真の礼拝者

 「女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
 私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:19-24)

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 イエスとサマリアの女とのやりとりから。

 女は礼拝場所にこだわっている。
 そのことは、他の人々だって同様だ。
 「そこに行くことが神への礼拝なのだ」と。
 しかし、神を礼拝するのは「霊とまこと」(新共同訳では「霊と真理」)によってなのだ、そういう時代が来るとイエスは仰っている。

 それは何故かというと、イエスの十字架の死と復活によって、次の預言が成就したからだ。

 「その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
 そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ。――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(エレミヤ31:31-34より)

 「わたし」の罪は赦されたので、「神」と「わたし」とはもはや直結するので(「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」)、「祭司」という存在はもはや介在しない。
 だから、どの山で礼拝するか、また、エルサレムなのか東京なのかも、問題とはならない。
 また、どの「祭司」による礼拝かも、全く問題ではない。
 そういうわけで、神を礼拝するためには、「場所」や「祭司」という要素は完全に取り除かれる。

 そして礼拝に必要な要素として残るものが、「霊と真理」である。
 イエスを通して罪赦され神との和解を成し遂げた者は真理の者であり、彼は通じ合っている神を霊によってあがめるのである。

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わたしが与える水

 「あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
……
 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 」
 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。」(ヨハネ4:12-14,18-19)

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 スカルの井戸端にて。

 「渇き」というとき、まず、喉の渇きを思いつく。
 このスカルの女も、またイエスも、その点では同様であった。
 その渇きは、水を飲めば(それこそヤコブの井戸の水を飲めば)、いっときは収まる。

 イエスが言う「渇き」とは、そのようなものではない。
 5人の男と結婚しては離婚し、今はまた同棲中、このような底なし沼の欲望の渇きを指している。
 「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません」。
 イエスが与える水は、すなわち「いのち」である。
 本来的な人として営む上での動力源のようなもの、とでも言えばいいのだろうか。
 しかもそれは根源からの治療なので、いったん与えられたならば、もう渇くことはない。
 別の言い方をすると、罪の赦しは1度であり、2度も3度も罪赦される、というようなことはない。
 1度罪赦されたならば、それで罪から解放されるからである。

 イエスが来られたのは、この、一度飲むと渇かない水を与えて世を救うためである。
 それゆえに、十字架にも架かられ、そして神によって復活する。
 イエスの与える水とは、とどのつまり、この十字架と復活に帰するのである。

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これほど世を愛された神

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである」(ヨハネ3:16-19)

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 神は、イエスをこの世にお与えになった。
 肉をまとったイエスは、極刑としての十字架に架かって、死ぬ。
 文字通り、神はイエスをこの世にお与えになったのだ。
 なぜそうなさったのだろうか。
 「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つため」である。
 イエスを信じる者が「いのち」を得て救われるため、神は十字架のイエスをその人にお与えになられた。
 この十字架のイエスこそ、神の側から差し出した和解の手だ。

 「御子を信じる者はさばかれない」とは、「さばかれない」ということを信じ切っていることと、おおむね同じ。
 それで、御子を信じる者は救われるのである。
 人間には、二種類しかいない。
 信じた人と、信じるに至らない人。
 神と和解した人と、しない人。
 さばかれない人と、さばかれる人。
 さばく/さばかれない、というのは、神がその人に罪を見いだすかどうかということだ。
 神が罪を見いださない人、罪をおおわれている人、言い換えると義とみなされている人の幸いは、さばかれずに救われる、という一点に尽きる。

 では、さばくのさばかれないだのというのは、どういうことだろうか。
 「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである」。
 だから、やみの行いがあっても、ほおっておけばよい。
 その日にはさばかれて滅びるのだ。

 ところが、神は世の全体を愛して、イエスをこの世に下さった。
 やがて滅びるやみの人間にも等しくイエスの光は照らされている。
 神の差し出した十字架をやみの中で握りしめて、それで滅びる前に信じて救われる。
 そのように、「さばかれない」と確信できる救われた人が、今日もどこかで産声を上げていることだろう。

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[付記]
 本日の記事は、2007年11月5日の記事を大幅に書き換えたものです。

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新しく生まれる

 「ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3:4-8)

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 イエスとニコデモとのやりとり。

 新しく生まれる、という概念が全くの初耳であるニコデモは、「老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。」と切り返す。

 アダムの違反以来の罪の肉から人間が救われるためには、人はどうしても新しく生まれなくてはならない。
 だがそれは、もう一度子宮の中に入って生まれ直すといった、いわば肉による生まれ変わりによってではない。第一、そんなことはできない。
 キリスト・イエスを媒介として、神によって生まれ変わるのである。

 神はあたかも風のようなもので、どこにでもあるのだが、どこから来てどこへ行くかがわからず、つかみようがない。
 その神をつかまえるのではなく(そんなことはできない)、その神の恵みに捕らえられて初めて新生を果たすのである。
 人間はどこまでも受け身でしかない。

 すべての人は、肉として生まれる。
 そのまま肉であり続ける人が大多数である中でも、御霊に捕らえられることによって罪赦され、神の国に入ることができるのである。
 「神の国に入る」というのは、人間の肉が持つ最も根源的な恐怖、「死んだらどこへ行くのだろう」ということからの完全な解放なのである。

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神殿

 「そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」
 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」
 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」
 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。
 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。」(ヨハネ2:18-22)

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 ユダヤ人が言う「このようなこと」とは、イエスの宮清めのこと。

 神殿とは、そもそもどのようなものであろう。
 神を礼拝する場所だろう。
 単に礼拝する、というよりも、神に各種捧げもの(罪のためのいけにえ等)をささげる場である。
 ヘロデ大王が四十六年掛けて建立した神殿は、しかし、神を礼拝する場所としてふさわしくなかった。
 捧げものを売る商人や両替商が、おそらくはサドカイ人のような宗教支配階層と癒着して、宮中で堂々とコンビニエントな商いを営んでいたのだ。
 そこまで腐敗した世にイエスが来られたことにもまた、意味がある。

 腐敗の象徴のようなこの神殿は、神の礼拝のためには壊してしまって一向に差し支えない。
 その代わりに、イエスは「自分のからだの神殿」というものを三日で築き上げた。
 この三日とは、十字架に死んでから復活するまでの三日のことである。
 イエスの十字架と復活を受け入れることのできる人にとって、このことは神からの罪の赦しによる解放である。
 解放されたので、もはや毎年ことある事に捧げる必要のある捧げものをコンビニエントに入手して捧げる必要はない。

 「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ31:33)

 このエレミヤ書の預言はイエスによって成就され、これからは内住なされる神を宿す人間がそのまま神殿なのである。
 そして、その人は「霊とまことによって」、その神殿で絶えず礼拝する(ヨハネ4:24)存在となる。
 神と人との間の垣根が、イエスによって取り外されたのだ。

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何を求めているのですか

 「その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、
 イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。
 ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」(ヨハネ1:35-38)

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 バステスマのヨハネがイエスについて「見よ、神の小羊。」と言うと、二人の弟子(うち一人はアンデレ)がイエスについて行く。
 この二人の弟子は、もともとはヨハネについていた。
 そのヨハネの言によりヨハネのもとを去って、どこの馬の骨とも知らない全く無名のイエスの下に来た。
 イエスは言う。「あなたがたは何を求めているのですか」。

 二人の弟子が求めていたものは、ひとことにしてしまうと救いであろう。
 ただ、救いとは何か、というのは、分かっていなかった。
 そしてヨハネのもとでは、自分の欲しいものは得られそうにないという予感があったのかも知れない。
 この二人は本物を求めていたとも言える。

 イエスの与える救いは、極刑の十字架に死んでアダムの肉を断罪し、神の恵みによりよみがえっていのちを得る、そういうことである。
 この本物のいのちを多くの人に与えるために、イエスは来られた。

 二人の弟子は当時、そのようなことは思いもせずに気楽に宗旨替えをして「あなたがたは何を求めているのですか」と言われてしまうのだが、結果的にはより正解に近かった。
 アンデレを含む二人は、イエスの与えるいのちをいただいただろうか。

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本当のくに

 「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:10-13)

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 世はイエスを知らなかったし、イエスがいらしてからも、世はイエスを知ろうともしなかった。
 だがそれでも、イエスの御名を信じることのできる人はいる。
 信じようとしてそうなる類のものではない。
 イエスによっていやが上にも信じさせられるのである。
 例えばサウロ(パウロ)がそうであるように。
 このような人が、神によって生まれた人だ。
 もとは血に基づいた、肉の欲求や人の意欲による出自なのであるが、神によって新生したのである。

 イエスが創った世は、アダムの違反を通してイエスを十字架にはりつけてしまった。
(逆に、イエスが来られたのはそのためである。)
 イエスの本当の御国、第二のエルサレムこそ、新生した人が胸に抱く希望なのである。

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わたしが来たのは

 「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
 なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
 さらに、家族の者がその人の敵となります。
 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:34-39)

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 アダムの肉を有する人間は、それゆえの罪にがんじがらめになってしまい、神の御前に極刑相当の者に堕してしまった。
 そのことが「自分の十字架」なのであり、それを自覚できたならそれを背負ってイエスに従おう。

 そのとき、自分に権威を振るう人(父、母、しゅうとめ)には、おのずと逆らうこととなる。
 イエスがもたらすものは、このような剣であって、平和などではない。
 がんじがらめの罪は平和では解決のしようがないのだ。
 剣こそが罪を断罪できる。
 イエスは、この剣を与えるためにこの世に来られた。

 イエスの剣の道、十字架の狭き道を通るとき、かりそめのいのちは失っても、真のいのち、永遠のいのちを自分のものとすることができる。

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あなたの道を主にゆだねよ

 「あなたの道を主にゆだねよ。
 主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
 主は、あなたの義を光のように、
 あなたのさばきを真昼のように輝かされる。」(詩37:5-6)

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 ここに詠まれていることは、成功哲学の類ではない。
(もっとも、詩篇をはじめとする旧訳には、そのようなものも多い。)

 「主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」。
 何を主が成し遂げてくださるのだろうか。
 それは、アダムの違反以来不義である私たちを義と認めてくださるということだ。
 そうして下さる主を信頼するためには、私たちは自分が思い描いていた道を主に明け渡す必要がある。
 これは人間が自分で選択してできるようなことではない。
 主の御力によって、自分の道とは異なる十字架の道を歩まざるを得なくなる、そのような類のものである。

 だから、「あなたの道を主にゆだねよ」というよりは、あなたの道を主に明け渡さざるを得なくなる、というところだろう。
 そのように主に主権を握られた者へのさばきは、「真昼のように輝かされる」。
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罪赦されるには

 「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、
 私の咎を隠しませんでした。
 私は申しました。
 「私のそむきの罪を主に告白しよう。」
 すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ」(詩32:5)

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 ダビデのマスキール。

 「自分の罪」とは、何だろうか。
 仮にそれが分かったとしても、それは肉の罪のほんの一部にすぎない。
 人間には、罪を自覚する能力は備わっていない。

 人間が主に罪を告白するのではなく、主が恵みによって人間に肉の罪を告げ知らせるのである。
 このときその人は狭き道に入る。
 その道を通り過ぎ、やがてキリストの十字架と復活にあずかるのである。
 すなわち、罪の赦しである。

 告白して罪赦されるのであれば、キリストが来られる必要はない。
 人間がどんなことをしても救われないので、この救世主が来られた。
 その意味で、上の詩は旧約の世界である。

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