イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
新生とやり直しの違いについて
「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3:1-8)
---
イエスと議員ニコデモとの問答。
ニコデモの話を遮るかのように、イエスは言い放つ。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
対するニコデモは、「もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」などとこぼす。
もう一度胎内から出てくるとニコデモが言っているのは、つまるところ、人生をもう一度やり直すということだ。
だが、イエスが言っていることは、やり直しではない。全く異なる。
新しく生まれるということである。
やり直しではなく、新しく生まれること、これが「いのち」である。
やり直しはメッキにすぎず、こすればはがれて元と変わらない「地」が顔をのぞかせる。
肉がやり直しをしても、所詮は罪深い肉で変わるところがないからだ。
一方、産みの苦しみを経て新しく生まれるときには、表は変わらないのだが、礎石がしっかりと据え付けられる(参/マタイ21:42)。
このとき肉は御父によって赦され、霊が私を生かすようになり、生きる原理が一瞬にして変わる。「地」が変わるのである。
そして、そのようなことは「風」が起こす。
「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない」。
このようなつかみ所のない風、自分ではどうすることもできない風が、ただ神の御恵みによって自分に吹くときに「御霊によって生まれる者」とされるのである。
やり直すことと新しく生まれることは全く違うし、自力でできるか風頼みかということも全く違う。
---
[一版] 2010年11月20日
[二版] 2012年 9月28日
[三版] 2014年 5月24日(本日)
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この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3:1-8)
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イエスと議員ニコデモとの問答。
ニコデモの話を遮るかのように、イエスは言い放つ。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
対するニコデモは、「もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」などとこぼす。
もう一度胎内から出てくるとニコデモが言っているのは、つまるところ、人生をもう一度やり直すということだ。
だが、イエスが言っていることは、やり直しではない。全く異なる。
新しく生まれるということである。
やり直しではなく、新しく生まれること、これが「いのち」である。
やり直しはメッキにすぎず、こすればはがれて元と変わらない「地」が顔をのぞかせる。
肉がやり直しをしても、所詮は罪深い肉で変わるところがないからだ。
一方、産みの苦しみを経て新しく生まれるときには、表は変わらないのだが、礎石がしっかりと据え付けられる(参/マタイ21:42)。
このとき肉は御父によって赦され、霊が私を生かすようになり、生きる原理が一瞬にして変わる。「地」が変わるのである。
そして、そのようなことは「風」が起こす。
「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない」。
このようなつかみ所のない風、自分ではどうすることもできない風が、ただ神の御恵みによって自分に吹くときに「御霊によって生まれる者」とされるのである。
やり直すことと新しく生まれることは全く違うし、自力でできるか風頼みかということも全く違う。
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宮清め
「ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、
細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、
また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。」と書いてあるのを思い起こした。
そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」
イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。
そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」
」(ヨハネ2:13-20)
---
宮清めとして知られる箇所。
神殿は、もはや神殿というよりも「商売の家」に堕していた。
「牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たち」というのはどちらも、捧げものを神殿で融通できるようにした商人たちで、宮参りに来る人々にとってもコンビニエントな存在というのは確かなことだ。宮参りに来る人が遠くから牛を引っ張ってくるのは、確かに難儀だろう。
この聖書箇所には書いていないが、思うに、この商人たちは売り上げの一部や場所代その他もろもろを支配階級であるサドカイ人に納め、その見返りに神殿内でのこの独占的な商いを許可してもらっていたことだろう。宮参りをする利用者も便利だと喜んでいる。
なんのことはない、現代の日本や世界でごくありふれた利権の構図にすぎない。
問題は、そのような利権が神殿という聖なる場でまかり通っていることであり、それでイエスは怒った。
「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
そして、この神殿はだめなので壊して、本当の神殿を建てる。それも三日で建てると約束する。
ちなみに、その本当の神殿とは、復活のいのちにあずかった私たち自身のことである。
終わりの日というのは、この宮清めの相似形であるかもしれない。
この世界は御父が造られたのであるから、やはり聖なる場であるだろう。
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そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、
細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、
また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。」と書いてあるのを思い起こした。
そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」
イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。
そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」
」(ヨハネ2:13-20)
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宮清めとして知られる箇所。
神殿は、もはや神殿というよりも「商売の家」に堕していた。
「牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たち」というのはどちらも、捧げものを神殿で融通できるようにした商人たちで、宮参りに来る人々にとってもコンビニエントな存在というのは確かなことだ。宮参りに来る人が遠くから牛を引っ張ってくるのは、確かに難儀だろう。
この聖書箇所には書いていないが、思うに、この商人たちは売り上げの一部や場所代その他もろもろを支配階級であるサドカイ人に納め、その見返りに神殿内でのこの独占的な商いを許可してもらっていたことだろう。宮参りをする利用者も便利だと喜んでいる。
なんのことはない、現代の日本や世界でごくありふれた利権の構図にすぎない。
問題は、そのような利権が神殿という聖なる場でまかり通っていることであり、それでイエスは怒った。
「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
そして、この神殿はだめなので壊して、本当の神殿を建てる。それも三日で建てると約束する。
ちなみに、その本当の神殿とは、復活のいのちにあずかった私たち自身のことである。
終わりの日というのは、この宮清めの相似形であるかもしれない。
この世界は御父が造られたのであるから、やはり聖なる場であるだろう。
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ナタナエルはナタナエルだから目を掛けられたのか
「ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。
彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」
イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」
ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」
ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」(ヨハネ1:44-49)
---
ここでもピリポやナタナエルが早合点をしているが、それは措く。
ピリポがイエスをナタナエルに紹介する。
しかし、イエスはそれより前から、ナタナエルがいちじくの木の下にいたのを見ていた。
他の多くの人々も、そこにはいただろう。
だが、イエスの目にとまったのはナタナエルなのである。
それは、ナタナエルがなにがしかの点でひとかどの人物だというよりは、イエスの目にたまたまナタナエルが目に入ったにすぎない。
他の誰かがイエスの目にとまったとしても、全くおかしくはない。たまたまなのだ。
私たちについても、そのことがあてはまる。
私たちが復活のイエスに見いだされるとすれば、私たちの行ない、人格または立派さなどによってではない。
もし、そのような観点で見いだされるのであれば、救われる人はきわめて希であろうし、また、そうした人を個人的に救えばよいのであれば、十字架と復活という救世主としてのわざをなす必要もなかったろう。
私たちが復活のイエスに見いだされるとすれば、もっぱら恵みによってである。
いいかえると、復活のイエスにたまたま目に入った人が救われる。
私たちがやることは、行ないではなく、求め続けることである。「たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)は、確かな約束なのである。
この復活のイエスは、救いを求めるすべての人に目を掛けてくださっている。
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彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」
イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」
ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」
ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」(ヨハネ1:44-49)
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ここでもピリポやナタナエルが早合点をしているが、それは措く。
ピリポがイエスをナタナエルに紹介する。
しかし、イエスはそれより前から、ナタナエルがいちじくの木の下にいたのを見ていた。
他の多くの人々も、そこにはいただろう。
だが、イエスの目にとまったのはナタナエルなのである。
それは、ナタナエルがなにがしかの点でひとかどの人物だというよりは、イエスの目にたまたまナタナエルが目に入ったにすぎない。
他の誰かがイエスの目にとまったとしても、全くおかしくはない。たまたまなのだ。
私たちについても、そのことがあてはまる。
私たちが復活のイエスに見いだされるとすれば、私たちの行ない、人格または立派さなどによってではない。
もし、そのような観点で見いだされるのであれば、救われる人はきわめて希であろうし、また、そうした人を個人的に救えばよいのであれば、十字架と復活という救世主としてのわざをなす必要もなかったろう。
私たちが復活のイエスに見いだされるとすれば、もっぱら恵みによってである。
いいかえると、復活のイエスにたまたま目に入った人が救われる。
私たちがやることは、行ないではなく、求め続けることである。「たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)は、確かな約束なのである。
この復活のイエスは、救いを求めるすべての人に目を掛けてくださっている。
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信仰の根拠
「その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、
イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。
ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」
イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は十時ごろであった。
ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。
彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。」と言った。」(ヨハネ1:35-41)
---
アンデレは晩までイエスと共にいた。
そこで、ふたりがどのような会話をかわしたのか、あるいは奇蹟の類を見たのか、それはわからないが、アンデレは、イエスを救世主と信じるだけの根拠を得られたのだろうか。
信仰とは、与えられるものであり、得るものではない。
信じようと思って信じるものではなく、信じさせられるのである。
そのように受動的なものであるから、何によって信じさせられたかという根拠が信仰には明確にある。
さらに言うと、信仰とはねじ伏せられて承伏するしかないというほどのもので、何にねじ伏せられたかなど、大きな根拠が伴う。ただ、その根拠をうまく他人に説明できるかどうかとは、また別であり、アウグスティヌスはその説明をうまくできた希有な人かもしれない。
だから、上のアンデレはあまりに軽はずみなのである。好人物と出会ってうれしかったという程度のことだと思う。
そのアンデレも、のちに復活のイエスとの出会いを通して信仰せざるを得なくなる。
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イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。
ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」
イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は十時ごろであった。
ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。
彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。」と言った。」(ヨハネ1:35-41)
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アンデレは晩までイエスと共にいた。
そこで、ふたりがどのような会話をかわしたのか、あるいは奇蹟の類を見たのか、それはわからないが、アンデレは、イエスを救世主と信じるだけの根拠を得られたのだろうか。
信仰とは、与えられるものであり、得るものではない。
信じようと思って信じるものではなく、信じさせられるのである。
そのように受動的なものであるから、何によって信じさせられたかという根拠が信仰には明確にある。
さらに言うと、信仰とはねじ伏せられて承伏するしかないというほどのもので、何にねじ伏せられたかなど、大きな根拠が伴う。ただ、その根拠をうまく他人に説明できるかどうかとは、また別であり、アウグスティヌスはその説明をうまくできた希有な人かもしれない。
だから、上のアンデレはあまりに軽はずみなのである。好人物と出会ってうれしかったという程度のことだと思う。
そのアンデレも、のちに復活のイエスとの出会いを通して信仰せざるを得なくなる。
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恵みに代えて恵みを
「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」(ヨハネ1:16-17)
---
「恵みの上にさらに恵み」という箇所は、「恵みに代えて恵みを」とも訳せるとのこと(新改訳聖書2版の注釈欄より)。文脈のつながりを考えると、個人的には後者の方が分かりがいい。
私たちの肉は、御父のいいつけにも拘わらず善悪と知識の実を食してしまう。
このことが、というよりこのようなことをする肉そのものが人間の原罪であり、私たちはこの肉ゆえに神の怒りを買っている。
しかし、私たちをお造りになった御父は、私たちに救いの手、和解の手を何度も差し伸べて下さった。
とりわけて大きなものが、モーセを介して与えられた律法、それから御子イエス・キリストを世に送って下さったこと、この2つだ。
律法とは神のルールで、それ自体を私たちに教えて下さった。これは恵みであり恩寵である。
仮に肉が律法を全うすることができれば、その肉は神と同じようになるので確かに救われる。だが、不完全きわまりない人間は神とはまるで違う。
では完全には守れもしない律法など遵守しなくともいいのかというと、それは全く違う。
どこまでも律法を突き詰めていって、それでも神の要求水準からはほど遠いということを身をもって悟るのでなければ、一体誰が本当の救いを求めるのだろうか。
だから律法が養育係というのは、確かなことなのである。
そして御子イエス・キリストがその肉を養育係から引き継ぐ。
十字架と復活という「まこと」が肉を処罰し、恵みによって人に赦しを与える。
私たちの肉が処罰されるのではない。御子のかりそめの肉が、十字架という極刑に身代わりに架かるのである。
律法を遵守できない私たちの肉は極刑に値するのに、神は御子を通して私たちを逆に赦し、和解へと導いて下さった。
律法を授けて下さったこと、それから御子を世に遣わしてくださったこと、この2つは神の私たちへの大きな愛、差し伸べた握手の手なのであり、特に御子については「恵みに代えて恵みを」与えて下さったのである。
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というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」(ヨハネ1:16-17)
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「恵みの上にさらに恵み」という箇所は、「恵みに代えて恵みを」とも訳せるとのこと(新改訳聖書2版の注釈欄より)。文脈のつながりを考えると、個人的には後者の方が分かりがいい。
私たちの肉は、御父のいいつけにも拘わらず善悪と知識の実を食してしまう。
このことが、というよりこのようなことをする肉そのものが人間の原罪であり、私たちはこの肉ゆえに神の怒りを買っている。
しかし、私たちをお造りになった御父は、私たちに救いの手、和解の手を何度も差し伸べて下さった。
とりわけて大きなものが、モーセを介して与えられた律法、それから御子イエス・キリストを世に送って下さったこと、この2つだ。
律法とは神のルールで、それ自体を私たちに教えて下さった。これは恵みであり恩寵である。
仮に肉が律法を全うすることができれば、その肉は神と同じようになるので確かに救われる。だが、不完全きわまりない人間は神とはまるで違う。
では完全には守れもしない律法など遵守しなくともいいのかというと、それは全く違う。
どこまでも律法を突き詰めていって、それでも神の要求水準からはほど遠いということを身をもって悟るのでなければ、一体誰が本当の救いを求めるのだろうか。
だから律法が養育係というのは、確かなことなのである。
そして御子イエス・キリストがその肉を養育係から引き継ぐ。
十字架と復活という「まこと」が肉を処罰し、恵みによって人に赦しを与える。
私たちの肉が処罰されるのではない。御子のかりそめの肉が、十字架という極刑に身代わりに架かるのである。
律法を遵守できない私たちの肉は極刑に値するのに、神は御子を通して私たちを逆に赦し、和解へと導いて下さった。
律法を授けて下さったこと、それから御子を世に遣わしてくださったこと、この2つは神の私たちへの大きな愛、差し伸べた握手の手なのであり、特に御子については「恵みに代えて恵みを」与えて下さったのである。
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キリストの栄光
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)
---
「ことばは人となって」は、「ことばは肉となって」とも訳せるとのこと(新改訳聖書の注釈欄より)。個人的には、後者の方がずっと分かりがいい。
イエスが肉をまとっておられた頃(いわゆる公生涯)、イエスに会った人、イエスにあわれんでもらった人、イエスに敵対した人、イエスの弟子になった人、ともかく、さまざまな立場の人たちがイエスを知っており、言葉を交わしていた。
しかし、ヨハネ福音書の記者は「私たちはこの方の栄光を見た。」と書き記す。
言い換えると、イエスの中に神を見いだすのである。
そのような人々は、当時でもどの程度いただろう。
十字架で肉を処分して復活したイエス・キリストは、今に至るまでずっと「私たちの間に住まわれ」ている。
そして、わざによってではなく恵みによってイエスが私たちにお会い下さり、そのときイエスの栄光に私たちは圧倒される。
今まで被さっていた覆いが一気に取り除かれ、聖書の一節一節を了解できるようになる。
そして十字架の意味や復活などの「まこと」を了解する。それは人知によるものではない。
そのまことによって、私たちは「いのち」を得ることができた。
まさに「この方は恵みとまことに満ちておられ」るのである。
聖書は、この栄光に出会って救われるために、もっぱら存在する。
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[一版]2010年11月 6日
[二版]2014年 5月 4日(本日)
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「ことばは人となって」は、「ことばは肉となって」とも訳せるとのこと(新改訳聖書の注釈欄より)。個人的には、後者の方がずっと分かりがいい。
イエスが肉をまとっておられた頃(いわゆる公生涯)、イエスに会った人、イエスにあわれんでもらった人、イエスに敵対した人、イエスの弟子になった人、ともかく、さまざまな立場の人たちがイエスを知っており、言葉を交わしていた。
しかし、ヨハネ福音書の記者は「私たちはこの方の栄光を見た。」と書き記す。
言い換えると、イエスの中に神を見いだすのである。
そのような人々は、当時でもどの程度いただろう。
十字架で肉を処分して復活したイエス・キリストは、今に至るまでずっと「私たちの間に住まわれ」ている。
そして、わざによってではなく恵みによってイエスが私たちにお会い下さり、そのときイエスの栄光に私たちは圧倒される。
今まで被さっていた覆いが一気に取り除かれ、聖書の一節一節を了解できるようになる。
そして十字架の意味や復活などの「まこと」を了解する。それは人知によるものではない。
そのまことによって、私たちは「いのち」を得ることができた。
まさに「この方は恵みとまことに満ちておられ」るのである。
聖書は、この栄光に出会って救われるために、もっぱら存在する。
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