自分の十字架

 「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:38-39)

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 聖書全体を代表する聖句として、ヨハネ3:16がしばしば挙げられるが、同じように、上のマタイ10:38-39も聖書全体を代表するもので、救いについて端的に言い表されている。
 「わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします」は、たとえばロマ書6:4「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」にぴったりと符合する。

 極刑である十字架によって私たちは自身を失うのであるが、そもそも私たちは、アダムの肉の罪深さへの刑罰として、この十字架を背負わざるを得なくなった。
 その十字架の重荷に耐えつつイエスに付き従ってゆくことが、その重荷からの救いのために必要であり、その人はいずれキリストと共に葬られ、キリストと共によみがえる。
 よみがえって御父との和解を回復し、「いのち」を得て信仰を頂ける。
 この過程は、イエスの十字架と復活がひな形になっている。

 自分のうちに罪が内在していることに気付くことが、その人が「自分の十字架を負」うということであり、スタートラインである。
 そのためには、頭でっかちな理解ではない、打ちのめされるような体験が必要となる。

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[一版]2013年11月14日
[二版]2016年 2月27日
[三版]2018年 3月25日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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罪人を招くために来たイエス

 「イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。
 イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。
 すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」
 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:9-13)

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 マタイをはじめとする取税人や罪人は、コミュニティから外れてしまっている。
 なぜ外れてしまったのかというと、職業柄「あいつは罪人だ」というように指さされてしまったからだろう。
 では罪とは何によって定まるのであろうか。
 自分の気に入らないから罪人なのであろうか。

 いや、取税人が罪人なのは、律法に照らして明らかである。
 彼らは日ごろの人々からの扱いに堪えていたので、自分自身の罪性に気付きやすかっただろう。
 取税人マタイは、イエスの呼びかけにすぐさま従う。
 マタイにとって、イエスのように呼びかけてくれる律法学者、パリサイ人など皆無だったに違いない。

 一方、そのパリサイ人にしても、律法に照らして罪人であることはやはり明らかだ。
 ところが彼らは、自分は律法を遵守できる義なる存在だと思いこんでいる。
 コミュニティから取税人達を追放し、イエスが取税人らと食事を取るのにも文句を付ける。
 なんのあわれみも、あったもんではない。その不義にも気付かない。

 イエスは言う。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」。
 自分には罪がなく義なる人間だと思い続けるこのパリサイ人は、この時点では救いようがないのである。
 救いのスタートラインは、律法に照らして自分が罪人であるとわかることにあり、そのような人をこの罪から救うためにイエスは来られた。
 罪を罪と分かってこそはじめて救いを求めるのであり、イエスの十字架と復活の恵みが彼ら罪人を解放するのである。

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[一版]2013年11月12日
[二版]2016年 2月20日
[三版]2018年 3月21日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!
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奇蹟の目的

 「それから、向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人がふたり墓から出て来て、イエスに出会った。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。
 すると、見よ、彼らはわめいて言った。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」(マタイ8:28-29)

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 マタイ8章は、数々の奇蹟をなすイエスについてまとめられている。
 病を癒し悪霊を追い出す。暴風雨を大凪(おおなぎ)にする。

 この万物は、神がお造りになった。
 病が癒え悪霊が出て行くのは、病も悪霊も、この万物の主である神、そして神の子イエスには従うからではないかという気がする。天候もイエスには従順である。
 ところが、この万物の主に従わないのがいる。アダムの肉を持つ我々人間がそうである。
 人間は、この御神との関係性から外れ、ソドムやゴモラをはじめ、しばしば神の怒りを買っていた。
 人間そのものが癒されることはなかったし、人間そのものが凪ぐようにされることもなかった。

 ではイエスが病を癒し悪霊を追い出し、湖を鎮めたのは、何のためだろうか。
 病を癒すことが目的であったなら、医者の看板をあげればよかった。実は若い頃の私は、浅はかにもそう思っていた。
 そうではなく、今ここに神の子がいるのだ、ということを分かってもらうことこそが目的だったはずだ。
 人間そのものを癒して神との和解を果たし、その人を凪にする、その救い主がここにいるということを分かってもらうための手段として、病を癒したのではないだろうか。

 マタイ福音書に出てくるほとんどの人は、イエスを腕利きの町医者であるかのようにとらえていた。彼らはイエスが誰かを、わからなかったのである。
 このイエスがどういう存在であるかを分かることは、救われるために大切なことだ。
 勉強すれば分かるようになるわけではない。
 イエスが戸を叩いて訪れて出会ったときに、全てのことが分かるのである。

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 健やかな一日をお祈りします!

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『盲人』への恵み

 「そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」
 すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」
 また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
 ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」(マタイ8:19-22)

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 イエスは律法学者の申し出をあしらい、弟子には「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい」と、どうあっても自分について来いという。
 なぜ律法学者は弟子にしてもらえず、もう一人の男は弟子にしてもらえるのだろうか。
 律法学者が従前の律法解釈から離れることができないからだろうか。イエスはもう一人の男をよほど可愛がっていたのだろうか。

 そうではなく、どの人にもイエスの愛は降り注ぐ。
 これはむしろ恵みについてであって、もう一人の弟子がたまたま恵まれたというだけのことだ。
 恵みに理由はない。
 少なくとも、人間に理解できるような理由はない。
 たまたま、なのである。
 敬虔にすれば恵まれるとか、律法を型どおりに遵守すれば恵まれるとか、そういう因果関係から離れたところにあるものである。

 私たちは敬虔でも何でもない。かけらほども律法を守れない。
 そのことに気付きすらしないというのは、なんという盲人だろう。
 それほどの盲人だからこそイエスのあの恵みが必要なのであり、この恵みによって我々盲人はイエスの十字架の死に預かって復活を果たす。

 だから、求め続ければ、この律法学者が恵まれるのはもちろんのことで、彼が恵まれて生まれ変わったら、うわべの敬虔さなどかなぐり捨てることだろう。

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[一版]2012年 2月26日
[二版]2016年 2月 7日
[三版]2018年 3月11日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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土台

 「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイ7:24-27)

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 山上の説教の最後。
 土台について。

 それにしても最近の若者の狼藉ぶりには、目が余るものがある。
 高速道での故意の事故をはじめ、通勤の電車の中などでは自分も被害に遭う。
 彼らはどうも、実際の世界はゲームの延長と思っている節がある。正に砂の土台だ。
 善悪の概念自体がないような、こんな屁のような連中に腹を立てるのも馬鹿らしくなる。いや腹立たしいんだが。

 ここまで大層偉そうに書いてきたが、しかし自分の若い頃だって彼らと大同小異だった。
 あまりにもひどかったから、それでふらふらになって教会の門を当時叩いた。
 今までの砂の土台では立ちゆかないと気付いて、人は初めて救いを求めるような気がする。

 イエス・キリストを通して魂が救われると、今までの砂の土台は岩の土台にがらりと変わる。
 土台というか、根底の部分、奥底の部分という方が分かりがいいかもしれない。
 善悪について、また、そのほかのことについても、確かなものに入れ替わる。
 実は、この岩の土台は、自分のものではないし、自分から出たものでもない。
 私たちは罪に死んで、自分を復活のイエスに明け渡したのだった。
 だから、この岩の土台とは内住の聖霊なのである。
 砂は自分で岩は御霊といえばいいだろうか。

 山上の説教は、全ての人は罪の下にあるというものであり、その最後に、罪からの解放の結果についても、イエスは約束している。

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 健やかな一日をお祈りします!

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