マス

 「ところでピラトは、その祭りには、人々の願う囚人をひとりだけ赦免するのを例としていた。たまたま、バラバという者がいて、暴動のとき人殺しをした暴徒たちといっしょに牢にはいっていた。
 それで、群衆は進んで行って、いつものようにしてもらうことを、ピラトに要求し始めた。
 そこでピラトは、彼らに答えて、「このユダヤ人の王を釈放してくれというのか。」と言った。ピラトは、祭司長たちが、ねたみからイエスを引き渡したことに、気づいていたからである。
 しかし、祭司長たちは群衆を扇動して、むしろバラバを釈放してもらいたいと言わせた。
 そこで、ピラトはもう一度答えて、「ではいったい、あなたがたがユダヤ人の王と呼んでいるあの人を、私にどうせよというのか。」と言った。
 すると彼らはまたも「十字架につけろ。」と叫んだ。
  だが、ピラトは彼らに、「あの人がどんな悪いことをしたというのか。」と言った。しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫んだ。」(マルコ15:6-14)

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 福音書には、「主要登場人物」というのがあると思う。
 まず、イエス、そして父なる神。
 イエスの弟子たち、また、信仰によって癒された人々。
 律法学者、パリサイ人、祭司長(サドカイ人)。
 ポンテオ・ピラト。
 そして、「群衆」。

 この群衆は、イエスのエルサレム入城の時には「ホサナ」と叫んでいる(マルコ11:9)。
 だが、イエスが捕らえられるや、手のひらを返したように「十字架につけろ」と騒ぎ立てる。
 しかも、「進んで行って」バラバの釈放を要求するという「したたかさ」まで、持ち合わせている。
(こうしてイエスを免責する道を断ってしまう。)

 ちなみに、福音書には「群衆」を同情的に?描いている箇所も、数カ所ある。例えばマルコ6:34等。

 イエスは、大きなあわれみを群衆に掛けた。そして群衆はイエスを喜び、しかし捨てた。
 そんな「群衆」のためすら、イエスは十字架に掛かられた。

 私はこのことについて、イエスは自分自身もちろん持ち合わせている「自己保身本能の醜さ」を「免責」して下さったように思っている。
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根源的治療

 「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。
 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブル2:17-18)

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 神が人となられて、十字架に掛かるという壮絶な苦しみを、身をもって体験した、このお方こそキリストです。
 だからキリストは、どんな苦しい境遇にある人に対しても共感なされます。
 こちらからヘルプを求めるならば、喜んで助けてくださいます。

 「苦しい境遇」の根っこあるもの、それこそあるいは「罪」なのかも知れません。
 そうだとすると、キリストの助け方というのは、根源的な部分へとメスを入れる形なのかと思います。
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迷子

 「幕屋を建てた日、雲があかしの天幕である幕屋をおおった。それは、夕方には幕屋の上にあって火のようなものになり、朝まであった。いつもこのようであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。
 雲が天幕を離れて上ると、すぐそのあとで、イスラエル人はいつも旅立った。そして、雲がとどまるその場所で、イスラエル人は宿営していた。主の命令によって、イスラエル人は旅立ち、主の命令によって宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営していた。
 長い間、雲が幕屋の上にとどまるときには、イスラエル人は主の戒めを守って、旅立たなかった。また雲がわずかの間しか幕屋の上にとどまらないことがあっても、彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。
 雲が夕方から朝までとどまるようなときがあっても、朝になって雲が上れば、彼らはただちに旅立った。昼でも、夜でも、雲が上れば、彼らはいつも旅立った。
 二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって去らなければ、イスラエル人は宿営して旅立たなかった。ただ雲が上ったときだけ旅立った。彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。彼らはモーセを通して示された主の命令によって、主の戒めを守った。」(民9:15-23)

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 姪っ子達子ども3人と共に、7人でディズニーランドに行った。
 夜になり、ふと、真ん中の男の子を見失ってしまい、彼は迷子になってしまう。
 それで、上の聖書箇所を思い出した。
(だいぶ探した。)

 何しろディズニーランドだ、程なくして「お兄さん」が迷子のこの子と共に現れて、まあ無事だった。
(それにしても、たいしたもんだ。)
 もうすぐ小学三年になるこの子は、暗闇の恐怖に、泣きやまない。

 昼間は雲が導いてくれ、その雲は夜になると燃え輝いて、やはり導く。
 " wait " のときも、そうと教えてくれる。
 雲を見ていれば、「迷子」にならずに済む。
 この「迷子」というのは、人々からはぐれる、というよりも、「目標」を見失うということのような気がする。

 上の聖書箇所の人々は、このようにしてシナイ半島を40年間(?忘れた)もぐるぐる回って、ようやく「目標地」(ヨルダン川のほとり)にたどり着く。
 何年かかろうが、ぐるぐるしようが、見失いさえしなければ、たどり着くのだ。
 かえって、「霧やもや」を雲と勘違いしてしまうことを恐れた方が良さそうだ。
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plan

 「聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人たち。
 あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。
 むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」(ヤコブ4:13-15)

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 大地震があった。

 一週間先のことも全く分からないのだ。
 朝起きて、「このこと」をし、団らんを囲んで、眠る。
 この繰り返しでよし、としよう。
 あるいは、「よし、としよう」というのすら、おこがましいのかもしれない。
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サタンについて

 「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」
 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」
 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。」(マタイ4:1-11)

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 イエスは「ひきづられるようにして」荒野に行く。
 人である神・イエスは、サタンの試みをお受けになる。

 1つめの誘惑は、パン。
 2つめの誘惑は、人間に備わっていない超常的な力。
 3つめの誘惑は、権勢、また、それがもたらす栄華。

 「パン」とは、マテリアルとか富(マモン)と大括りしてもいいだろう。
 「超常的な力」というのは、自分の力量を大きく超えた「力」、こいつが備わっているかのような錯覚の類。
 「権勢」とは、他人を自在に動かせる類の能力。策略家あるいはマキャベリズム、呼び方は何でもいい。
 そうしてもたらされた「栄華」、これはソロモンの栄華と似て非なるものか、大同小異か。

 イエスはこの試みを克服して、私たちに福音を届けてくれた。
(それで私も、こうして何やら書くことがかなっている。)
 それと同時に、イエスは身を挺して「サタンとはどんなヤツか」を教えてくださったようにも思う。

 すると「サタンの試み」というのは、私たちが日常接し続けている類のものだろう。
 衣食が足りると、その衣食を二倍にしようとする。
 そのために策略を練ってばかりいる。
 礼節なんぞお構いなしに。
 イエスが伝える福音は、「ここ」からの救いだ。
(「ここ」とは、言い換えると「罪」だ。)

 ところで私はかつて、「教会学校の教師」というものをやっていた頃がある。
 そして、聖壇に立って、上の聖書箇所でメッセージをした。「2003年1月12日」とある。
 聖書箇所もメッセージ内容も、「教材」(!)の指示通りなのだが、私は予め原稿を作るタイプだった。その日の書き出しは、こうだ。「高校3年生や中学3年生の人は、今年受験ですね。今、最後の猛勉強をしていることと思います。」、赤面ものだ。
 こういうのを、身の丈知らずという。
 自分の力量をはるか超えて、聖壇の高所から何やらやっていた。
 竹馬に乗って身長を測っても、すぐにコけてしまうもののようだ。

 衣食が足りると、その衣食を二倍にしようとする。
 そのために、身の程知らずが策略ばかり練っている。

 私だってそうだし、誰だって、そうだ。自覚があるかどうかが違うだけで。
 私は福音を、ことのほか有り難く受け取っている。

 過日の教会学校時代、牧師は私に次のように指導した。
 「原稿から離れてアドリブをやろうとすると、そこにサタンが入り込む……」。
 サタンは、おみくじの「大凶」の類とは全く異なる。
 むしろ、「大吉」の中にこそ、含まれている。
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pride

 「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。」(ローマ3:27)

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 " pride " 、しばらく前から、このことばが世間でよく飛び交っているようです。
 ほどほどの自尊心は、あるいは必要かも知れません。
 この "pride " とは、果てなく上に続いているハシゴのようなものかも知れません。
 「自負」まで昇ってゆくと、もはや「重たいもの」を背負い始めてしまうようです。まだ下の地面は見えるようですが。
 「プライド」、もう化け物です。あまりに上に昇りすぎて、自分が一体どこにいるのかさっぱり分からないし、足下がおぼつかないので降りたいのですけど、「降りる」という「行為」すらままなりません。

 昇ってしまったハシゴから下りるには、力づくではだめで、「信仰」が必要なようです。
 そうして、一歩、また一歩と、恐る恐る降りてゆく。「信仰」によって。

 いつか、広い大地で寝そべることができますよ。
 安心しきって、大の字で。
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どうしても必要なこと

 「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:38-42)

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 帰路、「今日は『この聖書箇所』を使おう、さて、どこだっけ」と、車中聖書をめくり始める。
 めくってみて、ルカ伝にあることはすぐに分かった。そして、この聖書箇所は前にも使ったよな、ということにも、すぐに気付いた。
 帰宅して自分のブログ内を検索する。「マルタ」と入力、ぽん。
 ヒットしたのは、全く偶然なことに、先月2月23日、ちょうど1ヶ月前の記事だった(こちら)。

 これから書こうと思っていることは、1ヶ月前とは一見違う。
 だが本質的にはおんなじだろう。

 「これは失いたくない」。
 そういう対象に、人は恐れを抱くのではなかろうか。
 対人関係でも、そうだ。
 「別離」自体が恐いのか、「別離に起因するさみしさ」を味わうことが恐いのか、ともかく「別離への恐れ」というのがあるだろう。
 お金もそうだ。
(いつだか書いた「金持ちの青年」(ボンボン)が、典型例だ。)

 だが、世の中そんなにも「失いたくないもの」ばかりで満ちあふれているだろうか?
 自分の周りにある事物に、A,B,C,……と記号を振ってみる。Zまで。
 すると、「R」あたりは、いの一番に不要だと気付く。放棄する。
 それから、「D」、こいつも、ま、いいかな…、と、これも手放す。
 そうやって消去法でどんどん消してゆく。
 イエスは仰った。
 「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」

 消去法で消して消して、そうすると「恐れ」も次々と消え去ってゆく。
 なにしろ「恐れ」の由来を消し去るのだ。
 そうやって、きっぷ良く消すという作業をするために、あるいは聖書を読み続けていたのかも知れない。
 「恐れ」が少なくなると緊張度も低くなり(構える必要がない)、結果、私の場合は「静か」になってきている。
 そしてもちろん、「すこやか」だ(構えないのでストレスが少ないんでしょう)。

 マルタは、客の接待に料理に、実に忙しい。
 そんなマルタだから、「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」なんていう腹立ちを隠そうとすらしない。
 そんなヒステリック・マルタにイエスは仰った。
 「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」

 そうして消していった最後の一つ「X」、これは自分のいのちですらないかも知れない。
 そのとき(「どのとき」だろう?)、私はこう振り返るに違いない。
 「なんで『あんなもの』や『こんなもの』に、あれほどまで執着していたのだろう?」と。
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信じる、ということ

 「イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」(マルコ11:22-23)

 「ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。
 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。
 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。
 そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」
 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。
 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。
 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」(マルコ5:25-34)

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 「長血の女」の箇所。

 弟子たちがイエスに言ったとおり、イエスにはたくさんの人々が触れていた。抱きつく人さえ、いたかも知れない。
 しかし、彼らには何も起こらない。
 彼らの「山」は、びくりとも動かない。

 一方「長血の女」は、信じて疑わなかった。
 彼女の中の「山」が動く。

 「心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります」。

 私は静かですこやかです。
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やましいところ

 「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。
 自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。
 わたしを裁くのは主なのです。」(1コリント4:3-4新共同訳)

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 表だって裁くことを避けることは、まあ、できるでしょう。
(でもとても難しいですね。)
 こころの中では、私などは、つぶやいたり裁いたりといったことが多いもんです。

 パウロは、自分自身をすら裁かないほどとのこと。
 やましいところがないのも当然でしょう。
 非難めいて書いているようですけど、違います。
 「自分と仲直り」、「自己受容」……、ことばは何でもいいんですが、救世主に救われた和解の結果、まあ自他を裁く必要がないのだろうと思います。
 私も、自分自身の弱さ醜さ、こいつらは認めた上で、こころの中でつぶやき裁き続けます。
 自認しているので、「人からどう思われるか」という自意識の部分は、大分「ラク」になりました。
 でも法廷はいやですが。
 いやですけど、相手側や裁判官の言動だって、私を損ないません。彼らは職業上または利害関係上、そうしているだけです。

 私を見ているのは、なにしろ絶対的なお方、神なのです。
 この醜い心も、もちろんお見通しです。何一つ、申し開きできません。
 上に「ラク」と書きましたが、ひらに十字架のお陰です。
 心中はこんなもんですので、かえってやましいところはないものです。
 表だった行動は、控えたいものです。
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たがために

 「イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」
 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」
 すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」
 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。」(マルコ10:17-22)

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 俗に言う「金持ちの青年」の箇所。
 「金持ちの青年」なんてのは立派すぎるので、以降「ボンボン」と記す。

 ボンボンは、「えいえんのいのち」が欲しかった。
 「永遠のいのちを自分のものとして受けるためには」、自分のものとしたいのだそうだ。
 それで、イエスに尋ねる。「尊い」とか、よいしょしてみたりもするボンボン。
 イエスはそっけない。「戒めはあなたもよく知っているはずです」。

 ボンボンいわく、「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております」。

 ボンボンはなぜゆえに戒めを守っていたのだろうか。
 自分が「えいえんのいのち」を欲しいから。
 「自分が欲しい」から、人を殺さない。
 「自分が欲しい」から、姦淫しない。
 「自分が欲しい」から、盗まない。
 そして「自分が欲しい」から、結果論で金持ちになった。

 「盗まない」のは、誰のためか。誰(た)が為(ため)に?
 「殺さない」のは、たがために?

 盗むと悲しむ者が現れ、殺すと多くの人が泣き叫ぶからではなかろうか?
 「盗まない」のは、概ね人のため。これは愛だと思う。
(「愛」と「愛情」とは、異なるような気がする。)
 「姦淫しない」のは、家族のため。これは、愛だと思う。

 ただ、誰しも専ら「自分のため」に、あらゆることを行っている。
 これは厳かな事実だ。
 私だって、自分のためを思ってしか、やっていない。
 人間には、真の愛はない。
(それで「愛」と「愛情」とが異なる気がしている。)
 なので「戒め」を、どこまで追求しても守りきれない。

 「自分のため」、そのことをはっきり気付いた上で行うのか、気付かずにやっているのか……。
 ボンボンは、後者だ。

 このボンボンは、なるべくして金持ちになり、当然に悲しみ立ち去る。
 イエスはこんなボンをも、いつくしまれる。
 このボンが「気付く時」が来るかも知れないのだ。神によって「針の穴」を通ることがありうる、しかも大いにありうる。
 イエスはだから、どの人をも拒まず受け入れ、いつくしまれる。
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