イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
聖別
「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。
彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。
わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。
あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。
わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。
わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。
それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」(ヨハネ17:14-21)
---
わたしたちは、イエス同様「この世のものでは」ないにもかかわらず、この世でやってゆく。
イエスは、「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。」と御父に言っている。
ちなみに、ここでいう「悪い者」とは、傷つけ損ねる者というより、誘惑し堕落させるものではないだろうか。
さて、イエスはこれから十字架に架かって自らを聖別なさる。
そのことによって初めて、わたしたちは真理によって聖別される。
ここで「真理」というのは、「御霊」とか「聖霊」とか、まあ言い方は何でもいい。
ともかく、割礼という肉を傷つけるやり方はイエスが徹底化させて終わらせた。
そして、そのイエスが与えるもの、「みことば」が私たちを聖別する。
聖書がわたしたちを聖別するのである。
あるとき、恵みによって、聖書の中のどれかのみことばが飛び込んでくる。
それが聖別である。
アウグスティヌスの「告白」に詳しい。
聖別によって、この世のものではない私たちを聖いものとして取り分けてくださる。
この聖別は、外見が変わるわけではないので、他人からは分からない。
だがその人は、この世にあって、御父と御子との交わりの中にいるのである。
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彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。
わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。
あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。
わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。
わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。
それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」(ヨハネ17:14-21)
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わたしたちは、イエス同様「この世のものでは」ないにもかかわらず、この世でやってゆく。
イエスは、「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。」と御父に言っている。
ちなみに、ここでいう「悪い者」とは、傷つけ損ねる者というより、誘惑し堕落させるものではないだろうか。
さて、イエスはこれから十字架に架かって自らを聖別なさる。
そのことによって初めて、わたしたちは真理によって聖別される。
ここで「真理」というのは、「御霊」とか「聖霊」とか、まあ言い方は何でもいい。
ともかく、割礼という肉を傷つけるやり方はイエスが徹底化させて終わらせた。
そして、そのイエスが与えるもの、「みことば」が私たちを聖別する。
聖書がわたしたちを聖別するのである。
あるとき、恵みによって、聖書の中のどれかのみことばが飛び込んでくる。
それが聖別である。
アウグスティヌスの「告白」に詳しい。
聖別によって、この世のものではない私たちを聖いものとして取り分けてくださる。
この聖別は、外見が変わるわけではないので、他人からは分からない。
だがその人は、この世にあって、御父と御子との交わりの中にいるのである。
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仲介者イエス
「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。」(ヨハネ17:6)
---
イエスの祈り。
イエスは、神とわたしたちとの間の仲介者である。
神の基準である律法を遵守できない私たちに、それとは異なる新しい基準「イエスを信じる」によって救いをもたらす。
「彼らはあなたのみことばを守りました」。
彼ら、すなわち弟子たちは、神のみことばなど守ってはいない。
だが、仲介者イエスは「みことばを守りました」と、父なる神に取りなすのである。
律法を遵守していないのに、遵守したとみなされる。
義ではないにもかかわらず、義と認められる。
仲介者イエスを信じることが、この信仰義認をもたらすのである。
この弟子たちは、もとから神が「世から取り出し」た人々であった。
そのことは、この時点では自分たちにもまだ分からない。
だが、仲介者イエスを信じることのできたときに全てが分かる。
そのときには、わたしたちは世からは取り出され、神のもの、イエスのものなのだと悟るのである。
「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ローマ14:8)
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イエスの祈り。
イエスは、神とわたしたちとの間の仲介者である。
神の基準である律法を遵守できない私たちに、それとは異なる新しい基準「イエスを信じる」によって救いをもたらす。
「彼らはあなたのみことばを守りました」。
彼ら、すなわち弟子たちは、神のみことばなど守ってはいない。
だが、仲介者イエスは「みことばを守りました」と、父なる神に取りなすのである。
律法を遵守していないのに、遵守したとみなされる。
義ではないにもかかわらず、義と認められる。
仲介者イエスを信じることが、この信仰義認をもたらすのである。
この弟子たちは、もとから神が「世から取り出し」た人々であった。
そのことは、この時点では自分たちにもまだ分からない。
だが、仲介者イエスを信じることのできたときに全てが分かる。
そのときには、わたしたちは世からは取り出され、神のもの、イエスのものなのだと悟るのである。
「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ローマ14:8)
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「あなたからいただいたすべての者
「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。
それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17:1-3)
---
イエスの祈り。
イエスを知るとは、十字架で葬られて復活したイエスと出会うということである。
救い主イエスの存在自体は多くの人に知られている。
だが、イエスが「永遠のいのち」をお与えになるのは、「あなたからいただいたすべての者」だ。
この選びを、恵みという。
「あなたからいただいた」者がどれくらいの割合なのかは、誰にも分からない。
ごくごく一部かもしれないし、およそ全ての人かも知れない。
ともかく、恵みによる選びということをイエスは明言している。
恵み、ということは、行いやわざによる選びではないということだ。
恵みにより選ばれた人々は、すべてもれなく救われ、イエスと出会って「永遠のいのち」を得る。
イエスは、肉を極刑で処分し、それが認められてよみがえったお方である。
このイエスを信じることができれば、その人はイエスが処分したのと同じ肉から救われる。
一方、行いやわざを行う人間の肉は、救われるべき対象そのものである。
そうすると、救われるべき対象を駆使することによってその対象が救われよう、ということになる。
しかしそれは、古い約束であり、過ぎ去った過去のことである。
また、わざによっては、誰一人救われない。
神の求める基準が高いからだ。
その基準の高いわざは、十字架のイエスが代行してなして下さった。
あとは恵みによってそのイエスと出逢えるかというのが、救いについての新しい約束である。
この新しい約束とは、いわゆる信仰義認である(ローマ3:20-24)。
ただ、 「あなたからいただいた」者がどれくらいの割合なのかは、誰にも分からないだけなのである。
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それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17:1-3)
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イエスの祈り。
イエスを知るとは、十字架で葬られて復活したイエスと出会うということである。
救い主イエスの存在自体は多くの人に知られている。
だが、イエスが「永遠のいのち」をお与えになるのは、「あなたからいただいたすべての者」だ。
この選びを、恵みという。
「あなたからいただいた」者がどれくらいの割合なのかは、誰にも分からない。
ごくごく一部かもしれないし、およそ全ての人かも知れない。
ともかく、恵みによる選びということをイエスは明言している。
恵み、ということは、行いやわざによる選びではないということだ。
恵みにより選ばれた人々は、すべてもれなく救われ、イエスと出会って「永遠のいのち」を得る。
イエスは、肉を極刑で処分し、それが認められてよみがえったお方である。
このイエスを信じることができれば、その人はイエスが処分したのと同じ肉から救われる。
一方、行いやわざを行う人間の肉は、救われるべき対象そのものである。
そうすると、救われるべき対象を駆使することによってその対象が救われよう、ということになる。
しかしそれは、古い約束であり、過ぎ去った過去のことである。
また、わざによっては、誰一人救われない。
神の求める基準が高いからだ。
その基準の高いわざは、十字架のイエスが代行してなして下さった。
あとは恵みによってそのイエスと出逢えるかというのが、救いについての新しい約束である。
この新しい約束とは、いわゆる信仰義認である(ローマ3:20-24)。
ただ、 「あなたからいただいた」者がどれくらいの割合なのかは、誰にも分からないだけなのである。
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すでに世に勝ったのです
「見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:32-33)
---
十字架を前にしての、イエスの実質的に最後のメッセージ。
イスカリオテ・ユダはイエスを裏切り、イエスの十字架の道は既に始まっている。
他の弟子たちも自己保身からイエスを一人残してしまうこととなる。
ところが、この十字架の道を歩むことこそ「世に勝った」ことなのだとイエスは言う。
ちなみに、世「で」勝った、この世の中での勝利者に登り詰めたという意味では全くない。
神の子イエスは世を救うために、受肉してこの世に来られた。
十字架の道、すなわち自らの肉を極刑の十字架で処分し、そのことを御父に認めていただいて復活することによって世を救おうとしている。
この十字架と復活を信じる者は、イエスから「いのち」を得て世から救い出される。
イエスはこのようにして、ご自身がこの世に来られたことの目的を達成する。
イエスの言う「世に勝った」とは、世を救うという目的を達成したことを指す。
イエスが世から救い出した者は、自身もイエスと同じ十字架の道を歩んでいると分かっているので平安がある。
私たちはイエスを知っているので、十字架の道がどういう道なのかを知っているからだ。
彼はこの世にあるのだが、イエスから救い出されてこの世の者ではない。
それゆえに、「世にあっては患難があります」。
それは、十字架の道を歩んでいるがゆえの患難だ。
イエスは、「しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」とエールを送る。
イエスと同様に患難を超克できるのだから、その患難を受け入れなさい、という位の意味合いだろう。
イエスに出会った者はイエス同様、「すでに世に勝ったのです」。
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わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:32-33)
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十字架を前にしての、イエスの実質的に最後のメッセージ。
イスカリオテ・ユダはイエスを裏切り、イエスの十字架の道は既に始まっている。
他の弟子たちも自己保身からイエスを一人残してしまうこととなる。
ところが、この十字架の道を歩むことこそ「世に勝った」ことなのだとイエスは言う。
ちなみに、世「で」勝った、この世の中での勝利者に登り詰めたという意味では全くない。
神の子イエスは世を救うために、受肉してこの世に来られた。
十字架の道、すなわち自らの肉を極刑の十字架で処分し、そのことを御父に認めていただいて復活することによって世を救おうとしている。
この十字架と復活を信じる者は、イエスから「いのち」を得て世から救い出される。
イエスはこのようにして、ご自身がこの世に来られたことの目的を達成する。
イエスの言う「世に勝った」とは、世を救うという目的を達成したことを指す。
イエスが世から救い出した者は、自身もイエスと同じ十字架の道を歩んでいると分かっているので平安がある。
私たちはイエスを知っているので、十字架の道がどういう道なのかを知っているからだ。
彼はこの世にあるのだが、イエスから救い出されてこの世の者ではない。
それゆえに、「世にあっては患難があります」。
それは、十字架の道を歩んでいるがゆえの患難だ。
イエスは、「しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」とエールを送る。
イエスと同様に患難を超克できるのだから、その患難を受け入れなさい、という位の意味合いだろう。
イエスに出会った者はイエス同様、「すでに世に勝ったのです」。
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「求めなさい。そうすれば受けるのです」
「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。
その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」(ヨハネ16:22-24)
---
イエスは言う。「求めなさい。そうすれば受けるのです」。
しかし、実のところ、求めるべきことというのは、そう多くはない。
それどころか、たったひとつしかない。
そのたったひとつの求めるべきこと、それは復活のイエスとの出会いである。
「あなたがたが父に求めること」の全ては結局、このひとつのことにのみ帰結する。
「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません」。
復活のイエスに出会って、全てを了解するので、あえて尋ねることもない。
イエスの受肉、十字架、復活…。
そのことを了解した喜び、それは何物にも代え難い。
つまり、「いのち」を頂いて、それでそのことを了解できたのだ。
イエスは言う。「求めなさい。そうすれば受けるのです」。
そのイエスの御名によって、ただひとつのことを求め続けるのである。
そして、「そうすれば受けるのです」。
受けていないとすれば、全く異なることを求めているか(これはほんとうによく見られる)、実のところ何もイエスに求めていないかのどちらかなのだろう。
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その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」(ヨハネ16:22-24)
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イエスは言う。「求めなさい。そうすれば受けるのです」。
しかし、実のところ、求めるべきことというのは、そう多くはない。
それどころか、たったひとつしかない。
そのたったひとつの求めるべきこと、それは復活のイエスとの出会いである。
「あなたがたが父に求めること」の全ては結局、このひとつのことにのみ帰結する。
「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません」。
復活のイエスに出会って、全てを了解するので、あえて尋ねることもない。
イエスの受肉、十字架、復活…。
そのことを了解した喜び、それは何物にも代え難い。
つまり、「いのち」を頂いて、それでそのことを了解できたのだ。
イエスは言う。「求めなさい。そうすれば受けるのです」。
そのイエスの御名によって、ただひとつのことを求め続けるのである。
そして、「そうすれば受けるのです」。
受けていないとすれば、全く異なることを求めているか(これはほんとうによく見られる)、実のところ何もイエスに求めていないかのどちらかなのだろう。
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悲しみと喜び
「イエスは、彼らが質問したがっていることを知って、彼らに言われた。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』とわたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。
女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。
あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」(ヨハネ16:19-22)
---
イエスの死と復活、そして復活のイエスと出会うことについて。
イエスが十字架で屠られるとき、世は喜んでも、弟子たちには陣痛のような激しい痛みを伴う悲しみがある。
弟子たちに限らず、イエスに信頼する者はみな、激しい痛みを体験する。
だが、その悲しみはやがて喜びに変わる、そうイエスは約束する。
なぜなら、「ひとりの人が世に生まれた喜び」があるからだ。
復活のイエスに出会った喜びである。
「そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者は」ない。
復活のイエスからいただいた「いのち」の喜びが尽きることはないからだ。
イエスはそもそも、尽きることのない喜びを与えるために、この世に来られ、十字架と復活とを通してそのことが実現した。
悲しみの後の喜び、死の後の生、十字架の後の復活…、こういう対は新約聖書の根幹といえる。
聖書に接し、この対を味わうことのできた者は幸いである。
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まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。
女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。
あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」(ヨハネ16:19-22)
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イエスの死と復活、そして復活のイエスと出会うことについて。
イエスが十字架で屠られるとき、世は喜んでも、弟子たちには陣痛のような激しい痛みを伴う悲しみがある。
弟子たちに限らず、イエスに信頼する者はみな、激しい痛みを体験する。
だが、その悲しみはやがて喜びに変わる、そうイエスは約束する。
なぜなら、「ひとりの人が世に生まれた喜び」があるからだ。
復活のイエスに出会った喜びである。
「そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者は」ない。
復活のイエスからいただいた「いのち」の喜びが尽きることはないからだ。
イエスはそもそも、尽きることのない喜びを与えるために、この世に来られ、十字架と復活とを通してそのことが実現した。
悲しみの後の喜び、死の後の生、十字架の後の復活…、こういう対は新約聖書の根幹といえる。
聖書に接し、この対を味わうことのできた者は幸いである。
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御霊を受けたとき
「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」(ヨハネ16:12-14)
---
十字架に架かる前のイエスが、様々なことがらをお話になる。
まだイエスは「栄光」を受けていないので、この時点で弟子たちに「真理の御霊」が来るということはない。だから、当然に「耐える力がありません」。
こののちイエスは十字架に架かって死に復活して栄光をお受けになったので、その後は、ただ恵みによって「真理の御霊が来る」こととなる。
律法等、人間の努力やその結果に応じて恵まれるのではない。
ただ恵みによってのみ、恵まれる。
この御霊はイエスと私たちとを結びつけ、「わたしのものを受けて、あなたがたに知らせ」てくださる。
だから、この御霊を受けたときに、私たちはイエスと出会う。
そして、以前は私たちに理解する能力がなかったイエスのお話、すなわち真理をすんなりと受け入れることができるようになるのである。
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しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」(ヨハネ16:12-14)
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十字架に架かる前のイエスが、様々なことがらをお話になる。
まだイエスは「栄光」を受けていないので、この時点で弟子たちに「真理の御霊」が来るということはない。だから、当然に「耐える力がありません」。
こののちイエスは十字架に架かって死に復活して栄光をお受けになったので、その後は、ただ恵みによって「真理の御霊が来る」こととなる。
律法等、人間の努力やその結果に応じて恵まれるのではない。
ただ恵みによってのみ、恵まれる。
この御霊はイエスと私たちとを結びつけ、「わたしのものを受けて、あなたがたに知らせ」てくださる。
だから、この御霊を受けたときに、私たちはイエスと出会う。
そして、以前は私たちに理解する能力がなかったイエスのお話、すなわち真理をすんなりと受け入れることができるようになるのである。
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