イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
死ぬこと、生きること
「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:39)
---
「わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」は、アダム以来の人間の回復ということをコンパクトに言い表している。
つまり、キリストの十字架に預かって「いのちを失った者は」、キリストの復活と同じようにして復活のいのちを得る。
一方、単に「自分のいのちを自分のものとした者は」、それっきりになる。
すなわち、肉に刻み込まれた罪の処理がされないのである。
「わたしのために自分のいのちを失った」とは、端的に、死ぬことだ。
死ぬと言っても、殉教だのなんだのといった肉体の死ではない。
十字架に死ぬということ、極刑を受けるということだ。
極刑はあまりに重く、かつてない苦しみに襲われる。ヨブと同じである。
ただ、その極刑によって文字通り死ぬということは、イエスが身代わりになしてくださった。
それで、私たちは肉体の死によっていのちを失う必要はない。
私たちは、このように死ぬことによって、はじめて生きる。
アダムの子孫は重罪人なので、救われるためのはこのような手荒な技が必要なのだろう。
肉の死により罪を処罰するので、復活して罪赦される。これが「いのち」である。
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「わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」は、アダム以来の人間の回復ということをコンパクトに言い表している。
つまり、キリストの十字架に預かって「いのちを失った者は」、キリストの復活と同じようにして復活のいのちを得る。
一方、単に「自分のいのちを自分のものとした者は」、それっきりになる。
すなわち、肉に刻み込まれた罪の処理がされないのである。
「わたしのために自分のいのちを失った」とは、端的に、死ぬことだ。
死ぬと言っても、殉教だのなんだのといった肉体の死ではない。
十字架に死ぬということ、極刑を受けるということだ。
極刑はあまりに重く、かつてない苦しみに襲われる。ヨブと同じである。
ただ、その極刑によって文字通り死ぬということは、イエスが身代わりになしてくださった。
それで、私たちは肉体の死によっていのちを失う必要はない。
私たちは、このように死ぬことによって、はじめて生きる。
アダムの子孫は重罪人なので、救われるためのはこのような手荒な技が必要なのだろう。
肉の死により罪を処罰するので、復活して罪赦される。これが「いのち」である。
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わたしが来たのは
「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
さらに、家族の者がその人の敵となります。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:34-39)
---
アダムの肉を有する人間は、それゆえの罪にがんじがらめになってしまい、神の御前に極刑相応の重罪人に堕してしまった。
そのことが「自分の十字架」であり、それを自覚できたならそれを背負ってイエスに従おう。
そのとき、自分に権威を振るう人(父、母、しゅうとめ)には、おのずと逆らうこととなる。
イエスがもたらすものは、このような剣であって、平和などではない。
その人のがんじがらめの罪は、平和では解決のしようがない。
罪を断罪できるのは、剣なのだ。
イエスは、この剣を与えるためにこの世に来られた。
イエスの剣の道、十字架の狭き道を通るとき、仮に肉のいのちを失おうとも、真のいのち、永遠のいのちを取り戻すことができる。
---
[付記]
本日の記事は、2008年12月24日付の記事に筆を加えたものです。
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なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
さらに、家族の者がその人の敵となります。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:34-39)
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アダムの肉を有する人間は、それゆえの罪にがんじがらめになってしまい、神の御前に極刑相応の重罪人に堕してしまった。
そのことが「自分の十字架」であり、それを自覚できたならそれを背負ってイエスに従おう。
そのとき、自分に権威を振るう人(父、母、しゅうとめ)には、おのずと逆らうこととなる。
イエスがもたらすものは、このような剣であって、平和などではない。
その人のがんじがらめの罪は、平和では解決のしようがない。
罪を断罪できるのは、剣なのだ。
イエスは、この剣を与えるためにこの世に来られた。
イエスの剣の道、十字架の狭き道を通るとき、仮に肉のいのちを失おうとも、真のいのち、永遠のいのちを取り戻すことができる。
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福音
「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。
また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ9:35-36)
---
福音を伝えるイエス。
会堂で教えること、福音を宣べ伝えること、また、病気や患いの癒しが同列に並べられている。
こういったことはみな、つまるところ「ついに救世主(キリスト)」が来ました」ということを分かってもらいたいから、それでイエスはやっている。
では、キリストが来たことの何が福音なのか。
「群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている」、イエスには群集の人々がそのように映る。
その人々にはみな、「いのち」がないのだ。
イエス・キリストは、そのような人々に「いのち」を与えて救いをもたらすためにこの世に来られた。
極刑の十字架によって肉を処罰し、三日目によみがえる。
アダムの肉はこれによって赦され、復活のキリストは恵みによってその肉の赦しをもたらす。
それが「いのち」であり、「いのち」とは例えていうと「羊飼い」である。
「いのち」は、その人をもっとも根源的なところで支えてくれるものだ。
この「いのち」の主であるキリストが遂に来られた、これが福音である。
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また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ9:35-36)
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福音を伝えるイエス。
会堂で教えること、福音を宣べ伝えること、また、病気や患いの癒しが同列に並べられている。
こういったことはみな、つまるところ「ついに救世主(キリスト)」が来ました」ということを分かってもらいたいから、それでイエスはやっている。
では、キリストが来たことの何が福音なのか。
「群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている」、イエスには群集の人々がそのように映る。
その人々にはみな、「いのち」がないのだ。
イエス・キリストは、そのような人々に「いのち」を与えて救いをもたらすためにこの世に来られた。
極刑の十字架によって肉を処罰し、三日目によみがえる。
アダムの肉はこれによって赦され、復活のキリストは恵みによってその肉の赦しをもたらす。
それが「いのち」であり、「いのち」とは例えていうと「羊飼い」である。
「いのち」は、その人をもっとも根源的なところで支えてくれるものだ。
この「いのち」の主であるキリストが遂に来られた、これが福音である。
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イエスの癒し
(1)
「この人たちが出て行くと、見よ、悪霊につかれたおしが、みもとに連れて来られた。
悪霊が追い出されると、そのおしはものを言った。
群衆は驚いて、「こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない。」と言った。
しかし、パリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言った。」(マタイ9:32-34)
(2)
「それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。
「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。
しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。」(マタイ11:20-22)
---
イエスは、病人、皮膚病の人、目や口や耳の不自由な人、さらに悪霊につかれた人々をお癒しになった。
それは、かれらをかわいそうに思ったというのもあるだろうけれども、それよりも、キリストが来られたということを明確に知らせるためだろう。
すなわち、癒しそのものが福音の知らせなのである。
癒しを見た群集は驚く。
「こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない」。
だが、「こんなこと」とその意味とが、群集には全く結びつかない。
癒しの意味が、理解されない。
そんな状況に、イエスは憤るのである。
「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。」
ツロやシドンといった昔の町々は、イエスの癒しを見てはいない。
一方、イエスの癒しを見て驚嘆したコラジンやベツサイダ(の人々)は、驚嘆するばかりで何一つ悟ることがない。
荒布をまとって灰をかぶり悔い改めることがない。
救い主が、今ここにおられるというのに。
それで、イエスは人々の頑なさに憤っている。
復活のイエス・キリストは、今も風が吹くように、様々な人を訪れて続けている。
それがキリストと分かる人の方が、稀で、幸いなのだろう。
そのときそうと分かることができるために、聖書という書物がある。
---
[付記]
本日の記事は、2008年2月11日付記事に筆を入れたものです。
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「この人たちが出て行くと、見よ、悪霊につかれたおしが、みもとに連れて来られた。
悪霊が追い出されると、そのおしはものを言った。
群衆は驚いて、「こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない。」と言った。
しかし、パリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言った。」(マタイ9:32-34)
(2)
「それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。
「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。
しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。」(マタイ11:20-22)
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イエスは、病人、皮膚病の人、目や口や耳の不自由な人、さらに悪霊につかれた人々をお癒しになった。
それは、かれらをかわいそうに思ったというのもあるだろうけれども、それよりも、キリストが来られたということを明確に知らせるためだろう。
すなわち、癒しそのものが福音の知らせなのである。
癒しを見た群集は驚く。
「こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない」。
だが、「こんなこと」とその意味とが、群集には全く結びつかない。
癒しの意味が、理解されない。
そんな状況に、イエスは憤るのである。
「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。」
ツロやシドンといった昔の町々は、イエスの癒しを見てはいない。
一方、イエスの癒しを見て驚嘆したコラジンやベツサイダ(の人々)は、驚嘆するばかりで何一つ悟ることがない。
荒布をまとって灰をかぶり悔い改めることがない。
救い主が、今ここにおられるというのに。
それで、イエスは人々の頑なさに憤っている。
復活のイエス・キリストは、今も風が吹くように、様々な人を訪れて続けている。
それがキリストと分かる人の方が、稀で、幸いなのだろう。
そのときそうと分かることができるために、聖書という書物がある。
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[付記]
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古い律法、新しい律法
「だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。
また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」(マタイ9:16-17)
---
パリサイ人が「取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」(11節)と言い、ヨハネの弟子は「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」(14節)言う、そのような文脈において。
パリサイ人の律法というのは、自らを律するものというよりはむしろ、他人に行ないをみせびらかし、また、他人を責めるためのものであった。
それは、断食という行為にしてもそうで、人様にそれをせよというような類のものだろうか。
律法のこういう解釈が、ここでいう「古い着物」であり、「古い皮袋」なのであろう。律法が、もはや律法本来の姿として機能していない。
その、律法本来の姿を回復させに来たのがイエスである。
その人に罪があるかどうか、義であるかどうかの基準として律法があるのだが、イエスの律法解釈(山上の説教参照)によれば、畢竟、肉を持つすべての人間が罪人と認定されてしまう。
これが「真新しい布切れ」であり、「新しいぶどう酒」である。
神の律法(例えば十戒)を見て、自分は守れている、そう思うのが古い律法であり、全く守れず自分は罪人だとわかることが新しい律法である。
罪人であるからこそ救いを求め、肉を十字架で殺し復活したイエスに、その救いを見る。
なぜなら罪はアダムの肉に宿るからだ。
もし律法に照らして自分を正しいとすると、この十字架は全く不必要であり、その意味において両者は全く整合性が取れなくなってしまうのである。
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また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」(マタイ9:16-17)
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パリサイ人が「取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」(11節)と言い、ヨハネの弟子は「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」(14節)言う、そのような文脈において。
パリサイ人の律法というのは、自らを律するものというよりはむしろ、他人に行ないをみせびらかし、また、他人を責めるためのものであった。
それは、断食という行為にしてもそうで、人様にそれをせよというような類のものだろうか。
律法のこういう解釈が、ここでいう「古い着物」であり、「古い皮袋」なのであろう。律法が、もはや律法本来の姿として機能していない。
その、律法本来の姿を回復させに来たのがイエスである。
その人に罪があるかどうか、義であるかどうかの基準として律法があるのだが、イエスの律法解釈(山上の説教参照)によれば、畢竟、肉を持つすべての人間が罪人と認定されてしまう。
これが「真新しい布切れ」であり、「新しいぶどう酒」である。
神の律法(例えば十戒)を見て、自分は守れている、そう思うのが古い律法であり、全く守れず自分は罪人だとわかることが新しい律法である。
罪人であるからこそ救いを求め、肉を十字架で殺し復活したイエスに、その救いを見る。
なぜなら罪はアダムの肉に宿るからだ。
もし律法に照らして自分を正しいとすると、この十字架は全く不必要であり、その意味において両者は全く整合性が取れなくなってしまうのである。
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正しい人と取税人
「イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。
すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:10-13)
---
「取税人や罪人といっしょに食事を」することがタブーとされている世界での話。
これらの人々は、律法など自分は到底守れない、それがゆえに忌み嫌われていることを自覚している。
誰が彼らを忌み嫌っているのかというと、律法を守っている、と思っているパリサイ人とその影響下にいる人々である。
イエスが言う「正しい人」とは、このパリサイ人達を指す。
律法を遵守できていると思っている、正しい人。
。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」と言えるほどの正しい人。
イエスは明言しているが、自分が来たのはこういう正しい人を招くためではない。
なぜなら、彼らを招こうにも、正しいと思っている彼らには「はぁ~?」となってしまうからだ。そもそも彼らの方が、イエスを全くお呼びでない。
イエスは罪の赦しをもたらすために、この世に来られ、十字架に架かって復活された。
この赦しのわざは、律法に照らして自身が罪深いことを自覚してはじめて、切望される。取税人達はその自覚があったので、イエスにすがった。罪をどうにかして欲しかったのだろう。
取税人も「正しい人」も、すべての人はアダムの肉を持ち、罪深い。
その肉の罪から救われるためには、その自分の罪に気付いているかどうかが別れ目となり、そのためにこそ律法がある。律法は、人を裁くためにあるのではない。
イエスは罪を悔いている人を招いている。
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すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:10-13)
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「取税人や罪人といっしょに食事を」することがタブーとされている世界での話。
これらの人々は、律法など自分は到底守れない、それがゆえに忌み嫌われていることを自覚している。
誰が彼らを忌み嫌っているのかというと、律法を守っている、と思っているパリサイ人とその影響下にいる人々である。
イエスが言う「正しい人」とは、このパリサイ人達を指す。
律法を遵守できていると思っている、正しい人。
。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」と言えるほどの正しい人。
イエスは明言しているが、自分が来たのはこういう正しい人を招くためではない。
なぜなら、彼らを招こうにも、正しいと思っている彼らには「はぁ~?」となってしまうからだ。そもそも彼らの方が、イエスを全くお呼びでない。
イエスは罪の赦しをもたらすために、この世に来られ、十字架に架かって復活された。
この赦しのわざは、律法に照らして自身が罪深いことを自覚してはじめて、切望される。取税人達はその自覚があったので、イエスにすがった。罪をどうにかして欲しかったのだろう。
取税人も「正しい人」も、すべての人はアダムの肉を持ち、罪深い。
その肉の罪から救われるためには、その自分の罪に気付いているかどうかが別れ目となり、そのためにこそ律法がある。律法は、人を裁くためにあるのではない。
イエスは罪を悔いている人を招いている。
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恵まれるために
「イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。」(マタイ9:9)
---
イエスがマタイに声を掛けられる。
では、イエスは何故マタイに声を掛けたのであろうか。
取税人だからか。罪人だからか。
それもあるかもしれない。
あるいは、自分の取税人としての職務に忠実だったからだろうか。
なんといっても、たまたまイエスの目に留まったから、それでイエスはマタイに声を掛けられた。
それを恵みの世界という。
恵みは行ないとは異なり、すべての人に機会がある。
だが、その機会を生かせる者は多くないかも知れない。
恵まれるためには、多分、ひとつのことが必要だ。
それは、自分が罪人であると分かっていることだ。
バステスマのヨハネが来て悔い改めを説いた(マタイ3:2)ので、そうと気付く機会は既に与えられている。
マタイは職業柄、パリサイ人からの責めに遭い、自分が律法を守ることの到底できない罪人だということに負い目を感じていたのかも知れない。
そのパリサイ人はというと、人には言うが、自分は律法をやり通していると思っている(マタイ23:13)。
そういう正しいと思っている人は、そもそも恵みを必要としていない。
律法の行ないそのものではなく、その律法を守り通せないという認識。
それが悔い改めであり、恵みをもたらすものである。
---
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イエスがマタイに声を掛けられる。
では、イエスは何故マタイに声を掛けたのであろうか。
取税人だからか。罪人だからか。
それもあるかもしれない。
あるいは、自分の取税人としての職務に忠実だったからだろうか。
なんといっても、たまたまイエスの目に留まったから、それでイエスはマタイに声を掛けられた。
それを恵みの世界という。
恵みは行ないとは異なり、すべての人に機会がある。
だが、その機会を生かせる者は多くないかも知れない。
恵まれるためには、多分、ひとつのことが必要だ。
それは、自分が罪人であると分かっていることだ。
バステスマのヨハネが来て悔い改めを説いた(マタイ3:2)ので、そうと気付く機会は既に与えられている。
マタイは職業柄、パリサイ人からの責めに遭い、自分が律法を守ることの到底できない罪人だということに負い目を感じていたのかも知れない。
そのパリサイ人はというと、人には言うが、自分は律法をやり通していると思っている(マタイ23:13)。
そういう正しいと思っている人は、そもそも恵みを必要としていない。
律法の行ないそのものではなく、その律法を守り通せないという認識。
それが悔い改めであり、恵みをもたらすものである。
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あなたの罪は赦された
「イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。
すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。
すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている。」と言った。
イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。
『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。すると、彼は起きて家に帰った。
群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。」(マタイ9:1-8)
---
「やさしい」は " easier " 、すなわち「易しい」であり、「優しい」ではない。
『起きて歩け』が成就する方が、 『あなたの罪は赦された』ことが成就するよりも、はるかに容易だ。
前者はごく少数であれ行うことができる。
だが、罪を赦すことができるのは神おひとりだからだ。
というより、罪を赦すのは、神の専権事項である。
さて、中風の人を床に寝かせて、人々がイエスのみもとに運んで来た。
彼らを見たイエスは、彼らにではなく、中風の人に「あなたの罪は赦された。」と仰った。
行いからいえば、罪赦されるのは運び屋の人々だろう。
しかし、イエスは何一つしていない中風の人に罪の赦しを告げ知らせた。
これこそが恵みなのである。
神がなされる罪の赦しは、もっぱらこの恵みによる。
そして、この罪の赦しのことが福音なのである。
今もイエスは天上から、罪の赦しを告げ知らせ続けている。
だからイエスはしばしば、「耳のあるものは聞きなさい。」と仰るのだろう。
---
[付記]
本日の記事は、2008年7月29日付記事に筆を加えたものです。
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すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。
すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている。」と言った。
イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。
『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。すると、彼は起きて家に帰った。
群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。」(マタイ9:1-8)
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「やさしい」は " easier " 、すなわち「易しい」であり、「優しい」ではない。
『起きて歩け』が成就する方が、 『あなたの罪は赦された』ことが成就するよりも、はるかに容易だ。
前者はごく少数であれ行うことができる。
だが、罪を赦すことができるのは神おひとりだからだ。
というより、罪を赦すのは、神の専権事項である。
さて、中風の人を床に寝かせて、人々がイエスのみもとに運んで来た。
彼らを見たイエスは、彼らにではなく、中風の人に「あなたの罪は赦された。」と仰った。
行いからいえば、罪赦されるのは運び屋の人々だろう。
しかし、イエスは何一つしていない中風の人に罪の赦しを告げ知らせた。
これこそが恵みなのである。
神がなされる罪の赦しは、もっぱらこの恵みによる。
そして、この罪の赦しのことが福音なのである。
今もイエスは天上から、罪の赦しを告げ知らせ続けている。
だからイエスはしばしば、「耳のあるものは聞きなさい。」と仰るのだろう。
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[付記]
本日の記事は、2008年7月29日付記事に筆を加えたものです。
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