イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
与えられたみことば
「いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。
それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」(ヨハネ17:7-8)
---
イエスの祈り。
イエスが与えるものは、パンでもなくいやしでもない。
イエスがあたえるのは、なんといってもみことばである。
みことばを与えられたときに、初めて私たちは一切を了解する。
十字架とは何か、復活とは何か。
そのようにイエスを知って、御父の栄光を見る。
聖書には膨大なみことばが眠っている。
ある時、その人の必要に応じた1つのみことばが、その人に入り込んでくる。
それがどのみことばかは、わからない。
ただ、そういうことが起こるのは、その人が未曾有の悩み苦しみの中にいるときであることは間違いない。
悩み苦しみの中でこころ砕けてやわらかくなっている、正にそのようなときに、イエスが1つのみことばを投げ込んでくる。
その投げ込まれたみことばが鍵となって目からうろこが落ち、聖書のみことばたちは有機的に結びつき、「わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたこと」が最早自明のこととなる。
だから、信仰というのは自分から信じるといった自律的な営みではなく、与えられたみことばによって信じさせられるものである。
---
[1版]2011年 5月15日
[2版]2014年10月26日(本日)
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それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」(ヨハネ17:7-8)
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イエスの祈り。
イエスが与えるものは、パンでもなくいやしでもない。
イエスがあたえるのは、なんといってもみことばである。
みことばを与えられたときに、初めて私たちは一切を了解する。
十字架とは何か、復活とは何か。
そのようにイエスを知って、御父の栄光を見る。
聖書には膨大なみことばが眠っている。
ある時、その人の必要に応じた1つのみことばが、その人に入り込んでくる。
それがどのみことばかは、わからない。
ただ、そういうことが起こるのは、その人が未曾有の悩み苦しみの中にいるときであることは間違いない。
悩み苦しみの中でこころ砕けてやわらかくなっている、正にそのようなときに、イエスが1つのみことばを投げ込んでくる。
その投げ込まれたみことばが鍵となって目からうろこが落ち、聖書のみことばたちは有機的に結びつき、「わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたこと」が最早自明のこととなる。
だから、信仰というのは自分から信じるといった自律的な営みではなく、与えられたみことばによって信じさせられるものである。
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イエスを知るということ
「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。
それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17:1-3)
---
イエスの御父への祈り。
聖書はいったい、何のためにあるのだろう。
人の魂が救済されるためのものだろう。
世界や宇宙の全ての事物が書かれているわけではないし、また、その必要もない。
イエスの十字架と復活が、手を変え品を変えて書かれている書物である。
ただ、読んで理解したから魂が救済されるというわけではない。聖書は教科書ではない。
「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」とあり、全くそうなのだが、この箇所を読んでただ文意を理解したというだけでは、おそらく何もないだろう。
イエスを知る、イエスに出会う、ということは、文意の理解、頭の上だけの理解ではなく、体験である(参/黙3:20)。
このようにイエスに出会う体験をして永遠のいのちに授かるという、このような救いの道が十字架への道である。
この十字架の道は、まさにこれからイエスが切り開く。
私たちは、イエスが切り開いたその道を歩んでゆく。
つばきをかけられ殴られ、鞭で打たれ十字架に掛けられて死ぬ、そのような苦しみの道だ。かつてなかったほどの大きな苦しみが、間断なく襲い続ける。
そして死んだ後に復活のイエスに出会って、そのイエス同様復活する。
そのときに、自分の体験した苦しみは、あのイエスの道だったのだとわかる。
しかし一体、どのようにしてその道を歩むこととなるのか。
「それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、」ということに尽きるだろう。
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それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17:1-3)
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イエスの御父への祈り。
聖書はいったい、何のためにあるのだろう。
人の魂が救済されるためのものだろう。
世界や宇宙の全ての事物が書かれているわけではないし、また、その必要もない。
イエスの十字架と復活が、手を変え品を変えて書かれている書物である。
ただ、読んで理解したから魂が救済されるというわけではない。聖書は教科書ではない。
「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」とあり、全くそうなのだが、この箇所を読んでただ文意を理解したというだけでは、おそらく何もないだろう。
イエスを知る、イエスに出会う、ということは、文意の理解、頭の上だけの理解ではなく、体験である(参/黙3:20)。
このようにイエスに出会う体験をして永遠のいのちに授かるという、このような救いの道が十字架への道である。
この十字架の道は、まさにこれからイエスが切り開く。
私たちは、イエスが切り開いたその道を歩んでゆく。
つばきをかけられ殴られ、鞭で打たれ十字架に掛けられて死ぬ、そのような苦しみの道だ。かつてなかったほどの大きな苦しみが、間断なく襲い続ける。
そして死んだ後に復活のイエスに出会って、そのイエス同様復活する。
そのときに、自分の体験した苦しみは、あのイエスの道だったのだとわかる。
しかし一体、どのようにしてその道を歩むこととなるのか。
「それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、」ということに尽きるだろう。
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すでに世に勝ったのです
「見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:32-33)
---
十字架を前にしての、イエスの実質的に最後のメッセージ。
イエスの十字架の道は、イスカリオテ・ユダの裏切りによって既に始まっている。
他の弟子たちも自己保身からイエスを一人残してしまうこととなる。
ところが、その中で十字架の道を歩むことこそ「世に勝った」ことなのだとイエスは言う。
ちなみに、世「で」勝った、この世の中での勝利者に登り詰めたという意味ではない。
神の子イエスは世を救うために、受肉してこの世に来られた。
十字架の道、すなわち自らの肉を極刑の十字架で処分し、そのことを御父に認めていただいて復活する、そのことによって世を救おうとしている。
そして、この十字架と復活を信じる者は、出会ったイエスから「いのち」を得て世から救い出される。
イエスはこのようにして、ご自身がこの世に来られたことの目的を達成する。
イエスの言う「世に勝った」とは、世からの救いというこの目的を達成したことを指す。
そして私たちは、イエスによって世から救われたのである。
イエスが世から救い出した者は、自身もイエスと同じ道を歩んでいると分かっているので平安がある。それは、この世にあってのいわゆる平安とは異質のものだ(ヨハネ14:27)。
イエスから救い出された彼は、この世にあってもこの世の者ではない。
それがゆえに、「世にあっては患難があります」。
イエスは、「しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」とエールを送っている。
イエスに出会った者はイエス同様、「すでに世に勝ったのです」。
---
[一版]2009年 6月14日
[二版]2011年 5月 5日
[三版]2014年10月11日(本日)
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わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:32-33)
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十字架を前にしての、イエスの実質的に最後のメッセージ。
イエスの十字架の道は、イスカリオテ・ユダの裏切りによって既に始まっている。
他の弟子たちも自己保身からイエスを一人残してしまうこととなる。
ところが、その中で十字架の道を歩むことこそ「世に勝った」ことなのだとイエスは言う。
ちなみに、世「で」勝った、この世の中での勝利者に登り詰めたという意味ではない。
神の子イエスは世を救うために、受肉してこの世に来られた。
十字架の道、すなわち自らの肉を極刑の十字架で処分し、そのことを御父に認めていただいて復活する、そのことによって世を救おうとしている。
そして、この十字架と復活を信じる者は、出会ったイエスから「いのち」を得て世から救い出される。
イエスはこのようにして、ご自身がこの世に来られたことの目的を達成する。
イエスの言う「世に勝った」とは、世からの救いというこの目的を達成したことを指す。
そして私たちは、イエスによって世から救われたのである。
イエスが世から救い出した者は、自身もイエスと同じ道を歩んでいると分かっているので平安がある。それは、この世にあってのいわゆる平安とは異質のものだ(ヨハネ14:27)。
イエスから救い出された彼は、この世にあってもこの世の者ではない。
それがゆえに、「世にあっては患難があります」。
イエスは、「しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」とエールを送っている。
イエスに出会った者はイエス同様、「すでに世に勝ったのです」。
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イエスが御父についてはっきりと告げる時
「これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。
その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。
それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。
わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。」
弟子たちは言った。「ああ、今あなたははっきりとお話しになって、何一つたとえ話はなさいません。
いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」(ヨハネ16:25-30)
---
イエス・キリストが御父についてはっきりと告げる時のことについて。
一人語りをする。
もうずいぶんと前、教会に通い始め聖書を読み始めた頃のこと、1つの大きな疑問を私は持った。
「このイエスってのは、…誰だ?」
御父というのは神様であるから、少なくとも観念上は分かる。御霊というのも、きっとおられるであろう。しかし、このイエスという人が誰でどんな役割を果たしているのだろうか。
私のこの疑問は、教会の誰にも尋ねることができなかった。どの人もイエスを自明のものとしていて、慈しみ深いイエスと賛美している。
混乱すら覚えた。慈しみ深いというのなら、長生きして惜しまれて亡くなりましたとなるのが自然ではないだろうか、など。また、単に慈しみ深いというのなら、イエスに限らず、そう言う人はいくらでもいるだろう。
今の私は、上に書いたようには思っていない。
「イエス・キリストが御父についてはっきりと告げる時」というのは、そういうときが私たちに訪れるからだ。
そのとき私たちは、イエスに出会い、一切を了解し、このイエスが神から出てきたことをはっきりと悟る。
ただ、そのことは、「もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。」、すなわち十字架という極刑の死と復活、言い換えると全ての人の肉を処分するわざを成就させてからのことである。
イエスは、御父による罪の赦しのために十字架に架かるのであり、その十字架を受け入れることのできた人は、このイエスを介して御父との和平を得る。
御父の前に罪ある身にもかかわらず、その罪が許されたのだ。
そして聖書の目的の第一は、この罪の赦しと御父との和平にある。
弟子たちは、「いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」と言っているが、例によって早とちりだ。
しかし彼らは復活のイエスに一番最初に出会った人々になる。
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その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。
それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。
わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。」
弟子たちは言った。「ああ、今あなたははっきりとお話しになって、何一つたとえ話はなさいません。
いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」(ヨハネ16:25-30)
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イエス・キリストが御父についてはっきりと告げる時のことについて。
一人語りをする。
もうずいぶんと前、教会に通い始め聖書を読み始めた頃のこと、1つの大きな疑問を私は持った。
「このイエスってのは、…誰だ?」
御父というのは神様であるから、少なくとも観念上は分かる。御霊というのも、きっとおられるであろう。しかし、このイエスという人が誰でどんな役割を果たしているのだろうか。
私のこの疑問は、教会の誰にも尋ねることができなかった。どの人もイエスを自明のものとしていて、慈しみ深いイエスと賛美している。
混乱すら覚えた。慈しみ深いというのなら、長生きして惜しまれて亡くなりましたとなるのが自然ではないだろうか、など。また、単に慈しみ深いというのなら、イエスに限らず、そう言う人はいくらでもいるだろう。
今の私は、上に書いたようには思っていない。
「イエス・キリストが御父についてはっきりと告げる時」というのは、そういうときが私たちに訪れるからだ。
そのとき私たちは、イエスに出会い、一切を了解し、このイエスが神から出てきたことをはっきりと悟る。
ただ、そのことは、「もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。」、すなわち十字架という極刑の死と復活、言い換えると全ての人の肉を処分するわざを成就させてからのことである。
イエスは、御父による罪の赦しのために十字架に架かるのであり、その十字架を受け入れることのできた人は、このイエスを介して御父との和平を得る。
御父の前に罪ある身にもかかわらず、その罪が許されたのだ。
そして聖書の目的の第一は、この罪の赦しと御父との和平にある。
弟子たちは、「いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」と言っているが、例によって早とちりだ。
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