王様ごっこ

 「そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。
 それから、総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの回りに全部隊を集めた。
 そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。
 それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」
 また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。
 こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。」(マタイ27:26-31)

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 総督ピラトの命令は、イエスをむち打てというものだ。
 ところがその総督直属の兵隊は、官邸の中でイエスをどう扱っただろう。
 見えないところで彼らがイエスにやったことは、王様ごっことも言うべきからかい、侮蔑であった。
 ボスが見ていないところでは、人は何でもするものである(参/マタイ24:45-51)。
 それにしても、王様ごっこなんてよくも思いつくものだと思うのだが、そういうことにばかりくるくると頭の回る奴というのも少なくない。
 こういうことは今の世においても変わるところはないから、総督が無能だったというよりも人の営みの常なのだろう。
 今にも十字架に架かろうというイエスは、この営みを無言で照らし続けている。

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しっぺ返し

 「ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」
 だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けた。
 そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」
 すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」(マタイ27:22-25)

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 ここで「十字架につけろ」とか「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」と叫び続けた人々は、少し前にはイエスを「ホサナ!」と持ち上げていた民衆である(マタイ21:9)。

 日本のことわざにいう「長いものに巻かれろ」というやつで、その場での有利・不利だけで行動している。
 このピラトの法廷では、指導者層であるサドカイ人・パリサイ人に従っている方が、民衆たちにとって明らかに有利なのだ。
 そうやって行動していれば、確かにこの世でやってゆくのはだいぶ楽だろう。
 だが、この「長いものに巻かれろ」という行動原理は、いわば広い道であり、滅びに至る門にほかならない。
(「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。」マタイ7:13。)

 なによりも、イエスが歩んだのは十字架への道という狭い道である。
 この道を歩むことでしか、本当の生はない。
 死んで、復活に生きるのである。
 その時々の損得だけで動いていると、復活に至るための死の間口にすら、そもそも行き着かないのではないか。

 このような損得だけで動いている連中にしたたかしっぺ返しを食らうとすれば、それは自分が十字架への狭い道の途上にいることの明らかなサインであるから、むしろ喜ぶべき事に違いない。
(「喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」マタイ5:12)
 イエスも十字架への道の途上、民衆からしたたかしっぺ返しを食らったのだ。

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[一版]2010年 9月23日
[二版]2014年 1月19日(本日)

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『あなたを知らない』と言い張ることについて

 「そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。
 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」
 すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」
 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
 ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。」(マタイ26:31-35)

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 お調子者ペテロは、ここで「あなたを知らないなどとは決して申しません」とイエスに言いつつも、いざその時になると知らないと言い張る。そして、鶏が三度鳴いて気付いたペテロは「激しく泣いた」(マタイ27:69-75)。

 上の聖書箇所で、イエスは「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」と言うが、これはイエスに予知能力があるというよりは、人間の肉の弱さへの深い理解なのではないだろうかと思う。
 つまり、イエスの神性が顕れた、という以上に、罪深い肉を持つ人間へのイエスの深い理解が示された。
 その肉の罪深さから開放するために、十字架への道をイエスは歩み続ける。

 ペテロのお調子者ぶりは、そのままペテロの肉の弱さである。そしてそれは、私たち人間がみな持っているものだ。
 公衆の面前で「イエスを知っている」と言ったら、捕まって尋問され鞭打たれるに決まっている。それは怖い、すごく怖い。
 その肉の弱さに気付き、悔いて激しく泣くペテロは、言ってみれば、自分のどうしようもなさを悔いている。
 一方で、イエスを十字架へとおびきよせているサドカイ人、パリサイ人そして律法学者たちの罪に対するあまりの無自覚ぶりが、ペテロと対比されて強調されてゆく。
 彼らは、自分たちが律法をしっかりと遵守できているなどと思っている。自分の肉の弱さなど、思い至ったこともないだろう。

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[一版]2010年 9月18日
[二版]2014年 1月13日(本日)

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古い神殿と新しい神殿

 「さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える偽証を求めていた。
 偽証者がたくさん出て来たが、証拠はつかめなかった。しかし、最後にふたりの者が進み出て、
 言った。「この人は、『わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる。』と言いました。」(マタイ26:59-61)

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 大祭司邸にて。

 イエスは多分、かねがね言っていたと思う。
 「わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる。」
 神殿、ということばの解釈問題なのだが、この私刑状況ではまともに取り合ってもらえるはずもない。
(付言すると、イエスの道にある者は、このような私刑にも遭う。あらゆることに遭う。)

 神を崇める、ということについて、今までのパリサイ人や律法学者は律法を文言解釈した上でそれをすべて遵守すれば足りる、という考え方であった。イエスの山上の説教とは対照的である。
 ときにはその律法をねじまげることも平気でやった(マルコ7:10-12)。
 これでは、崇めるどころか、自分の利益のためにかえって神を利用しているだけで、御利益宗教にすぎない。
 彼らのとっての神は、自分の幸福や御利益のために都合よく働いてくれる全能の僕になってしまっている。
 そうではなく、神は私を造り全宇宙を造りすべてを統べ治められているお方である。
 だから、今までのこの御利益主義の神殿は、壊さなくてはならなかった。

 イエスが三日で建てた神殿というのは、そういうものではない。
 恵みによって与えられた「いのち」を与えられて、それで神を崇める、そういう本来的な神殿である。
 なぜ神を崇めるのかというと、「いのち」への感謝にほかならない。
 御子は肉を十字架に張りつけてこの肉を殺し、御父によって三日目に復活する。
 罪が宿る肉に赦しを与えるイエスのこの業が、三日で成し遂げられた。
 そして私たちは、恵みによって、このイエスの業に預かることがかなう。それが有り難くて神殿で御父をあがめるのである。

 罪に気付くことなく御利益宗教をやっていた古い神殿はイエスによって壊され、罪の赦しが恵みによって与えられて神を崇める本来的な神殿が三日で建て直された。

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[一版]2010年 9月20日
[二版]2014年 1月12日

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肉をまとうイエス

 「それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:37-39)

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 ゲッセマネの祈り。

 十字架でのはりつけを前に、もだえ苦しむイエス。
 この十字架という杯は、御父の命令、みこころだ。

 イエスが単に神の子というのであれば、御父に淡々と従い、もだえ苦しむことも、また泣き悲しむこともなかったろう。
 だがこの時点でのイエスは十字架を前に、私たちと同じようにもだえ苦しみ、泣き悲しむ。
 それはイエスが神の子というのみならず、私たちと全く同様に肉を身にまとった弱い身であったということである。
 だからイエスと私たちとの最大の接点は、この肉、それも弱い肉というところにある。
 それでイエスは、私たちアダムの肉にまみれた弱き人間のことをよく分かっていて、今も思いやり深く接してくださる(参/ヘブル4:15)。

 そのイエスは、これから十字架という杯を飲みほし、身代わりの処罰を受けることとなる。

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[一版]2008年 8月25日
[二版]2014年 1月 4日(本日)

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肉と血

 「また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
 また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」(マタイ26:26-28)

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 俗に言う最後の晩餐。正餐式の根拠。
 正餐について自分は書く立場にはない、と思いつつ。

 イエスはパンに肉を、杯に血を、それぞれ象徴させる。
 肉と血。
 肉というのは、人間(アダム)の罪深い肉の性質のことで、端的に罪、と要約できるだろう。
 罪のない肉は、イエス以外にはない。すべての人が、律法の前に、すなわち神の御前に罪人である。
 また、血について、イエスは「罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」と宣言している。
 つまり、血とは多くの人にとっての赦しである。
 何を赦すのかというと、肉を赦す、つまり肉が宿す罪そのものが神によって赦されるのである。
 
 肉と血は、だから一対のものである。
 罪とその赦し、そのペアがパンと杯に象徴された。
 イエスは最後の晩餐でこの福音の本質を明らかにし、その上で十字架のわざを完遂しようとしている。

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[一版]2010年 9月12日
[二版]2014年 1月 3日(本日)

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裏切りについて

 「確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」
 すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ。」と言われた。」(マタイ26:24-25)

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 なぜユダがイエスを裏切ろうと思ったのかは、私には全く分からない。
 ともかく、ユダはイエスを売り渡した。
 かねてよりイエスは、自身がパリサイ人たちに引き渡されて十字架に架けられることを弟子たちに言っていたが、まさかその弟子ユダの裏切りによってそういうことになるとは。

 この裏切りは、人間の肉をもつイエスに大きな動揺を与えた(ヨハネ伝では、そのことがより明確である)。
 人が人を裏切る。
 これは世においてしばしばあることであり、その都度大きな動揺が引き起こされる。ときには、そのことで刑事事件が起こることも少なくない。
 自分の経験からしても、裏切られるというのは、もっともつらい。
 神の子イエスですらこの裏切りに遭い、しかも私たち同様(あるいはそれ以上に)に身もだえする。

 イエスも同じ目に遭ったのだだから私たちもそのイエスを思って耐え忍ぼう、と言うつもりはない。
 また、このようなときこそ信仰が試されている、などと言うつもりもない。信仰とは、あるかないかのどちらかしかない。あったりなくなったりというのは、信仰ではない。
 むしろ、神の子イエスですら身もだえするほどのこの辛い感情を肯い、イエス同様「人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」とする方が自然な姿のような気がする。
 そして、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」(ローマ12:19)と仰る御父にお委ねしよう。イエスもそうだった。

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香油女

 「さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられると、ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」
 するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
 この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。
 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」(マタイ26:6-13)

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 イエスに香油を注いだ女性の名は、まったく不明だ。
 それなのに、福音の伝わるところ、この女性のしたことも伝えられ、それが彼女にとっての記念になるとイエスは仰る。

 ところでイエスは、すべての人々の無理解の中にいた。
 だが「香油女」、彼女は唯一、イエスを理解していた。
 イエスがキリストであり、多くの人々を救う十字架の道にいよいよ就くのだということを。
 それで、「埋葬の用意をしてくれた」。
 香りで死臭を消すための、まさに埋葬用の香油だ。
 バステスマのヨハネですら、イエスを疑った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」(マタイ11:2-3)と。
 だから「香油女」は、福音の伝えられるところどこでも、イエスの唯一の理解者として語り継がれるのである。

 一方弟子たちは、「この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」とやっている。
 これは義憤というやつで、単に香油の高価さに目が惹かれているというだけのことだ。
 だが、取税人といい遊女といいこの弟子たちといい、こういう人々が分からないながらも救いを求めてイエスに付き従っていた。
 イエスは彼らをけっして拒まない。
 分かるときが来るからだ。
 早いか遅いか、それは分からない。
 イエスはこう仰る。
 「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです」(マタイ20:16)。

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[一版]2007年 7月31日
[二版]2008年 8月21日
[三版]2010年 9月 5日
[四版]2014年 1月 1日(本日)

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