まむしのすえたち

 「まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。
 良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。
 わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。
 あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」(マタイ12:34-37)

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 イエスのパリサイ人批判。
 だが、「まむしのすえたち」ということばの射程は私たちにも及んでいる。

 人はその肉に、よい倉も悪い倉も宿しており、良い物も取り出せれば悪い物も噴き出す。
 もし良い物だけが出るとすれば、それは罪なき肉を持つ神の子だけだ。
 ともかく私たちの肉は悪い倉を宿している。
 ことばによって罪に定められるのならば、その肉ゆえにことばで失敗しない人間などいないので、全ての人間が神の御前に有罪なのである。

 そのように、まず私たちはその肉ゆえに存在そのものが罪深いのだと気付かされる。
 そして、その罪をなくしていって天の御国に適うようになることなど、自力では到底できないということに絶望する。
 このときイエスの十字架にはりつけにされてイエスと共に死に、そして復活のイエスと共に復活する。
 その過程で私たちは罪に死んだので、依然として罪深い身でありつつもその罪が赦された。
 私たちは罪深いものだが、罪から自由になったのである。
 罪を罪とも気付かないパリサイ人の放縦とは、似て非なるものだ。

 イエスから「まむしのすえたち」と言われて、それが実は自分を指していると気付くことが救いのスタートラインになる。

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[一版]2012年 4月 7日
[二版]2013日11月21日
[三版]2016年 3月26日(本日)

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パリサイ人は律法を専ら他人に押しつける

 「イエスはそこを去って、会堂にはいられた。
 そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言った。これはイエスを訴えるためであった。
 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。
 人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」
 それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。
 パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。」(マタイ12:9-14)

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 パリサイ人を前に、安息日にいやすイエス。

 パリサイ人はイエスに言う。「安息日にいやすことは正しいことでしょうか」。
 しかし、律法とは一体、他人の行動を監視するためのものなのであろうか。
 律法は神が個々人に与えたもので、その人自身の罪を明らかにして罪の自覚をもたらすためのものである。
 だから、他人から言われる類のものではないし、また、罪は自分で気付かなくては意味がない。
 救いがたいのはこのパリサイ人で、他人にばかり目がついて自分の罪に気付くこともない。それどころか自分は正しいなどと思っている。

 また、律法の解釈問題もある。
 安息日にはいかなる仕事もしてはならないのか。
 神の子イエスは、律法を文言通りに当てはめていてはかえって救われない人がいるという不合理に対処している。おぼれる人がいれば助けるのが、どうして神の律法に反するのだろう。
 一方、パリサイ人は、片手の萎えた人を突き出して、彼のことなどお構いなしにイエスを訴える名目にしている。

 自分を救うための律法なのか、それとも他人を糾弾するための律法なのか。
 それは神の律法が何のために授けられたのかということにかかっている。

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[一版]2013年11月19日
[二版]2016年 3月21日(本日)

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あわれみといけにえ

 「そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。
 すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」
 しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。
……
 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。
 人の子は安息日の主です。」(マタイ12:1-3,7-8)

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 パリサイ人はイエスに、「あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」と言った。
 イエスや弟子たちをおもんぱかって、それはまずいのではないかとしたためたのだろうか。
 そうではない。単にイエスをあげつらいたくて、難癖をつけている。
 パリサイ人にとって神の律法とは、人をあげつらうための道具に成り下がってしまった。
 律法という矢を人々に放って、いけにえにしてしまう。
 そのようなことを、果たして御父がご所望なのだろうか。
 そんなことはない。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とある。

 神の律法を自分に当てはめて厳格に守ろうとすると、それがどうにもできないという壁につきあたる。
 律法を守ることができないのだから、その人は神の御前に罪人なのだ。
 律法は、人に罪の自覚を生じさせるのである。そしてそれが、救いの第一歩となる。
 だから、救われるということは、万能な存在になることではない。
 むしろ、自分のできなさ、足りなさを受け入れ飲み込むことになる。
 そうすると、他人のできなさ足りなさもわかるので、あわれみの気持ちが自然と湧いてくる。
 御父が喜ばれる実(ヨハネ15:8)とは、こういうもののような気がする。

 では、パリサイ人が人をあわれむことをするだろうか。
 しない、というか、できない。
 あわれんでいるかのようなその行いは、あわれみではなく偽善なのだ。
 あわれみと偽善とは、似て非なるものである。
 気持ちの部分でやっているか、頭の計算でやっているかの違い、と言えばいいのだろうか。
 律法によって人をあげつらうようなパリサイ人が、自分の罪に気付いているとは到底思えない。
 そのような自分の罪がわからない人に、人をあわれむ回路があるだろうか。
 そのように書いている私も、かつてはあわれみの気持ちなど皆無だった。
 それだから私は、救い主キリストに感謝の気持ちが尽きないのである。

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イエスのくびき

 「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:27-30)

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 看板でよく見かけそうな聖書箇所。

 ここで、イエスは「そうすればたましいに安らぎが来ます」と言う。
 体が休まるのでも頭が休まるのでも、心が静まるのでもない。
 イエスに学ぶと、魂に安らぎが来るというのである。では、魂とはなんであろう。
 魂とは、人のもっとも奥底にある土台のようなものだろうか。
 魂という土台の上に、体や気持ち、それから頭の活動がある。私は勝手にそう考えている。
 疲れた人よ私の下に来なさいというイエスは、疲れを感じる体や気持ちや頭そのものを休ませるのではなく、それらの奥底にある魂に安らぎを与えるという。
 すなわち、救いである。

 そして、その救いのために、「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」とイエスは言う。
 イエスのくびきを負うのである。
 このイエスのくびきとは、もちろん極刑の十字架に架かって死んでそして復活することであるから、イエスに学ぶとは、このイエスの道に続くことである。
 そのくびきは負いやすい。
 イエスの十字架の死を代わりに預かるのだから、イエスのくびきは軽くて負いやすいのである。

 イエスは、イエスの道に預かる私たちに安らぎを与えようとしている。
 それは、一時的に頭や気持ちを紛らわす類の対症療法ではなく、魂の救いという根治を与えるものなのである。

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悪口を言うイエス

 「それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。
 「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。
 しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。」(マタイ11:20-22)

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 数々のわざがなされた町を責めるイエス。

 神の子イエスも悪口は言う。
 おそらくは、コラジン、ベツサイダやカペナウムでの人々の頑なさが悔しかったのではないだろうか。
 さらに、マタイ23章では、パリサイ人達への悪口オンパレードになる。
 悔しさを覚えたり、そのことで責めたり、また悪口というか批判したりするというのは、私たちアダムの肉となんら変わることはない。
 イエスは受肉して世に来られ、私たちと同じ肉を持っているからである。
 つまり、公生涯でのイエスは、性質としては我々人間とあまり変わるところはない。

 唯一、我々と違うのは、イエスの肉には律法に照らした罪が見いだされないということだ。
 そのような、罪のない肉が十字架でいけにえになる。神の赦しを得るためのささげ物である。
 イエスは、正にこのことのために世に来られた。
 そして、十字架と復活を通り抜けた大祭司イエスは、肉を持つ私たちの罪に赦しを与えてくださるのである。

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[一版]2013年11月17日
[二版]2016年 3月 6日(本日)

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