信仰へと導く刺激

 「しばらく聖書以外のすべての宗教書を閉じてしまいなさい。また、聖書のなかでもキリストの言葉と行いのほかは、すべてさし措きなさい。その他のものは、魂の浄福を得るのに必要ではない、もっとも、ときには信仰の有益な支えや刺激となることはあるが。」
(「眠れない夜のために・1」、ヒルティ、草間・大和訳の2月7日より)

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 ひさびさにヒルティから。
 去年の6月21日が、ヒルティで書いた最後なので、約1年ぶりになる。

 「聖書のなかでもキリストの言葉と行いのほかは、すべてさし措きなさい」。
 つまり福音書こそが大切なのだ。
 このことには、私も全く同感である。
 福音書以外だと、せいぜいロマ書が参考書として重要な役割を果たす程度で、その他大勢は、それこそ閉じてしまってよい。

 閉じても何の差し支えもないことを試みるのも、いいかもしれない。
 イエスが何を仰ったか、イエスの十字架に至る道筋はどうであったか、復活とは一体どういうわけでなされた神のわざなのだろうか…。

 ただ、「魂の浄福」という難解な用語の意味を、私は理解できない。
 また、「信仰の有益な支えや刺激」とある。
 だが私は、信仰というのはあるかないかのどちらかしかないと考えている。
 信仰があるというのは、安定な状態(states)であるとも、思っている。
 だから、「支え」とか「刺激」というのは、信仰にとってなんなのだろう…、ちょっと想像が付かない。

 ただ、信仰がない状態のときに、ひどく大きな刺激が与えられることが、ある。
 その刺激によって、その人は信仰へと導かれる。
 その刺激は、宗教書や人のスピーチが与えるものではない。
 神が聖書を通して、その刺激をお与えになるのである。
 聖書、それも主に福音書によって。
 すると、なぜイエスが救い主なのかが、瞬時に理解できるはずだ。
 救い主であるために、どのようなわざをなさったか、ということも。
 イエスが何を仰ったか、イエスの十字架に至る道筋はどうであったか、復活とは一体どういうわけでなされた神のわざなのだろうか、これらのことを分かるようになる。

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[付記]
 おととい昨日と、ラジオ深夜便・心の時間でヒルティが取り上げられていました。京大名誉教授という人のお話でしたが、慌ただしく過ごしていた私は、ほとんど聞いていません。
 ですが、まあ何かの記念というか、今日はヒルティで行こうと考えました。

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神の道具

 「実生活においてしばしば、人々が我々に敵対して、あるいは味方して行動するのは、彼らが自由にそうするわけではなく、彼らを通じて我々に働きかけようとされる神の道具にすぎないことに気付いて、慰められる場合がある。だから、やれ敵だ、味方だと決めてかかるのは、たいてい、あまり大仰にとりすぎることになる。」

(「眠れない夜のために・1」、ヒルティ、草間・大和訳、岩波文庫の9月23日)

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 眠れない。
 打てる手は、打った。だが眠れない。
 しかたがないので、「眠れない夜のために・1」をぱらぱらと開き始める。
 いくつかの短文を読み終えた後、上の文章に出会った。

 彼の行為や態度がどのような意図に依っているのかを考えあぐねるのではなく、彼の行為や態度の中に神がどう働いておられるのか、そう考えることは自己中心的であろうか。
 自己中心的であろうが、そう捉えるとき、確かに事象について慰められることは確かだ。
 今日はいい意味で、慰められた。

 しかしそれにしても、眠気がやってくる気配すらない。
 薬剤を8粒も飲んだというのに。
 こんなにも特別なことなのだ、無論神が何かしら働いておられる。
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本当の義務と人生の任務

 「病的な状態は、あまりひどく気にしないでいると、ひとりでに消え去ることがよくある。……各地の療養所にたえず滞在し、無益な、心に慰めのない生活を送っている人たちもいる。このような人たちの多くは、ただ何かなすべき務めを教えてやりさえすれば、救われるであろう。つねに病気がちな人びとに実際に欠けているのは、むしろ本当の義務と人生の任務にほかならぬという場合が、かなり多い」
(「眠れない夜のために・1」、ヒルティ、草間・大和訳、岩波文庫の7月3日)

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 書きあぐねてぱらぱらめくって見いだした箇所。

 実際のところ、上にあるとおりだと思う。
 典型的な例だと、動悸。
 心臓に疾患がない場合には、「気にしない」ことによって、気付くと収まる。

 では、どのようにして「気にしない」ことができるようになるのか。
 「本当の義務と人生の任務」に打ち込むことによって、だ。
 「本当の義務」とは、「神の国とその義」(マタイ6:33)。
 「人生の任務」、これは多分、望むと望まざるとにかかわらず、今与えられている「仕事」のはずだ。「職務」とか「職分」と言い換えてもいい。

 療養所にいるのであれば、出て、「神の国とその義および職分」に打ち込むことを強く勧める。

 「療養所」、それは病院のような狭義のものではない。
(実際に心臓に欠陥がある人には、やはり病院で休んで欲しい。)
 もちろん、「病的な状態」というのも、狭義のものあるはずがない。
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浄化

 「我々は、時として、自分がどんなに強く浄化され、どのような方法で浄化されたいかをみずから選ぶことができる。しかしそのうちに、品性の純金は、ただ強度の、しかも度重なる精錬によってのみ得られるものだということを、はっきり悟るにちがいない。
 病気は、それが正しく理解され善用されるならば、心の純化に到達する、手っとり早い方法である。」
((「眠れない夜のために・1」、ヒルティ、草間・大和訳、岩波文庫の1月1日)

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 試練は、人を浄化させその人の品性の純度を更に高くする。
 というよりか、「試練によってのみ」といっていい。
 ヒルティは更に、「度重なる精錬によってのみ」とまで言っている。

 試練は人を汚濁するものではない。その人の品性を劣化させるものではない。
 試練に対して試練として望むならば、浄化し、品性を増させる。
 この試練から逃避することは、簡単だ。しかし逃避はその人を汚濁させ劣化させてしまう。

 病気という試練も、快癒を信じて堪えるならば、ヒルティが上に書いたようなものだろうと思う。
 そう、試練は「快癒」するがためにあり、それを信じて試練のさなかを突き抜けるプロセスこそ、浄化と品性の増大をもたらす。
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仕事(その2)

 「たえず何か有益な仕事をし、あせったり、心配したりしないこと。
 (中略)
 あまり働きすぎてはならない。また、一般に、秩序ある暮らし方をすれば、その必要もない。一方、適度な仕事は、力を維持する最上の方法であり、また非活動的な力やたるんだ力を救う唯一の、無害な刺激剤でもある。」
(「眠れない夜のために・1」、ヒルティ、草間・大和訳、岩波文庫の1月3日)

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 「自分のしている仕事の『意味』って、何だろう……」。
 デスクワークの僕は、そういうわけでそんなことをしばしば考える。
 この「問い」に「こたえ」は、ない。
 「こたえのない問い」を考えるヒマさ、というか、デスクでぐにゅぐにゅやってると、やはり煮詰まってしまうもので。
 今日は、全くのまぐれで有用な昔の論文を見つけ、さらにぐにゅぐにゅしているうちに定時になったので、さっさと途中で切り上げた。
 帰宅し、クリーニング屋に行き、風呂を入れ、云々の家事。
 体を動かすので、これで少しバランスが取れる。

 仕事、それは「たるまない」がためにあるもののように思う。
 職場でのそれ、家でのそれ。
 もちろん働きすぎないことは大前提だ。

 全ての仕事は、意味はともかく、意義深い。
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仕事

 「たえずなにか有益な仕事をし、あせったり、心配しないこと。また、われわれが出会う事柄やわれわれの気分を、つねにみずから支配し、決してそれらに支配されないこと。」
(「眠れない夜のために・1」、ヒルティ、草間・大和訳、岩波文庫の1月3日)

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 このごろは小川洋子の著作にのめり込んでばかりで、すっかりとおのいていた(学生時代に太宰を読みふけったとき以来ののめりこみようだ)。
 だから、(昼休み以外では)随分とひさしぶりに聖書やその周辺を読みふけっていたことになる。

 上の短文は、2つの文章から成り立っている。
 後半は、平たく言えば、「気分に振り回されるな」ということだと思う。
 しばらくの間この2つの文を眺めていて、両者が一体不可分であることに気がついた。
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慰め

(1)
 「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)

(2)
 「慰めは苦しみのすぐかたわらにある。これは、神が、ほかのだれよりも、このようなみずから進んで苦しみを堪え忍ぶ人びとのそば近くにいられるということである。そこで、彼らには苦難そのものが実に甘美な、堪えやすいものとなるばかりでなく、すべてのことがよい結末を得るのである。
 このような慰めがなければ、だれもあの「狭い道」を歩みえないであろう。すでに多くの人が多くの苦しみのなかにありながら、この慰めを得て幸福であった。」(「眠られぬ夜のために・1、ヒルティ、草間・大和訳、岩波文庫の1/9)

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 「慰めは苦しみのすぐかたわらにある」。
 日本のことわざにも、「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」とある。
 四方八方暗黒に覆われているわけではない。
 「慰め」が必ず、それもすぐ脇にあったりする。
 私自身も何度も経験したことだし、多くの人々もそうだろうと思う。
 そのことを繰り返してこそ、この「狭き道」を全うできよう。
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執筆不可能な伝記

(1)
 「すべての人間の生涯に非常に多くの神秘的なものが含まれているので、ある点からすれば、完全に真実な伝記などは世になく、またありえない、とも主張することができよう。すくなくとも私は、自分の真実の重要な体験のかずかずを、全く真実のままに、しかも他人にも理解できるように表現するとすれば、どうしたらいいかわからないようだ。」
(ヒルティ、「眠られぬ・1」、草間・大和訳、岩波文庫)

(2)「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16:24)

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 私は伝記を書いてもらうような「たいそうな人」ではないので、仮に、歳を取ってのち、自伝を書くことにしよう。
 すると、「今までの私の」生涯の中だけでも、上のヒルティにあるように「真実のままに、しかも他人にも理解できるように表現するとすれば、どうしたらいいかわからない」としかいいようのない事項が、どんなに少なくとも2つある。
 ヒルティは上に「すべての人間の生涯に」と書き出しているのだし、このようなことはことの大小はあれどの人にもあるかも知れない。ただ、宝のようなこれらのことを、「些末な問題」として無視してしまう人が大勢なのかも知れない。
 上に私について「どんなに少なくとも2つ」と書いたが、この「2つ」はあまりに突出しており、実に、全くもって「真実のままに、しかも他人にも理解できるように表現しようと」すればするほど、頭を抱え込んでしまう。
(1つは、「その時」に書き遺そうと試みたのだが、全くもって無理だった。)

 さて、そういうこともあって、自分は「誰の者とも全く異なる人生を歩んでいる」、そのように実感を持って感じる。
(これ自体は誰だってそのはずだ。)
 それでマタイ伝の聖句を上に引用した。「自分を捨て」はまだまだだなのだが、「自分の十字架を負い」、ここが「誰の者とも全く異なる人生を歩んでいる」部分だろう。

 この道が平らかなものとは言えず、寧ろ険しい(参/マタイ7:13「狭い門からはいりなさい」)。
 そしてこの険しさ、これを受け入れざるを得なかった。
(あるいは後に平らかになるのかも知れないが、イエスの公生涯は平らかさからは程遠いものであった)。

 ただ「誰の者とも全く異なる人生」を歩み続けるということ、それ自体にはとても感謝している。
 この道を歩み続けるためには、きちんと記述しようがない出来事群という「担保」、この「支え」の手助けを、しばしば借りる。
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死んで、生きる

「 深 き 底 よ り

 今や近づく、うみの大波とむざんな死が。
 まことにおまえは地獄の門の前に来た。
 古き人は断末魔の苦しみにあり、
 生まれたばかりの新しき人はなお苦しげに吐息する。
 ……」
(「眠られぬ夜のために・1」(ヒルティ著、草間、大和訳、岩波文庫)、4月1日の箇所に掲載された詩から)

 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。(ローマ6:4)

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 ヒルティの本を、再度読み進めてみた。
 3年前に読了した時に感じた「色彩」とは、随分と違う「色彩」を感じる。
 大方の記述が、もはや自明 ( trivial ) に思え、随分と頷いた。
 上記引用詩、分けても「生まれたばかりの新しき人はなお苦しげに吐息する」のくだりに差し掛かったときには、万感の思いすらこみ上げてきた。

 そう、万感の思い。
 なぜといって、第一に、「今の私」は「苦しげに吐息」してむしろ当たり前のように思え、かえって大いに安んじることができたから。
 第二に、ヒルティがいわゆる「恩寵の選び」(ヒルティの著作に頻出する)にあずかったことについて、その確信をずっと深めることができたから。

 「古き人は断末魔の苦しみにあり」。
 3ヶ月半前は、ほんとうに苦しかったものだ。
 しかし、死んで、生きる。
 どこまでも徹底的に死ぬと、不思議なもので、生きる。
 上に引用したローマ6:4は、このような意味ではなかろうか。
 ただ、「死んで、生きて」も、「人間の根っこ」が丸ごと変わるものでもないと思う。
 ルターを評して「あまりに傲慢」、これは高校世界史の教科書にある記述だ。
 ではこの「傲慢さ」をどう生かすか、ここが焦点となろう。

 話を戻して、「生まれたばかりの新しき人はなお苦しげに吐息する」。
 この「苦しみの息」が続く時期を、「総決算期間」とでも呼んでみよう。
 換言すると、「死んだ自分のお葬式」、これを長々とやっている、また、「死んだ自分のケツを拭い続ける時期」とも言えると思う。
 「『総決算』、それは11月はじめの3連休」、勝手にそう計画を立てていたら、神はそんな勝手な計画なぞ赦してはくれなかったようで、どんなに早くとも年末いっぱいまでは掛かる案配だ。
 するとまだしばらくは息苦しい日々は続き、しかしながら上に書いたように goal はおぼろげに見えているので、それで堪えることができる。

 ちなみに上の「恩寵の選び」については、アウグスティヌスの「告白」以上にまさった著作はなかろうと思う。ヒルティも、ストレートに書くことは全くできなかった。
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良い生活

 「実際キリストはこの世でただ急いで苦しみを受け、そして死なねばならなかったばかりでなく、なおその前に生活をされて、サドカイ人の現世的信仰やパリサイ人の教会主義では行えないような良い生活ができることを、またどうすればそれができるかを教えなければならなかった。この点を、すなわち、このような生活を、われわれはキリストにならうべきであり、また同時に、われわれの負うべき苦難と試練の分け前を忍耐をもって受け取り、彼に従ってそれに打ち勝たねばならない。」
(ヒルティ、「眠られぬ夜のために 第一部」(草間・大和訳、岩波文庫)、2月2日の項より。)

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 ある人にメールをしたためようと思い、すると「眠られぬ・1」の中にあることばを引用したくなって、読み始める。
 本末転倒になってしまい、もっぱら読みふけってしまった。
 読みふけったさ中、書き留めたく思ったのが冒頭の文章。
(ちなみに、「引用したく思」った文章も、無事見つかった。)

 「良い生活」とある。

 ここで問われるのは、もっぱら「何が『良い』か」という価値基準だ。
 ヒルティが消去法によってまず否定しているのが、「サドカイ人の現世的信仰」、それと「パリサイ人の教会主義」である。

 話が飛ぶようだが、やはりほんじつ再読していた「余は如何にしてキリスト教徒になりし乎」の中に、こうあった。
 「異教国以外の『国々』に(註:!)かくも普通に行われている金銭万能主義(マモニズム)や…の恐ろしい祟り(たたり)の多く……」(岩波文庫版ではp.14)
 マモニズム、これを今の私はもっぱら「マテリアルワールド」と呼称しているが、指さすものは同じだ。
 「良い生活」ということに関して、これもやはり消去法にて否定したい。

 ヒルティは続いて書いている。
 「どうすればそれができるかを教えなければならなかった。」
 まさしくその通りと思う。
 福音書でのイエスの行いやおことばを、「もっぱら文脈を意識して捉えることによって」、「これら」に倣う。
 処方箋や方程式の類で即物的に得ることができる類のものでは、凡そない。

 さらに続けて筆を進める。
 「また同時に、われわれの負うべき苦難と試練の分け前を忍耐をもって受け取り、彼に従ってそれに打ち勝たねばならない。」

 そう、「苦難と試練」の類は、寧ろあって当然だ。
 そして、いかにして「それに打ち勝」つか、ここが焦点だろうと思う。
 「打ち勝」った結果それ自体は、どうでもよい。
(やれやれ、と安堵の息をつくことは佳きこととして、「安堵の息」をつく「行為自体」には実に何の意味もない、と書けば「とおり」がよかろうか。)
 「彼に従って」、即ち、ただひとりで堪え忍んでいるわけではなく、イエス、神であられるこの方と共に耐え続けている。

 そうこうしていると、気付くと「ほんとうに良い生活」、真の満足を得ることができるだろう(マルコ4:26-29参照、特に28節)。
 私はやっと、この間口に立つことの叶ったものにすぎない。
 「まだ間口」にすぎないので、まあ「いろいろ」とあるのだが、そういうものと割り切っている。
 「よい生活」のおとづれを目指して、今日も歩む。

[註:!の箇所]
 内村鑑三が「キリスト教国でのマモニズム」を指摘しているこの書物は、「序」が1895年に記されたものだ。ということは、ここでいう「キリスト教国」は、おのずとアメリカになる。
 他方、ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を世に生み出したのは1920年、実に四半世紀後のことである。
 これは内村鑑三が優れていたとか日本人に先見の明があった、ということでは全くなく、単に「外側から見るとよく見える」という、至極当たり前のことにすぎない。
(内村鑑三という一日本人にとって、アメリカは「外側」だ。)
 それほどに己のことは分からないものであり、それを思うにつけ、「キリスト教圏の住人」たるウェーバーがよくぞ気付き体系的に書き表したものだ、と更に尊敬の念を深くする。
 なお、私はアメリカからもかなり多くの恩恵を受けているという考えの持ち主であることをお断りしておく。
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