親切なおこない、親切な性質

 「すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」(マタイ25:37-40)

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 イエスのたとえ話。長いのでその一部分だけ引用。

 ここに書いてあることはみな、親切についてのことだ。
 ただ、親切な行為についてではなく、親切な性質についてである。
 こういうものは咄嗟の時に露わになるもので、そのようなときに人間の性質の地が出る。親切かそうでないか。

 天の御国にポイントカードはないので、様々の親切を積極的に行ってポイントをこまめに稼ぐかのようなことには何の意味もない。
 ひきつった笑顔の親切。
 相手のことなど、何も考えていない。これはむしろ、偽善なのだ。
 大体、ポイント目当ての親切のおこないなんて、相手にも見透かされてしまうだろう。

 しかし、地の部分そのものが親切になることがある。
 それは救いによってであり、救いそのものによってというより、救いの過程においてかもしれない。
 自分が律法に照らして神の御前に罪人であると分かった人は、自分の内側を見つめずにはいられない。それも、いやというほど。
 このように内を穿って穿ったことのある人ほど、人の辛い気持ちもよく分かるのではないかと思う。おのずと親切な性質へと変容するだろう。

 ポイント集めに精を出すのだったら、まずは何故自分が罪深いのかに気づくことの方がずっと早道に違いない。

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マタイ効果

 「というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。」(マタイ13:12)

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 「理系白書」(元村有希子 著、毎日新聞社)という本を読み進めてゆくと、「マタイ効果」という言葉に突き当たった。
 この「マタイ効果」というのは、「サイエンス」誌や「ネイチャー」誌といった著名科学雑誌に自分の論文が掲載されると研究費獲得上きわめて有利に働くが、掲載されなければ予算上死活問題になるということを指しているとのこと。
 マタイ福音書に上の引用聖句が載っているのが、命名の理由という。
(ちなみに、マタイ25:29、マルコ4:25,ルカ8:18、同19:26にもある。)
 「効果」と付くのは研究者ならではの遊び心だろう。
 ただ、それを言い出したら、資本主義というのはマタイ効果そのものだ。特に、昨今の新自由主義において著しい。
 聖書で「持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまう」とあるのは、資本主義社会を指すわけでも、また研究費獲得についての法則性を言うのでもない。

 「持っている者」は、かつては「持たない者」だった。
 そしてあるとき、持つに至った。
 この持つに至った者は、「さらに与えられ」る。
 どんどん与えられる。
 何がだろうか。
 「いのち」とそれに関わることだ。
 一方で、持つに至らない「持たない者」は、あれこれ見当違いの方向に迷って次第に見失って行くうちに、もともと蒔かれていた種さえついには失ってしまう。

 持つに至る、決定的な「あるとき」というのがある。
 それは、自力でつかむものではなく、上から恵みによって与えられるものである。

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[一版]2008年 2月 7日
[二版]2010年 7月 9日
[三版]2013年12月30日(本日)

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『待つ』という灯

 「ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。
 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
  しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。
 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」(マタイ25:6-13)

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 約束通り、ついに花婿が来た!
 賢い娘は花嫁を迎える準備が出来ていたが、愚かな娘は出来ていなかった。それも全くできていなかった。
 愚かな娘は祝宴に入れてもらえず、賢い娘が花婿と共に祝宴に行った。

 しばしば9節が問われる。賢い娘は冷たい等。
 だが、花婿(キリスト)との出会いに関しては、個々人の謂わば待ち続ける心構え如何なので、助け合いとか親切心は何の役にも立たない。
 イエスが会いに来るということは一生に一度あるかどうかのことなので、この『待つ』という灯を消すことこそ愚かなことはない。
 さらに愚鈍な娘は、持ち場を離れて店に買い出しに行ってしまう。

 復活のキリスト・イエスは、「いのち」というプレゼントを携えて私たちのもとにおいで下さる。
 ただ、いつ来られるのかが分からない。
 だからこそ、罪の赦しに飢え乾いている私たちは、待ち続けること、待ち続ける忍耐が求められる。

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[一版]2010年 9月 4日
[二版]2013年12月29日(本日)

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最後まで耐え忍ぶ

 「そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。
 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。
 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。
 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。
 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」(マタイ24:9-13)

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 イエスの黙示より。

 大切なことは、「最後まで耐え忍ぶ」ということだ。
 何を耐え忍ぶのかというと、この時代を、である。
 今が「最後」かどうかは、誰にもわからない。未だ「最後」ではないかもしれない。2次大戦ですら、「最後」ではなかった。
 人々から愛が消えても、憎まれたり苦しいことがあっても、それらは最後へ向かう過程かもしれないが、「最後」のしるしそれ自体なのかどうかはわからない。復活のイエスにもわからない。

 だが、「最後」は来る。必ず来る。
 それから、その最後の後も来る。
 最後の後のことに思いを馳せて、それまでの間耐え忍ぼう。必ず報われる。

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白く塗った墓

 「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、
 あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」(マタイ23:27-28)

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 私の内側は、偽善と不法でいっぱいだ。
 それは、昔も今も変わらない。
 殺人に姦淫に、数え上げたらきりがない。
 それは何に照らして判断するのかというと、律法に照らして、特にイエスの律法に照らしてである。
 山上の説教でイエスが示した律法解釈の前に、偽善者でない者、不法のない者など、ただの一人もいなくなってしまう。
 そのことが頭から胸へとすとんと落ちたときの衝撃は、言葉に表すことができない。
 しかし、この「すとん」によって初めて自らの罪深さというスタートラインに立つのである。

 イエスはこれから十字架に架かって、自らの肉を処断する。
 そのイエスは復活して、その処断が御父に認められる。
 このイエスの肉の処断を恵みによって信じることができれば、その人は罪赦されて「いのち」を賜る。
 罪がなくなるのではない。赦されるのである。
 であるから、汚らしい内側を隠そうと外側を白く塗ったくって装っても何の解決にもならない。
 汚らしい内側そのものが、十字架と復活の主イエスへの信仰によって救済されるのである。
 私の内側は、偽善と不法でいっぱいだ。それは、昔も今も変わらない。

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[一版]2010年 8月15日
[二版]2013年12月27日(本日)

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神のこと、世のこと

 「そのころ、パリサイ人たちは出て来て、どのようにイエスをことばのわなにかけようかと相談した。
……
 それで、どう思われるのか言ってください。税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」
 イエスは彼らの悪意を知って言われた。「偽善者たち。なぜ、わたしをためすのか。
 納め金にするお金をわたしに見せなさい。」そこで彼らは、デナリを一枚イエスのもとに持って来た。
 そこで彼らに言われた。「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」
 彼らは、「カイザルのです。」と言った。そこで、イエスは言われた。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」
 彼らは、これを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。」(マタイ22:15,17-22)

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 世の知識には世の知識で対抗するイエス。

 パリサイ人の言っていることは、ここでいう「ことばのわな」というほどのものでもない。
 神の律法とローマ法とは、分けて考えるものだろう。
 というのは、ローマ法がローマの治世のためのものであるのに対し、神の律法は私たちの内にある罪を指弾するためのものだからである。
 つまり、納税とささげものとは性質が全く異なるので、カイザルに税金を納めることと律法とは、何ら矛盾しない。
 まさに「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」の通りである。
 これは、この世での理屈にすぎない。

 むしろ、物わかりの悪いパリサイ人にこのことをどう明快に示すかということに、イエスの頭の切れ、回転の速さ、想像力などが示されている。たとえば、デナリ通貨を用いたところなど。
 神の子イエスに頭の切れ云々というのは大きな違和感があるのだが、この世ではその類の能力がやはり必要なことを私たちも日々の営みの中で体感している。
 「蛇のようにさとく」(マタイ10:16)も、その意味と同じと思われる。
 神のことは神のこととして臨み、世俗のことは世俗のこととして臨む、イエスの言葉を借りるとこういう言い方になるだろうか。
 ただ、この世では神のことに著しく反することがある。たくさんある。
 そういう局面でこそ、内なる助け主が人知を超えて私たちを誘導してくださる。

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招待される者、選ばれる者

 「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。
 王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。
……
 王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。
 そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。
 だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』
 それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。
 ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。
 そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。
 そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。
 招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」(マタイ22:2-3,7-14)

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 王子結婚の披露宴のたとえ。

 招待していた人々、すなわちモーセの座を占めていた人々は、ふさわしい人々ではなかった。
 そこで王様は、通りに出て誰彼構わず招き、宴会場はいっぱいになった。
 このように、招待される者は非常に多い。
 誰でも招かれ、宴会場に入ることが出来る。
 モーセの座の人々にしても、もとから招待はされていた。

 ところがその宴会場の中に、礼服を着ていない者がいた。
 ここは王子結婚の披露宴なのであるから、彼の非礼は明らかである。王様の怒りは当然だ。
 礼服を着ていなかった彼は、招待されはしてもそこにふさわしい者ではなかったので選ばれずに放り出されてしまった。

 このたとえ話の中で、礼服非着用の彼が選びから真っ先に除外された理由は、比較的理解しやすい。
 では、「招待される者は多いが、選ばれる者は少ない」とあるのは、何によって選ばれるのであろうか。
 それは、ただ恵みによってである。
 そしてもう一つ、その恵みを祈り待ち続けることが必要ではないだろうか。
 礼服非着用というようなぞんざいな姿勢では、やはり恵まれないのだろう。

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[一版]2010年 7月30日
[二版]2013年12月22日(本日)

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「家を建てる者たち」と「見捨てた石」

 「イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』
 だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」(マタイ21:42-43)

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 「家を建てる者たち」と「見捨てた石」との関連について。

 この当時は、パリサイ人やサドカイ人が「家を建てる者たち」、すなわち祭事を一手に仕切っていた。
 自分たちが神の御心に沿っていると思いこみ、たとえば安息日警察なども買って出る(それこそ何の権限があるのだろうか)。
 そのような彼らから罪人呼ばわりされた取税人や遊女、彼らが「見捨てられた石」だ。
 家を建てる者からすら見捨てられる立場の方が、自身の内面を見つめて罪を見いだし、その罪を悔いる機会が多いことは明らかである。少なくとも、安息日警察のように他人をあげつらってばかりいるよりは、ずっと悔い改めの機会は多い。
 そして神の国は、悔い改めない人よりも悔い改める人のものであり、取税人たちはその神の国の礎の石となるのである。

 これは2000年前のことなのだろうか。
 そうではない。
 「家を建てる者たち」あれば「見捨てられた石」あり、そしてその「見捨てられた石」こそが神の国の実を結びうるのは、今に至るまで変わらない。
 神の国の実を結ぶために大切なことは、悔い改めに至ることだからである。

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イエスの人間くささ

 「翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。
 道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。」(マタイ21:18-19)

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 何度でも書くが、イエスは人間の肉をまとった神である。
 だからこそ、イエスが十字架に架かったことに大きな意味がある。神が肉を自ら処罰したのだ。
 それはさておき、肉を持つイエスは腹が減った。

 いちじくの木が見えたので実を食べようと近づくと、そこには葉っぱしかなかった。
 実は落ちてしまったのか、それとも、先客が食べてしまったのか。
 イエスはむっときて、そのいちじくの木をたちまち枯らしてしまう。

 この、いかにも人間くさいところが、イエスが肉をまとっている所以である。
 イエスが一時期の感情に身を委ねていちじくの木を枯らしたというのは、正に私たちと同じ性質ではないか。
 公生涯を送っておられるイエスは、肉を有するという点で私たちと変わることがない。
 それゆえに、その肉を自ら処罰して復活したイエスは弱い私たちのことを理解でき、そして大いに恵んでくださるのである。

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[一版]2010年 7月28日
[二版]2013年12月20日(本日)

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怒るイエス

 「それから、イエスは宮にはいって、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」(マタイ21:12-13)

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 宮清め。

 イエスは、怒っている。
 祈りの家であるべき宮が、強盗の巣に成り果ててしまっているからだ。
 これは神の御怒りなのだろうか。
 個人的には、人間と同じ肉をまとったがゆえの、私たちと同様の怒りではないかと思う。
 イエスは時々怒る。例えば、マルコ10:14「イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。」。また、マタイ23章は丸ごと「怒りの章」と言ってもいいだろう。
 公生涯において、イエスは我々人間と同様、きわめて人間的に怒っている。
 それはイエスが、人間の肉をまとっているからに他ならない。

 イエスは、時に憤り怒る人間の肉の弱さを、身をもってわかっている神である。
 だからこそ、復活のイエスは私たちに同情できる大祭司(ヘブル4:15)として、神と私との間をとりなして下さるのである。

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[一版]2010年 7月27日
[二版]2013年12月18日(本日)

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