イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
ひとりの人の不従順、ひとりの人の従順
「こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。
すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」(ローマ5:18-19)
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引き続き、アダムの違反とキリストとの関連について。
ひとりの人アダムはもともと、神と共に生きていた。
善悪を知らない無垢さであったから、裸を恥ずかしいとも思わない(創2:24)。
ところがそのアダムは、善悪の知識の実、神から禁じられていたその実を食してしまう。
これがひとりの人アダムの違反であり不従順である。
食した彼らは裸を恥ずかしがる(創3:7)。
つまり、善悪を知ってしまったことで罪性に気付かざるを得なくなってしまった。
そして全ての人間に罪とその既決である死が入り込んでしまう。
モーセに神が律法を授ける前からそうであったから、律法を授けられてからはなおのこと、律法がいやがうえにも人間の罪性を意識させるように働いた。
しかし、神は御子イエスを、ひとりの人としてこの世にお遣わしになられた。
この人は神の子であるにもかかわらず、極刑である十字架に架かるために来られた。
すべての人が受けるべき極刑の身代わりとなって、多くの人にいのちを与えるためである。
そのことが、ひとりの人イエスの神への従順であった。
この十字架という義は、よみがえりという形ではっきりする。
その十字架とよみがえりを恵みによって信じることがかなうならば、その人は義と認められていのちを得る。
私たちは義と認められたにせよ罪深い身であることに変わりはないから、神と共にいたアダムのようになることは今はできない。
だが、その私たちはキリスト同様よみがえり、第二のエルサレムでアダムの楽園を回復するのである(黙21:3-4)。
このことは、ひとりの人の従順への信仰がもたらすことである。
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すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」(ローマ5:18-19)
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ひとりの人アダムはもともと、神と共に生きていた。
善悪を知らない無垢さであったから、裸を恥ずかしいとも思わない(創2:24)。
ところがそのアダムは、善悪の知識の実、神から禁じられていたその実を食してしまう。
これがひとりの人アダムの違反であり不従順である。
食した彼らは裸を恥ずかしがる(創3:7)。
つまり、善悪を知ってしまったことで罪性に気付かざるを得なくなってしまった。
そして全ての人間に罪とその既決である死が入り込んでしまう。
モーセに神が律法を授ける前からそうであったから、律法を授けられてからはなおのこと、律法がいやがうえにも人間の罪性を意識させるように働いた。
しかし、神は御子イエスを、ひとりの人としてこの世にお遣わしになられた。
この人は神の子であるにもかかわらず、極刑である十字架に架かるために来られた。
すべての人が受けるべき極刑の身代わりとなって、多くの人にいのちを与えるためである。
そのことが、ひとりの人イエスの神への従順であった。
この十字架という義は、よみがえりという形ではっきりする。
その十字架とよみがえりを恵みによって信じることがかなうならば、その人は義と認められていのちを得る。
私たちは義と認められたにせよ罪深い身であることに変わりはないから、神と共にいたアダムのようになることは今はできない。
だが、その私たちはキリスト同様よみがえり、第二のエルサレムでアダムの楽園を回復するのである(黙21:3-4)。
このことは、ひとりの人の従順への信仰がもたらすことである。
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