強者

 「彼は心の中で言う。
 「私はゆるぐことがなく、代々にわたって、わざわいに会わない。」
  彼の口は、のろいと欺きとしいたげに満ち、
  彼の舌の裏には害毒と悪意がある。
  彼は村はずれの待ち伏せ場にすわり、
  隠れた所で、罪のない人を殺す。
  彼の目は不幸な人をねらっている。
  彼は茂みの中の獅子のように
  隠れ場で待ち伏せている。
  彼は悩む人を捕えようと待ち伏せる。
  悩む人を、その網にかけて捕えてしまう。
  不幸な人は、強い者によって砕かれ、うずくまり、
  倒れる。
  彼は心の中で言う。
 「神は忘れている。顔を隠している。
  彼は決して見はしないのだ。」(詩10:6-11)

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 この詩の作者による強者像、イメージ。

「私はゆるぐことがなく、代々にわたって、わざわいに会わない」、彼らは本当にそう思っている。
 詳しくは書けないが、代々に渡って濃縮されて、もうどうしようもないのがたまにいる。
 苦労知らずなものだから、他人の苦しみ悲しみも知ったことではない。
 辛い思いをした者だけが人の辛さをわかることができるということは、彼らを見ていると納得がいく。
 そして不幸な人は「強い者によって砕かれ、うずくまり、倒れる」。
 大体はこうであり、強きを助け弱きをくじくようになっている。もう、うんざりする。
 しかし、そうではない真の強者が現れたのだ。
 ナザレのイエスこそ、その人であった。

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[一版]2020年 4月20日
[二版]2023年 9月24日

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無頼派

 「悪者どもは、よみに帰って行く。
  神を忘れたあらゆる国々も。
  貧しい者は決して忘れられない。
  悩む者の望みは、いつまでもなくならない。

  主よ。立ち上がってください。
  人間が勝ち誇らないために。
  国々が御前で、さばかれるために。
  主よ。彼らに恐れを起こさせてください。
  おのれが、ただ、人間にすぎないことを、
  国々に思い知らせてください。」(詩9:17-20)

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 「人間が勝ち誇らないために」、「ただ、人間にすぎないことを」。
 神を知らない人というのがある。
 己をのみ頼り他人に目が向かない。人をどう利用しようかとばかり考えている。
 神にも何にも頼らない無頼派といえばいいのだろうか。

 私は弱い者ではあるが、神と共にあることの満足感がある。
 ただ、いかんせん本当に弱いので、この世では彼ら勝ち誇った無頼派には到底叶わない。
 しかし彼ら無頼派はいったい何がどれだけあれば満足できるのだろう。ありもしないものをただ追い続けているだけなのではないか。
 人が「ただ、人間にすぎない」と分かるのは、神を知ってこそなのだろう。

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[一版]2020年 4月19日
[二版]2023年 9月23日

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心と思いを調べる神

 「主は諸国の民をさばかれる。
 主よ。私の義と、私にある誠実とにしたがって、
 私を弁護してください。
 どうか、悪者の悪があとを絶ち、
 あなたが正しい者を堅く立てられますように。
 正しい神は、心と思いを調べられます。」(詩7:8-9)

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 私は、こいつぶん殴ってやろうかとか、蹴飛ばしたろか、嫌がらせしてやるなどと思い浮かぶことが職場ではよくある。
 少し前に、イタリアの修道院でうつ病になってしまったシスターの話を聞いたが、修道院という大人数のいる職場なのだからこういう思いが湧くのは当たり前なのにその自分を押し殺し続けてしまったのかもしれない。一方で、詩篇で詩を詠む人々は、自分の思いを神にぶっつけている。
 ただ、私は、ぶん殴ってやるとはいつも思っていても、ぶん殴ったことは一度もない。
 ぶん殴ることが悪いことだからではない。傷害罪に当たるからでも懲戒処分が下るからでもない。
 ぶん殴った直後から激しい後悔の念に襲われることが明らかだからである。
 つまり、いやな思いをしているのだが、最高にいやな思いはしたくなくて、それで殴らないだけであり、情けないといえば情けないのかもしれない。
 「正しい神は、心と思いを調べられます」、私に激しい後悔を予感させるのは、私が信じる御父のこのご性質によることは間違いない。
 しかし人をぶん殴っても何とも思わない人は少なくない。日々の通勤電車の中でもたまにあると同僚から聞いた。思い出したが自分もある。あっけにとられるばかりだった。
 どちらの方がいいだろうか。
 内心を調べる御父を喜ぶ生き方と、それと、他人に勝ったと思ってはいるが他の誰もそうとは思わないあのマウント取りという不可解な優越感に浸る生き方と。

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[一版]2020年 4月12日
[二版]2023年 9月18日

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私は衰えております

 「主よ。御怒りで私を責めないでください。
  激しい憤りで私を懲らしめないでください。
  主よ。私をあわれんでください。
  私は衰えております。
  主よ。私をいやしてください。
  私の骨は恐れおののいています。
  私のたましいはただ、恐れおののいています。
  主よ。いつまでですか。あなたは。」(詩6:1-3)

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 今、私は衰えており、恐れおののいている。
 大抵の困難は、過去にも経験したことであり、恐れることもなく忍耐しているうちに、気づくと抜け出ている。
 しかし今は違う。自分の今までの経験があまり生きそうにない。
 御父が激しい憤りで私を懲らしめているかのようだ。

 ダビデ王は、この詩で似た苦しみを御父に祈っている。
 祈りとは神とのおはなしと言え、その神とのおはなしの中でダビデ王は「私は衰えております」と吐露する。
 祈りの中で、私たちは御父にそれこそ何でも訴えることができ、また、喜びを共にすることができる。
 信仰者である私たちは、けっして一人ではないのである。
 上の「私は衰えております」という吐露は周囲にはなかなか言いづらい。だが、真のお父様にだけはそれを気軽に話せる。
 そして、このお父様はいつも私たちを支え続けてくださっている。御怒りもまた、私たちを支えるためなのだろうと素直に思える。

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心の真の喜び

 「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。
 平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」(詩4:7-8)

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 真に心の喜びとなるものはなんであろう。
 これはどの人にとっても、実はそう変わらないのではないか。

 穀物やぶどう酒の豊富さ、潤沢な預貯金といった物質的なものは、心を満たすどころか、かえって虚無に陥ってしまうものらしい。
 地位や名誉も、心を満たすものではない。チンギスハンが広大な版図を手中にして諸地域の総督を首都の宮殿に集めひれ伏せさせたとき、彼は虚しさしか感じなかったそうだ。「なんだこれだけのことか」。(この話は内村鑑三のどれかの本に書かれていた。)
 ソロモン王が著した伝道者の書(コヘレトの言葉)を読むと、これらのことがとてもわかりやすい。
 街に満ちる刺激の類いもまた、心の喜びにつながらない。
 むしろその逆で、心に喜びがないからこそ刺激で麻痺させているのではないか。しかし、この刺激がいっときのごまかしにしかならないことを多くの人は知っている。

 心の喜びとは、奥底から湧き出るある種の満足感のことだと自分は思う。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:38)とイエスが言うとおりである。
 これは他人との比較のしようがないので、物質的豊かさや地位名誉のように他人と比べてマウントを取る類いのものではない。自分に満足感があればよく、この満足感は和解した御父との関係性に由来する。

 先に挙げたソロモン王は言っている。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。」(伝12:1)

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[一版]2020年 4月 5日
[二版]2023年 9月10日

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なんと私の敵がふえてきたことでしょう

 「 主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。
 多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない。」と。セラ
 しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。」(詩3:1-3)

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 和を以て貴しとなす日本という国では、たとえば学校で、いじめられた子が転校に追いやられ、いじめた子たちは不問とされる。和の中では善悪などでは動いておらず、和を乱したとされる者を追い出すのである。このような国では、できるだけ目立たず突出しないことが処世訓となるのだが、イエスにある者は、そのこと自体が突出することになるかもしれない。

 じっさいイエスにある者は、「なんと私の敵がふえてきたことでしょう」ということをしばしば経験するように思う。イエスは12弟子に、「わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。」(マタイ10:22)と教えている。

 しかし、そのような状況に置かれても、イエスが私たちを支え続けてくれているし、私たちもイエスに頼り続けている。イエスを信じるが故に敵が増えても、かえってイエスの有り難みがいや増すのである。イエスはイエスの羊であるわたしたちを守り通す。

 そうこうしているうちに、今までの圧力が少しずつ和らいでくる。私には何度もこういうことがある。このような期間に私はイエスの盾の中におり突出することを避けていたからかもしれないが、やはりすべてを治める御父のお取りはからいだろう。「なんと私の敵がふえてきたことでしょう」ということに遭ったらそれはトレーニングでありイエスの愛なのだろう。

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