イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
最も大切なこと
「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。
そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。
私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。
そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」(1コリント15:3-10)
---
パウロが言う「最も大切なこと」、わけても復活について。
ペテロ(ケパ)は、復活のイエスに出会った。
十二弟子は、復活のイエスに出会った。
そして「最後に」パウロも、復活のイエスに出会った。
復活のイエスに出会ったパウロは言う。
「神の恵みによって、私は今の私になりました」。
つまりパウロは、変わったことを自覚し告白する。
何が変わったのだろう。教会を迫害する立場から教会を組織、指導する側へと変わったということだろうか。
では、なぜ教会を組織、指導し、また、それ以前に、「最も大切なこと」を伝えるために全世界を駆け回るのだろうか。
それは、「最も大切なこと」がパウロに根本的な変化をもたらしたからである。
この根本的な変化というのを復活と呼んでもよいし、罪の赦し等、救い等、種々のことばがある。
では何が「最も大切なこと」なのかというと、上に長々と書かれているのだが、つまるところ、復活のイエスとの出会いである。
イエスが死ぬ前、ペテロをはじめとする弟子たちは、誰一人としてイエスを信じていない。
ところが、復活のイエスとの出会いによって、ペテロが、十二弟子が、ヤコブが、そして迫害者パウロが理屈抜きに信じた。
(参/使9:3-19)
一方、この手紙「コリント人への手紙第一」の読み手は、復活のイエスに出会ってはいない。彼らは、信じたいからこれを読んでいる。
パウロは、復活のイエスとの出会いについて、「最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました」と書いている。
各福音書の終わりにあるように、ペテロを初めとする十二弟子達は、復活のイエスに直接に出会った。
同様に、イエスは迫害者パウロにも直接にお会いになった。
復活のイエスに直接出会うというのは、これが「最後」となる。
だが、私たちには聖書が遺されている。
この聖書には「最も大切なこと」が記されている。
どこ、と特定することはできない。
上の引用聖句も、ここが大切なのだ、とマーカーを引いたりするような箇所ではない。
大切なことは、聖書のどこにも記されている。
だが、本当に必要な箇所は、たったの一行にすぎない。
その時その人ごとに、その一行が明らかになる。
そんな一行に突き当たった時こそ、復活のイエスとの出会いである。
そしてこの出会いは、その人に根本的な変化をもたらす。
イエスの弟子たちが証人だ。
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また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。
そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。
私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。
そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」(1コリント15:3-10)
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パウロが言う「最も大切なこと」、わけても復活について。
ペテロ(ケパ)は、復活のイエスに出会った。
十二弟子は、復活のイエスに出会った。
そして「最後に」パウロも、復活のイエスに出会った。
復活のイエスに出会ったパウロは言う。
「神の恵みによって、私は今の私になりました」。
つまりパウロは、変わったことを自覚し告白する。
何が変わったのだろう。教会を迫害する立場から教会を組織、指導する側へと変わったということだろうか。
では、なぜ教会を組織、指導し、また、それ以前に、「最も大切なこと」を伝えるために全世界を駆け回るのだろうか。
それは、「最も大切なこと」がパウロに根本的な変化をもたらしたからである。
この根本的な変化というのを復活と呼んでもよいし、罪の赦し等、救い等、種々のことばがある。
では何が「最も大切なこと」なのかというと、上に長々と書かれているのだが、つまるところ、復活のイエスとの出会いである。
イエスが死ぬ前、ペテロをはじめとする弟子たちは、誰一人としてイエスを信じていない。
ところが、復活のイエスとの出会いによって、ペテロが、十二弟子が、ヤコブが、そして迫害者パウロが理屈抜きに信じた。
(参/使9:3-19)
一方、この手紙「コリント人への手紙第一」の読み手は、復活のイエスに出会ってはいない。彼らは、信じたいからこれを読んでいる。
パウロは、復活のイエスとの出会いについて、「最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました」と書いている。
各福音書の終わりにあるように、ペテロを初めとする十二弟子達は、復活のイエスに直接に出会った。
同様に、イエスは迫害者パウロにも直接にお会いになった。
復活のイエスに直接出会うというのは、これが「最後」となる。
だが、私たちには聖書が遺されている。
この聖書には「最も大切なこと」が記されている。
どこ、と特定することはできない。
上の引用聖句も、ここが大切なのだ、とマーカーを引いたりするような箇所ではない。
大切なことは、聖書のどこにも記されている。
だが、本当に必要な箇所は、たったの一行にすぎない。
その時その人ごとに、その一行が明らかになる。
そんな一行に突き当たった時こそ、復活のイエスとの出会いである。
そしてこの出会いは、その人に根本的な変化をもたらす。
イエスの弟子たちが証人だ。
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