸べられた。
 それが、「キリスト・イエスによる贖い」である。
 イエスは、御自身もお持ちだった肉を十字架につけて処罰して死に、三日目に神によって復活する。
 それは、このイエスを信じる私たちのアダムの肉が神によって赦されるための、救いの御技だ。
 私たちは、この十字架のイエスを信じることによって、神の御前に義とされて、罪赦される。

 では、「信じる」とはなんだろうか。
 それは、「神の恵みにより」はじめて得られる営みだ。
 その神の恵みには、対価は全く要求されない。
 「価なし」である。
 いけにえもおこないも要求されない。
 値なしにもかかわらず神はその人を恵んでくださり、十字架のイエスを信じる信仰に進ませてくださる。
 人はその信仰によってのみ、義と認められて神と和解できる。

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[付記]
 ほんじつの記事は、過去2回出した記事に、更に修正を施したものです。
  [初 出」2008年9月15日
  [2回目]2009年8月23日 (加筆修正)

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割礼

 「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」
 ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。
 ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。」(ガラテヤ2:19-3:2)

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 割礼によって、その人は神と契約関係に入る。
 ところが、その大切な割礼についてパウロに言わせると、それを受けるとキリストとは無関係になる、そういうものなのだという。

 旧約時代、人々はみな割礼を受けた。
 だが、割礼を受けた人の中で誰か救われただろうか。
 なかでも救われなかった典型が、伝道者の書(コヘレトの書)を書かざるを得なかったソロモン王だ。
 そして、預言によって示されて、誰もがキリスト(メシア)を待ち望むようになった。

 罪深い私たちの肉と同じ肉をまとった御子イエスが世に来られ、その肉を処断するために十字架に架かられた。
 その処断、罪のあがないが認められて、イエスは復活する。
 この復活のイエスをキリストと信じるとき、この人は、イエスのこの道程と全く同じ道程を歩むことによって罪が贖われ、救われる。
 「神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました」というのは、だからもっともなことだ。
(「つけられました」は、現在完了形。)
 恵みによって、肉をイエス同様に十字架につけられた私たちは、肉を律する律法に死んでいるのである。

 そうすると、十字架につけられ律法に死んでいる私たちにとっては、かつて神との契約として行っていた割礼にも死んでいる。
 そもそも罪とは、神の律法によって規定される。
 だが、もともとその律法を守りきれない私たちのその罪がイエスの十字架と復活によって赦されたのであるから、割礼についてももちろん同様なのである。

 踏み込んで書けば、新約時代の割礼とは、「十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示され」るということなのだ。
 それが、恵みによる新しい神との契約である。
 ガラテヤ人が復活のイエスに出会っているにもかかわらず、割礼を受けようとする。
 それで、「ああ愚かなガラテヤ人」となってしまう。
 本当に復活のイエスと出会っていれば、迷いようがない。
 イエスの十字架によって、割礼が既に過ぎ去ったものだということが分かるはずだからである。

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[お断り]
 ほんじつの記事は、過去2回出した記事に、更に修正を施したものです。
  [初 出」2008年1月16日
  [2回目]2009年8月 8日 (大幅に加筆)

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受洗するイエス

 「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。
 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:13-17)

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 イエスとは、受肉した神の子である。
 人間と同じ肉、アダムの肉で覆われた神の子である。
 アダムの肉で覆われているが、人間のどうしようもなさとは異なって、罪を犯さない肉なのである。
(ここで罪とは、もちろん律法に照らしている。)

 ところでヨハネが水のバステスマを授けているのは、罪の赦しを与えるためである(ただ、それは、イエスが後に授けるバステスマの型でしかない)。
 そこに、罪のないイエスがこられて、なんとヨハネから水のバステスマをお受けになった。
 罪がないにもかかわらず、自ら罪のある身として受洗する。
 言い換えると、神の子イエスは罪深き人間と同じ地点に立ってくださった。 こうしてイエスの十字架への道が始まったことを、天はお喜びになる。

 そういうわけで、人間が肉を持つ故の苦しみ悲しみ辛さを、イエスが身をもってご存じであり、神の子イエスは、私たち人間の罪深さをよく分かってくださっているのである。
 イエスはそれゆえに、私たちの戸の外に立って、今も叩いてくださっている(黙3:20)。

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主の懲らしめ

 「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。
   「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。
    主に責められて弱り果ててはならない。
    主はその愛する者を懲らしめ、
    受け入れるすべての子に、
    むちを加えられるからである。」
 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」(ヘブル12:4-8)

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 上の聖書箇所に書いてある「抵抗」、「懲らしめ」は、旧約聖書でのヨブ記と同じ類のものである。
 ただ、ヨブ記のように、試練の後に財産が2倍になるとかいうことはない。
 この回心の際に苦しみに苦しみ抜いて、そうして復活のイエスに出会って「いのち」を頂くのである。

 「罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」というのは、正にその罪から解放されるためには、このことがどうしても必要なので、ここに書かれている。
 とはいっても、それは主がむちを打たれるのであり、自分の希望や意志でどうこうできる類のものではない。
 これは広い道ではなく、狭き十字架の道なのだ(マタイ7:13-14)。

 「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)

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『知る』と『信仰』

 「それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。
 信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」(マルコ16:15-16)

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 復活のイエスの教え。

 なぜ福音を、全世界にくまなく宣べ伝えるのか。
 ある者は受け入れるが、ほとんどの者は拒絶する。
 それはどちらでもよい。
 福音を耳にした、ということ自体が、その日、その時にとって大切な証拠となる。
 「信じない者は罪に定められ」るためである。

 また、「信じてバプテスマを受ける者」とあるが、ここでいうバステスマとは、水で全身を浸したり、ちょっと水をぱしゃぱしゃ掛けるような、いわゆる「水のバステスマ」ではないことが明らかである。
 仮に「水」だとすると、人々を罪から救うのは、イエスではなくバステスマのヨハネということになってしまうからだ。
 だから上の聖書箇所にいうバステスマとは、聖霊のバステスマと呼ばれているものである(参/マルコ1:7-8)。

 福音を知ること、受け入れること自体は、宣べ伝えられれば簡単だ。
 だが、それと信仰とは全くの別物で、信仰とは復活のイエスからのバステスマを授かるかどうかという神の恵みにかかわってくる。
 言い換えると、信仰とは与えられものだ。
 福音を知った人は、恵みによって与えられるまではただ、受け入れ態勢を整えて続けておくのである。

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絶望するイエス

 「さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。
 そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。」(マルコ15:33-34)

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 絶望するイエス。

 この叫びのすぐ後にイエスは息を引き取っているので(37節)、イエスの絶望は、人間がそうであるように、死から逃れられないことに由来するのかも知れない。
 肉を持つイエスは、死の恐怖から逃れることができないのだろう。
 裏切られる神。絶望する神。死におののく神。

 「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブル4:15新共同訳)

 「わたしたちと同様に試練に遭われた」神、それが、肉を持つイエスの本質である。
 神の側から人間の立場に立って、人間というものを身をもって体験された。
 だからこそ、私たち弱き人間、罪深き人間を理解してくださり、しかもあわれんでくださる復活のキリスト・イエスは、罪からの釈免を与えて「いのち」を恵んでくださるのである。
 言い換えると、裏切りや十字架刑のない恵みというものは、イエスが受肉した意味がないので考えづらい。両者は、コインの両面のようなものなのだ。

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信仰とは

 「道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。
 十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」
 また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。
 キリスト、イスラエルの王さま。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。」(マルコ15:29-32)

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 死の間際まで人々にののしられ続けるイエス。
 イエスは極刑を執行されている身としての、当然受けるべきことを受けている。
 まさに、肉を極刑によって処罰しきってしまおうというわざなのだ。

 「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」というのは、自分の利益だけを求めようとするご利益宗教の見方であり、イエスを信仰することとは全く異なる。

 また、祭司長達は言う。「たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら(イエスをキリストと)信じるから」。
 この人たちにとって、信じるとか信仰というのは、一体なんなのだろうか。
 もっとも、彼らは既得権益を守るためにやっていることなので、彼らに何かを期待する方が間違いだろう。

 信仰とは、今こそ十字架上のイエスが作り上げようとしているものである。
 アダムの肉に身代わりの処罰を与えた上で、よみがえって「いのち」を与えるのである。
 信仰とは、だから、「ある」か「ない」かのどちらかなのだ。
 十字架のイエスに出会ったか、そうでないか。
 私が最初に行った教会の牧師は、「信仰は螺旋階段」と言っていて、当時の自分はいたく感心したものだが、実は螺旋階段(だんだんに信仰が増す)などではない。
 むしろスイッチだ。しかも、そのスイッチは自分で入れることはできず、恵みによってキリストが入れてくださるものだ。

 そうすると、イエスに祈り求めることは、このスイッチを入れてくださること、イエスと出会うことだけ、といっていい。
 「いのち」へのスイッチを入れてくださるからこそ、この十字架のイエスはキリスト(救世主)なのである。

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「嘲弄される神

 「それで、ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した。
 兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。
 そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、
 それから、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と叫んであいさつをし始めた。
 また、葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。
 彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。」(マルコ15:15-20)

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 十字架刑の決まったイエスがローマ兵の侮辱に遭う。

 イエスは神、それも肉をまとった神であるから、私たちの日常での苦しみを、よくご存じであられる。
 上の聖書箇所で、イエスは異邦人のローマ人から嘲弄されている。ユダヤ人からではない。
 汚れた存在だとユダヤ人が日頃忌避している連中が、イエスを侮辱するのである。

 肉を持った神・イエスは、そのような屈辱をも体験されているから、私たちがこのような目に遭う時でも、私たちの気持ちを手に取るように理解されるお方なのだ。
 人に理解されるのと神に理解されるのとでは、択一ならばどちらの方が心強いだろうか。

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意志と肉

 「すると、ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」
 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」
 ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った。」(マルコ14:29-31)

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 「ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」と強弁するペテロ達。

 この後、イエスの予告通り、ペテロは「わたしを知らないと三度言」う。
 イエスと心中する覚悟であっても、いざその場になって詰問されると、イエスを知らないとペテロは言う。

 これは、お調子者ペテロに限った話ではない。
 このペテロの立場に置かれたとき、私たち全てがペテロと同じようにイエスを知らないと言うのである。
 それは、意志とは別の、アダムの肉の性質だからである。俗に言う「我が身かわいさ」というものだろうか。

 イエスは、このアダムの肉、神に逆らうこの肉に赦しを与えるために、極刑の十字架に架かる。
 罪のない自らの肉に十字架という処罰を与えることで、私たちの罪深い肉にも処罰を既に与えたものとみなすことができるようになるためである。

 イエスはここで、ペテロ達をとがめてはいない。
 ペテロが「あなたを知らない」とやらかしても、人間の肉とはそもそもそういうものであり、その肉に赦しを与えるために十字架という杯を飲むのだ、そうイエスは思っていたのではないだろうか。

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