不条理

 「ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。
 しかし、過越の祭りに、私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。」
 すると彼らはみな、また大声をあげて、「この人ではない。バラバだ。」と言った。このバラバは強盗であった。
 そこで、ピラトはイエスを捕えて、むち打ちにした。」(ヨハネ18:38-19:1)

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 ピラトはイエスに罪(guilty)を認めないと宣言する。
 ところが群集が騒ぎ出すと、一転してイエスを捕らえて鞭打ちに処する。
 罪がある(guilty)から鞭打ったのではなく、そうするしか事態の収拾のメドが立たないとピラトが判断したからだろう。
 お白砂の場がお白砂として最早機能せず、大強盗が釈放され、イエスが鞭打たれて罰せられる。

 この理不尽さ、不条理を、罪(sin)のないイエスが甘んじて受けている。
 それは私たちが味わうそれら理不尽さ、不条理と全く同じ類のもので、私たちは、法その他に触れているわけでもないのに鞭打たれることがままある。
 神の子イエスは今、人間の不条理をも体験してくださっている。
 世の不条理が身に染みている神、私たちのすべてを分かってくれている神なのである。

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[一版]2011年 5月29日
[二版]2014年11月30日

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イエスを否むペテロ

 「大祭司のしもべのひとりで、ペテロに耳を切り落とされた人の親類に当たる者が言った。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました。」
 それで、ペテロはもう一度否定した。するとすぐ鶏が鳴いた。」(ヨハネ18:26-27)

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 多くの人に有名な聖書箇所。

 ヨハネ福音書には書いていないが、鶏が鳴いたときにペテロは激しく泣いている(マタイ26:75)。
 師であるイエスを否定し結果的に裏切ったという悔いの気持ちであろうか。
 イエスの言ったことを思い出して、自分を恥じているのであろうか。
 そういうことをみな含めて、いろいろな気持ちがないまぜになって、それで号泣しているのかもしれない。

 もしも私がこのペテロの立場にあったとしたら、ペテロと同様、やはりイエスを否定する。何度でも否定する。
 もしイエスの弟子だなどと正直にいったものなら、どうなるか明らかではないか。
 我が身はかわいい。しかしこれは、人間の肉の弱さの部分である。

 イエスはこれから十字架に架かって死に、三日目によみがえる。
 イエスを信じる人々の罪、すなわち肉の弱さに御父の赦しを与えて「いのち」を与えるためである。
 そのことを信じる私たちは、この肉の弱さを赦されている。律法を守れない弱き肉であっても、義とみなされている。

 イエスはペテロのこの裏切りを、あらかじめペテロに予言している。
 ペテロであろうが私であろうが、誰であろうが、捕らえられたイエスを否むであろうことは、私たちの肉の弱さからして容易に予想が付く。
 だから、イエスのあの予言は、否むであろうペテロを責めたのではなく、むしろペテロの弱さを赦したものではないだろうか。
 ペテロの号泣は、もしかすると、その赦しに気付いたからなのかもしれない。

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信仰を与えられるということ

 「正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。
 そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」(ヨハネ17:25-26)

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 イエスの祈り。

 信仰とは、自分で取得する類のものではなく、信じさせられるものだ、このことを何度か書いてきた。上の聖書箇所も、その信仰についてである。

 まず、弟子たちは「あなたがわたしを遣わされたことを知りました」、つまりイエスが知らせたから弟子たちはイエスを神と分かった。自分自身で分かったのではない。
 神性ということについて、頭の中であれこれ考えをめぐらしてみても、それはどこまで行っても机上の空論の域を出ないことが明らかである。
 イエスは恵みによって、私たちにお会い下さる。そのときに私たちはその神性を悟らざるを得なくなる。サウロ(パウロ)を思い起こせば、このことは明らかだ。

 また、そのときに神の御名が知らされる。
 これも字義通りに受け取るべきではない。「ヤハウェ」という名詞を知っていても、それ自体は何の意味も意義もない。
 そうではなく、神の実在と統御、これをイエスを介して遂に認めざるを得なくなるのである。

 神の愛とはこのイエスがお会い下さることを言うのではないだろうか。なにしろ私たちはこのときに罪赦されて世から救われるのだ。

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『この世のものでない』人々

 「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。
 彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。
 わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
 真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。
 あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。
 わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。
 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。」(ヨハネ17:14-20)

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 イエスの祈り。

 「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。」
 彼ら、すなわち弟子たちは、この時点ではまだ世に属している。
 後に復活のイエスという真理が彼らを聖別して、弟子たちもこの世のものではなくなる。
 そのことは、「彼らのことばによってわたしを信じる人々」、すなわちイエスのお姿を見ておらず、ただ聖書越しに想像するしかない私たちについても当てはまる。
 イエスのお姿を見ていなくとも、復活のイエスに出会って聖別されるのである。
 その恵みによって、イエスを信じることとなる。
 その人は、もはやこの世のものではない。この世で生きていながら、この世のものではなくなるのだ。
 それで世は、その人を憎む。
 世がイエスを憎んだからだ(参/ヨハネ15:18)。世は弟子たちも憎んだ。

 イエスは、これら「この世のものでない」人々を、「この世から取り去ってくださるように」父に願うことは、けっしてしない。
 人間に安逸な逃避をさせるためにイエスが十字架にかかる訳ではない。
 かえってイエスが与えた「いのち」は、世の憎しみその他諸々を引き受けて世を全うし、イエス同様世に打ち勝つ、そのためのものなのだ。
 それでイエスは、「悪い者から守ってくださるようにお願い」して、私たちを愛し応援して下さっている。

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[1版]2008年 4月27日
[2版]2011年 5月18日
[3版]2014年11月 3日

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