何のための律法か

 「それから役人たちは祭司長、パリサイ人たちのもとに帰って来た。彼らは役人たちに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」
 役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」
 すると、パリサイ人が答えた。「おまえたちも惑わされているのか。
 議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。
 だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている。」(ヨハネ7:45-49)

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 イエスの演説を目の当たりにしてそのイエスを捕らえることができなかった役人たちと、彼らを責めるパリサイ人たち。
 ここでパリサイ人は、「律法を知らないこの群衆は、のろわれている」と、吐き捨てている。
 だが、そのパリサイ人の言う律法とは、いったい何であろうか。

 「モーセは、『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言っています。それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」(マルコ7:10-13)

 つまり、自分たちに都合のいい勝手な変形、修正を施した「律法」で、もはや神の律法そのものではなくなってしまっている、それがパリサイ人にとっての「律法」なのである。
 そして、彼らは群衆に「律法」を教え導くつもりがない。
 神の教えには従うべきであったから、「律法」を自分たちだけで独占して権力の源泉としていたかもしれない。
 自分勝手な解釈を施した「律法」で群衆をかしずかせていたように思われる。

 そうすると、パリサイ人は「律法」について、二重に過ちを犯していることになる。
 まず、神の律法を勝手に修正してしまう過ち。
 律法を、そして律法の力を知らないのは、むしろパリサイ人の側なのだ。
 これでは「律法」は、養育係(ガラテヤ3:24)たりえない。
 それから、律法をなぜ守ろうとするのかということについての、致命的な誤り。
 神の律法は、民衆を支配するためのものではない。むしろ解放に導くためのものだ。

 彼らは神に従っているのではなく、神を利用しているのである。
 これでは、御利益宗教の構造と変わるところがない。神はご利益をくれる存在なので、人間より低く位置づけられる。非常に都合のいい、というか、使い出のいい「神」になってしまっている。
 私たちにとって神とは、この神が私たちを造ってくださり、アダムの違反からの救いの手をいつも差し伸べておられる、そういう存在である。
 その救いの手として、まず神の律法がある。

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キリストのあらわれかた

 「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
 このことばを聞いて、群衆のうちのある者は、「あの方は、確かにあの預言者なのだ。」と言い、
またある者は、「この方はキリストだ。」と言った。またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。
 キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。
 そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった。」(ヨハネ7:37-43)

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 イエスの言葉を聴いた群衆の反応について。
 イエスがやはり本当にキリストなのだという人々と、ガリラヤからキリストが出るはずがないという人々とに分裂する。
 想像だが、それほどキリスト待望論、救世主待望論が、この時代に大きかったのではないだろうか。
 それはローマ支配からの解放という願いに基づいていたかもしれない。
 あるいは、利権、利害などの様々なしがらみで、社会全体が行き詰まってしまっていたからかもしれない(パリサイ人にしても利害構造の中でやっている)。
 この人々の中に魂の救済の類を求めていた人は、ごく少数だったような気がする。六千人の給食で、なぜ人々はマナばかりを求めたのだろうか(6章)。

 キリストがキリストであることは、救われてはじめて分かる。
 十字架と復活のキリストは、私たちを世から救うために来た。
 私たちが世に打ち勝つことができるように、障害物を処理してくれる。すなわち、罪の赦しだ。
 アダムの肉が解放されるのである。
 私たちの外側をどうこうするのではなく、内側から変えてくださる。
 私たちの内に聖書が据わるのである。それは最早外にあるのではない。
 そのようなことがあってはじめて、キリストに出会ったと了解できる。
 復活のキリストは公生涯のときとは違って、苦しみのさなかに、そっとドアをたたいてやってくる(黙示3:20)。
 あまりにもさりげなく、気付かないほどだ。それほどまで、気遣ってくださる。

 大声で「私はキリストだ」と来ることは、今の世にはけっしてない。もし、そんなことがあるとしたら、それはにせキリストだ(参/マタイ24:4-5)。

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生ける水の川

 「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(ヨハネ7:37-39)


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 心の飢え乾きを潤すためには、人はどんなことをするのだろう。
 遊興や酒宴は、ほんのいっときのごまかしにしかならない。
 その余韻が過ぎさってしまうと、あの飢え乾きが再び襲ってくるのである。

 イエスを信じる者は、「心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」。
 心の根っこの部分が生ける水で潤される。
 「後になってから受ける御霊」、すなわち、キリストの十字架と復活とを了解することが、信じるということである。

 信じることによって、「いのち」であるイエスは内在して下さる。
 この生ける水の川は、その人の内部からじわりと湧き出てきて、枯れることはない。
 外部からの刺激によっては、そもそもこの生ける水は流れ出てこない。
 行事につぐ行事というのは、心の飢え乾きには意味をなさない。

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[一版]2009年 1月31日
[二版]2011年 1月 4日
[三版]2014年 7月19日(本日)

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イエスが会いに来てくださる恵み

 「パリサイ人は、群衆がイエスについてこのようなことをひそひそと話しているのを耳にした。それで祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕えようとして、役人たちを遣わした。
 そこでイエスは言われた。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。
 あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」(ヨハネ7:32-34)

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 イエスが上のように言っているこの時点では、イエスが何のことを指して言っているのかは誰にも分からなかっただろう。
 だが、この新約聖書に接する私たちには、イエスの言わんとすることが十字架と復活のわざのことであることが明らかである。

 イエスは全人類の肉の罪、その処理を成し遂げて、そして復活した。
 ヨハネ福音書によると、復活したイエスは、まずマグダラのマリアに現れ、次いで弟子たちに現れ、さらにその8日後に、トマスも含む弟子たちに現れている(20章)。
 しかし、一般の人々、パリサイ人、祭司長たちには現れていない。引用聖句どおりだ。

 このように、復活のイエスの方から私たちに会いに来てくださる。
 こちらからイエスに会いに行くことは不可能だ。
 イエスを見つけるのではなく、イエスが私たちを見つけるのであり、これが恵みである。言い換えると、恵みとは自分で探し当てる類のものではなく、祈りつつ待ち続けるほかないものである。

 使徒行伝でパリサイ人サウロにイエスが現れたのもまた、恵み以外の何者でもない。
 誰にでも、イエスと出会うことがかなう。

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ダブルスタンダード

 「モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。――ただし、それはモーセから始まったのではなく、先祖たちからです。――それで、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。
 もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。
 うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」(ヨハネ7:22-24)

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 イエスの主張は、こうだ。
 あなたがたは律法を遵守するためには、たとえ安息日であっても割礼という労働をしている。
 おなじように私(イエス)が安息日に「人の全身をすこやかに」するという労働をすると、なぜ腹を立てるのか。
 それではダブルスタンダードではないのか。

 神の律法はもちろん、どの人にも等しい。
 しかし、それを適用する人間の側に明らかな恣意があるため、あからさまなダブルスタンダードになってしまう。これは古今東西を問わないことと思われ、現代日本でもしばしば見られる。
 声の大きい者がこの世の勝者なのであり、もはや筋論など意味をなさない。「十字架につけろ」という、あの狂騒もそうだ。
 そうすると、イエスがダブルスタンダードを訴えることに果たして意味はあるのだろうか。
 大いにある。
 御子イエスは、世の人々の不正、恣意を明確に示したのである。仮に普通の人が同じ事をしたとしても、忘れ去られるだけだろう。

 そうすると、どういうことがいえるのだろうか。
 この世に身を置き日々奮闘する私たちは、様々なダブルスタンダード、恣意や不正に遭遇し続けている。
 そしてそのこと自体に私たちは無力なのであるが、私たちの味わうこの理不尽さはかつて御子イエスも味わい表だって抗議していたのである。
 そのイエスは「世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。」(ヨハネ7:7)と、はっきり言っているので、世とはそういうものなのだろう。
 恣意を恣意として明らかにしたイエスと同様に、私たちも恣意を恣意として明確化することでイエスにつながっていることがより明らかになる。
 これが私たちの世に対する勝利である(参/ヨハネ16:33)。

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御霊を受け入れるということ

 「命を与えるのは"霊"である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」(ヨハネ6:63新共同訳)

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 私たちアダムの子孫は、この肉をまとって、というか、ひきずって今日も生きている。
 このアダムの肉は、そのアダムの違反以来罪深さが糾弾され続け、そして今日も違反を犯さざるを得ない。ここでいう違反とは、神の律法に対する違反である。
 律法は「人を殺してはならない」と規定する。
 どの人も、この規定をただの一日も守ることが出来ない。おそらくは、どの人も最低日に三人くらいは殺しているだろう。私もそうだ。もっとかもしれない。
 この場合、神が記す「殺す」とはどういうことかという解釈問題が入ってくるが、それはイエスが山上の説教で明らかにしているところだ。
 その神の基準から見ると、すべての人が罪深く、神と人とは断交し続けている。
 いいかえると、「いのち」がない状態になっている。
 私をお造りになった御父と和解することが出来れば、この肉の罪から解放されて、どんなにか気が楽になることだろう。

 その「いのち」を与えてくれるものが、御霊である。
 その際、いままでの肉の行いの立派さが、実に何の役にも立たない。このことは、律法を突き詰めようとしてみない限り、胸にすとんと落ちないだろう。
 そして御霊に主権があるので、事は恵みなのであり受動的である。
 だから、救われたい私たちとしては、信じて祈り待ち続ける。

 今、イエスが懐疑的な弟子たちに話している。そして、御霊や「いのち」をあふれんばかりに降り注いでいる。
 ところが彼らは信じていないので何も起こらない。彼らには、受け入れ態勢が全くできていないのだ。
 大切なことは、肉の行いではなく、この受け入れ態勢なのである。

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イエスの血肉を食らう

 「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。」(ヨハネ6:53-56)

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 私は料理が好きで、昨晩はあんかけ焼きそばを作って食べた。うまかった。
 ところが、これを食べればもう何も食べずに済むということはなく、いっとき腹が満たされてもまた減ってしまう。
 肉の食べ物は、朽ちてゆくアダムの肉を維持するために死ぬまで食べ続けなくてはならない。死を迎えるまで何度でも腹が減る。

 それとは違い、イエスの血肉、イエスが与えるまことのパンは、一度食らうことがかなえばそれで足りる。その意味において、「まことの食物」、「まことの飲み物」なのである。
 もう腹が減らなくなるというのではない。
 神との関係性を回復して魂が満ち足り、それはずっと続くのである。それが、上に言う「いのち」である。

 では、それはどこで手に入れることが出来るのだろうか。
 イエスが肉をさらし血を流した十字架においてである。
 十字架につけられ血を流し肉が裂けたイエスとの出会いがあったときにはじめて、イエスの血肉に接する。
 狭き道に入らされて、自分の十字架を負ってゴルゴダの丘を登らされ、そうして気付くとこの十字架のイエスにばったりと出会う。
 そして、このイエスと共に復活をとげる。そのときに、アダムの違反によって失われていた「いのち」が回復するのである。
 この一連のプロセスが、イエスの血肉を食らうということになろう。
 このようなものであるから、信仰とはあるかないかのどちらかしかない。

 このようにしてイエスと出会っても、やはり腹は減る。
 しかし、満ち足りた魂は、自力で食うものを調達できる。五千人の給食は、もはや不要なのである。

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神に教えられる

 「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。
 だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。
 まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
 わたしはいのちのパンです。
 あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。
 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(ヨハネ6:45-51)

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 イエスは仰る。「またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」。
 イエスは「世のいのち」のために、自らの肉を与える。
 肉をまとった神、その肉をささげて、「世のいのち」に供する。

 どのようにして供するのかというと、十字架でのいけにえということだ。
 イエス御自身が極刑を受け、この肉を処断された。
 そして神はこのイエスを復活させ、肉そのものに赦しを与えられた。
 このイエスの道こそ人々を救う道なのだ。
 私たちも、イエスのようにこのアダムの肉を十字架で処断されて、そして赦されて復活するのである。

 ここでいう赦しは、「マナ」とは何の関係もない。
 今イエスは、パンを目当てに追ってきた群集を相手に話されているが、彼らが欲しいのはあくまで空腹を満たすマナにすぎず、それはイエスが与えようとする「いのちのパン」とは全く異なる。
 だからイエスは、この群衆にこう仰る。
 「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます」。
 群集はイエスのところに来たのではない。
 パンのありかを探しに来ただけだ。
 ところが、恵みによって「神によって教えられる」とき、その人はおのずとイエスのもとに駆けつける。
 十字架が、字面をはるか超えてはっきり了解できたからだ。
 もちろんイエスは、彼を受け入れる。

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[一版]2007年11月19日
[二版]2009年 1月 5日
[三版]2010年 3月22日
[四版]2010年12月30日
[五版]2014年 7月 7日(本日)

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